才能か?努力か?


 まずショックレーという人の話しから始めたいと思います。ショックレーは半導体工学の創始者の一人で、この分野の研究者なら知らない人はいません。この人は、同じ研究所(USAのベル研)の同僚二人と、1947年にトランジスタを発明し、その功績により1956年にノーベル物理学賞をもらっています。しかしそう言っただけでは、この人のすごさをちゃんと言い表わしたことにはならないと思います。半導体についての歴史を見てみると、実験的な発明発見が先行して、理論はあとからついていく、あるいは理論はまったくついてきていない、という時代が続いていました。たとえば十九世紀の終わり頃にダイオードや太陽電池的な素子が発明されているのですが、いずれも偶然できてしまっただけで、なぜそんな動作をするのかまったく理解ができていませんでした。そして実は最初のトランジスタの発明でもその事情は変わりませんでした。人類初のトランジスタを作ったとされているのは、ショックレーと同時にノーベル賞を受賞した二人の同僚、ブラッデンとバーディーンなのですが、その最初のトランジスタ(点接触トランジスタといいます)もたまたまできてしまったというところがあって、その動作原理も実はよくわかっていなかったし、たぶん今もってあやふやなのです。しかしショックレーの発明したトランジスタは違います。ちゃんと理論が作られ、その通りに作ったら素子は理論通りに動いた。つまり、半導体の世界では、ショックレーの頭の中で初めて理論が現実を追いこしたのです。だからショックレーという人は、掛け値なしに、とてつもない天才だと言っていいと思います。ショックレーの発明はその後発展し、今の私たちの社会を支えているトランジスタや集積回路になったわけですが、それらの根本的な原理は彼のアイデアから一歩も出ていないと言っていいと思います。
 と、このようにショックレーは偉大な天才だったわけですが、しかし人間としてはどうも大いに問題ありだったようです。彼はトランジスタの発明後、それまでの職場であるベル研究所から独立して「ショックレーセミコンダクター」という会社を作り、全米から優秀な研究者を何人もスカウトします。ところが、彼の性格の悪さに部下たちはすぐに耐えられなくなり、わずか数年後には次々とショックレーのもとを去っていきました。(その中にノイスとムーアがいました。やがて彼らを中心にして新たに設立された会社がインテルです)ショックレーが半導体工学・物理学における最高のスーパースターでありながら、その後の半導体産業の発展の歴史においていま一つ影が薄いのは、彼の人格が原因だったと言えそうです。
 ところでショックレーはノーベル賞受賞から三十年以上たった1980年代に、もう一度世間を騒がせます。そのてん末が「ジーニアス・ファクトリー 」(文庫版のタイトルは「ノーベル賞受賞者の精子バンク」)という本に詳しく書かれています。
 発端は、1980年にロバート・グラハムという人が設立した精子バンクでした。精子バンクというのは精子を集め貯蔵しておいて、子どもが欲しい女性に提供するというシステムというかビジネスで、アメリカにはたくさんあるのだそうです。ただ、このグラハムという人の精子バンクが他と違っていたのは、優秀な子どもを誕生させるために、特に優秀な人の精子だけを集めようとしたという点です。この人は、優秀な人間の遺伝子をもつ子孫をたくさん誕生させることでこの世の中をよりよいものにすることができる、と大まじめに考えていたのです。
 しかしここでいくつも疑問がわきます。
 優秀とはどういうことか、何を尺度に測るというのか?
 そもそも「優秀」な人物の精子から生まれた子どもは本当に同じように「優秀」になるのか?
 仮に「優秀」な子どもが生まれるとして、そのことに倫理的な問題はないのか?
 これらの疑問について考えるのは後回しにして、実際にグラハムがやったことを見ていきます。何をもって優秀というのか、という問いに対してこの人が出した答えは「ノーベル賞」でした。ノーベル賞受賞者の精子を集めた精子バンクを作る、とぶちあげたのです。たしかに、この"ノーベル賞受賞者の精子バンク"というキャッチフレーズは組織をアピールする看板として効果絶大で、グラハムの精子バンクは"ノーベル賞受賞者の精子バンク"として有名になります。しかしそういう看板をかかげていたにもかかわらず、実際にはノーベル賞受賞者の精子はほとんど集まりませんでした。そして、その原因となったのがショックレーなのです。
 ショックレーはもともと人種差別主義者でした。ただそれは、黒人が憎いから、というわけではなく、黒人の方が能力が劣っている、これは遺伝的問題であり教育で矯正することはできない、だから彼らの数を減らすべきである、というような、彼なりの(独善的な)論理に基づいていたといいます。そのような考えの持ち主であるショックレーに、"ノーベル賞受賞者の精子バンク"のグラハムがアプローチします。そしてもちろん、二人は意気投合します。
 先ほど、何をもって優秀というのか、という問いを示しました。その答えとして人種を持ち出せば、それは人種差別主義になるわけです。○○人は優れている、××人は劣っている、極端な場合、だから××人は抹殺すべきである、となります。(ナチスドイツでのユダヤ人の例はあまりに有名です)
 グラハムは首尾よくショックレーの精子を手に入れます。そして、ショックレーがグラハムの精子バンクの提供者(ドナー)であることが公表されます。精子のドナーの名前は公表されないのが普通ですが、ショックレーがある雑誌記者の取材に応じて自分がドナーであることを明かし、グラハムの理念を絶賛したのです。
 なにしろショックレーは超有名なノーベル賞受賞者ですので、その雑誌記事は"ノーベル賞受賞者の精子バンク"のよいPRになった、かというと、実はまったく逆効果でした。ショックレーはノーベル賞受賞者としてだけでなく、過激な人種差別主義者としても有名でした。テレビに出演して、とくとくと独りよがりの人種差別理論を語る、というようなことまでしていたのだそうです。そのショックレーがドナーの一人であるとわかって、グラハムの精子バンクにも人種差別主義とのレッテルが張られます。実際はグラハムという人は人種差別主義者というわけではなかったようなのですが、かといって反人種差別主義者でもありませんでした。ともかく、ショックレーのおかげでグラハムの精子バンクは一気に有名になると同時に、社会全体からきびしい非難を浴びます。
 こうなると、他のノーベル賞受賞者は、当然のことですが、グラハムに誘われても精子の提供を断るようになります。その結果、グラハムはその後ひとりもノーベル賞受賞者から精子を集めることができず、結局、"ノーベル賞受賞者の精子バンク"からノーベル賞受賞者の遺伝子を持った子どもが誕生することはありませんでした。
 しかし、"ノーベル賞受賞者の精子バンク"というキャッチフレーズは人々の記憶に残りました。そして、ともかくグラハムは、ノーベル賞受賞者でないにしても、彼の信ずる「優秀な」人間の精子を集め続けました。やがて、彼の精子バンクから天才が生まれたという記事がある雑誌に載り、たくさんの母親たちが精子提供を求めてやってくるようになります。



 ここまでがこの話しの前置きで、ここからが本題です。
 この「ジーニャスファクトリ」という本の著者は、グラハムの精子バンクの精子から生まれたトム君というひとりの少年と会います。トム君は15歳のとき、母親から、自分は"ノーベル賞受賞者の精子バンク"の精子から生まれた子どもであり、本当の父親はノーベル賞受賞者なのだ、と聞かされます。もちろん実際はノーベル賞受賞者ではないのですが、母親も真実を知りませんでした。
 母親の告白は彼に希望を与えました。自分は本当は天才なんだ、と彼は思います。それまでの彼はプロレスとラップ音楽とテレビゲームに夢中で酒もマリファナもやっている不良だったのですが、それを聞いてからがぜん成績もよくなります。
 母親は、彼に勉強をもっとがんばってもらいたくて、精子バンクのことをあかしました。そして実際、彼はそれからがんばった。客観的に見れば、たちなおった、という言い方をしてもいいだろうと思います。ノーベル賞受賞者から遺伝子を受け継いでいると知ったら、たしかに自分に自信が持てるでしょうし、才能に恵まれた人間としての自覚のようなものが生まれてくるということもあるでしょう。
 しかし、このトム君の心理についてこの本の著者はこんな考察をしています。あなたには天才の遺伝子が宿っているのだからできるはずだ、と言われたら、仮に勉強なり何なりで成功したとしても、それは遺伝子のおかげでしかないと感じるのではないか。むしろ遺伝子にあやつられた結果だと感じるかもしれない。だから、かえってグレてしまっても不思議はない。あるいは、勉強なり何なりで成功をおさめても、人並みな成功なら、それでは不十分ということにならないだろうか。だとしたら、いったいどこまでやればいいのだろうか。
 このような考えのもとにあるのは、遺伝子あるいは遺伝子がもたらすものとは別に、自分というものがあるという考えです。だから、遺伝子にあやつられる、という発想が出てきたり、なんらかの成果が自分のものではなく遺伝子のもたらしたものだという見方になるわけです。
 ここのところをもう少し考えてみようと思います。たとえば顔や脚の速さといった身体的特徴は遺伝子によって親から遺伝します。たしかに親子や兄弟は顔が似ているし、親があるスポーツで非常に優れた選手であった場合は、その子どももそのスポーツの才能を持っている場合が多い。このように身体的特徴が遺伝すること自体に疑問を抱いている人は少ないでしょう。しかし、そういう身体的特徴が自分というものそのものだと思っている人はあまりいないのではないかと思います。体は、自分の一部には違いなく、またその特徴は自分の人生に影響を与えます。たとえば、見た目の善し悪しはその人の人間関係に影響を与え、結果としてその人の生き方にかなりの確率で影響を与えるでしょう。でも、体イコール自分だと考える人はたぶんいないのではないかと思います。だから、体を鍛えるとか、体がいうことをきかない、というように自分と体が別の実体であることを前提とした言い方がされるわけです。
 身体的な遺伝に関して、「ケニア!彼らはなぜ速いのか」という本にちょっと面白いことが書かれているので紹介したいと思います。マラソンや駅伝などの長距離走で、ケニアやその近辺の国々、エチオピアやタンザニアの選手が大いに活躍しています。彼らの走っている姿の、あの躍動感は何度見てもすごいと思いますし、日本人とはもともとの体のバネが違うと感じてしまいます。あれはきっと、ケニア人なり何なりの遺伝的な素質のおかげだろう。私もそう思いましたし、同じように感じている人は多いだろうと思います。そのことを実証しようと、ある運動生理学者がケニアのある部族の調査を行い、エネルギー代謝に係わるその部族の体の特質が強さの秘密だという研究発表をしました。すると、それが人種差別主義だとの批判を受けたというのです。たった今私もした「○○人特有の体のバネ」みたいな言い方は、その当の○○人にとっては、実はかなり差別的な表現なのです。
 また、ケニアで長距離のトレーニングを積んでいる選手たちも、ある集団(たとえば人種や部族)でひとまとめにして素質が優れていると決めつけられることに反発します。自分達が強いのは、あくまで個々の選手が高いモチベーションを持ってきびしい練習を積んでいるからだ、と考えているのです。ようするに、素質ではなく自分の努力で強くなったのだと。
 彼らの速さには遺伝的な特質も大いに関係があるだろうと私は思います。しかしもちろん、彼らの努力もすさまじいものなのだろうと思います。いずれにしても、この話には、体の遺伝的要素と、自分という存在あるいは人格とのある種の対立関係があらわれていると思います。私たちは、何かに成功したとき、それが体の遺伝のおかげだと人からいわれたら、あまりうれしくないのです。それよりは、「自分自身」の努力の成果だと、認めてもらいたいのです。

 では次に、頭の中身はどうでしょう。そもそも頭の中身は遺伝するのでしょうか。例えば知能指数は遺伝するのかどうか。
 もちろん、あのドナーバンクの設立者グラハムは知能指数は遺伝すると信じていました。そうでなかったら、ノーベル賞受賞者の精子を集める意味はありません。またショックレーももちろん遺伝すると信じていました。彼は、アメリカの黒人は白人に比べ遺伝的に知能指数が低く、それはもうDNAに原因があることなので教育で直すことはできず、黒人は必ず悲惨で、貧しく、犯罪に満ちた人生をおくると信じていました。
 知能が遺伝するかどうか問題はむずかしい問題です。本来なら、そもそも知能はちゃんと測れるのか、知能指数とはいったいなんなのか、という辺りから話しを始める必要があるでしょうが、ちょっとそれはここではかんべんしてもらいます。ただ、知能指数の考案者であるフランスの心理学者ビネーは、知能が知能指数という単一の尺度で測れるとは考えておらず、ましてや知能指数が生まれつきであったり遺伝したりするなどとは考えていませんでした。知能指数は、すべての生徒をランク付けするのに使うものではなく、ただ、知的に困難を抱えている生徒を見つけだし、手を差し伸べるために使うつもりでした。つまり、クラスのなかで誰が一番知能がすぐれているかを調べるのに使うのではなく、クラスの生徒たちを「ふつう」と「ちょっとたいへん」の二つにわけるだけということです。そしてその「ちょっとたいへん」の生徒たちも、適切な教育を施せば知的な能力は向上するはずとビネーは考えていました。
(知能を単一の尺度で測れるのかどうか、そう言われて考えてみると、大いに疑問ではあります。ノーベル賞受賞者はまちがいなく頭はいいですが、たとえば優れた芸人さんなんかも本当に頭がいいと思います。その二つの頭のよさを、同じ尺度の上においてくらべることができるとは、ちょっと考えにくい。)
 しかし知能指数はその後アメリカに渡って、ビネーの意図とは違う方向へ変質していきます。もともとは面接形式だったのが筆記試験になり、そして軍隊への入隊や移民の入国の際に、まさにすべての被験者をランク付けする目的で使われるようになりました。
 話しの都合上、これからさきは、知能は知能指数として測ることができるとします。しかしそうだとしても、知能が遺伝することを証明することは簡単ではありません。親と子の知能指数が似通っているとか、一卵生双生児の知能指数が似ている(実際そのはずです)ということを実証しただけでは知能が遺伝すると結論付けることはできません。双児の知能指数が似るのは、家庭環境が同じであるからかもしれない。親と子の知能指数に相関があるのは、生まれてからの教育によって親から子へ頭のよさが伝えられたのかもしれない。
 そこで双児の研究が行われました。この研究では、いっしょに育てられた一卵生双生児と、別々に育てられた一卵生双生児、そしていっしょに育てられた二卵生双生児の知能を調べます。別々に育てられても一卵生なら知能はよく似ている、その一方、いっしょに育てられても二卵生なら知能はあまり似ていない、といった結果が出れば、知能は遺伝によって決まることが証明できます。
 このような大規模な調査研究が、二十世紀の中ごろ、イギリス人のバートという人によって行われました。(この人は教育心理学の世界的権威で、知能遺伝説の強力な論客だったそうです)その結果は、まさに今述べた通りのものでした。つまり知能が遺伝する、主として遺伝によって知能が決まる、という結論をバートは多数の双児の調査結果から導きだしました。
 ところが、そのバートの論文のデータがねつ造されたものであることが後にあきらかになります。バートが最初に発表した論文では、別々に育てられた双児としては20組みほどが調査されたに過ぎませんでした。その後この人は同じテーマで続けて論文を発表していくのですが、そのたびにサンプル数が増えていきます。ところが、サンプル数が増えているのに最終的な知能の相関をあらわす数値がまったく変わらなかった。それはおかしいだろうという声が上がり、さらに調べてみると実際にそのような双児を調べた形跡は見つからなかった。
 というわけでバートの研究はあらかた否定されてしまったのですが、ただ少なくとも最初の論文のデータは嘘ではなく、またバートの研究以外にも同様の研究が行われ、知能がある程度遺伝するのは間違いないだろう、ということになっているようです。ただそれはバートが主張していたほど決定的な要因として伝わるのではなく、育つ環境も遺伝的要因におとらず知能を左右する。これはまあ、常識的と言えば常識的な結論ではあります。
 では、知能の高さが遺伝するとして、つまりちょうど脚の速さが遺伝するのと同じように遺伝するとして、その知能の高さは「自分自身」なのでしょうか。
 知能の高さが遺伝するとなると、客観的には、知能の高さはたまたま幸運にも授けられたメリットのひとつとみなされることになるでしょう。それはたとえば顔の善し悪しや筋肉の強さと同じような身体的特徴(脳ミソの善し悪し?)の一つと考えることができそうです。ですから、仮に学校で成績がよかったとして、でもそれはお前の遺伝子のおかげだろうといわれたら、たぶんあまりうれしくはない。さきほど話したケニアのランナーのように、そんなことはない、「自分」の努力を認めてほしい、と感じるだろうと思います。「ノーベル賞受賞者の精子バンク」で生まれた子どもも、同じように感じるでしょう。せっかく努力しても、すべて遺伝子の手柄にされてしまって、自分の努力の方は認めてもらえないとしたら、努力することを空しいと感じるのではないか。それが、先ほど紹介した「かえってグレてしまっても不思議はない」という著者の分析になるわけです。

 ここで、少し前にある学生さんとした会話を紹介したいと思います。そのとき、前後の脈絡は忘れましたが、スポーツで大事なのは才能か努力か、という話しを二人でしていました。彼は努力が大事であると主張し、私は才能が大事だと主張していました。まあ、どちらも根拠があってそんな主張をしていたわけではなく、いい加減な雑談をしていただけです。で、そのやり取りの最後に、彼はこんなことをいいました。
「まあ、努力をするのも才能ですが」
才能イコール遺伝ではありませんが、遺伝する才能はまちがいなくあります。ということは、努力をするという性格も、もしかしたら遺伝するのでしょうか?
 この問題にちょっと言及している箇所がこの「ジーニャスファクトリ」にはあります。先ほど紹介したトム君(自分にはノーベル賞受賞者の遺伝子があるかもと知って立ち直った彼です)は、自分の生物学上の父親に会いたいと願い、この本の著者の助けを借りて探し出し、面会します。その「父親」はどんな人物だったかというと、まず、先ほどお話したようにノーベル賞受賞者ではありませんでした。しかしノーベル賞受賞者でないとしても、あの精子バンクはそれに匹敵するぐらい優秀な人間の精子を集めたはずです。では実際どうだったのか。彼の「父親」は、いちおう医者ではありますが、特に優れているというわけではありませんでした。精子バンクのデータでは知能指数160となっていたのですが、確かめたところそんな数字は嘘っぱちで、当人は、それぐらいの数字にしておいた方が都合がよさそうだからそうした、と平然と白状したそうです。暮らしぶりはどうもゴロツキのよう。そして驚くべき数の結婚と離婚を繰り返し、驚くべき数の子どもを作り、その子どものうちの誰一人としてまともに育て上げていない、という人物でした。
 どういうことかというと、あの精子バンクはたしかに優秀な人物の精子を集めようとしました。しかし実際に精子を提供したのは、現実に優秀な人間ではなく、自分が優秀だと思い込んでいるだけの、自信過剰な人物だったのです。そういう人間は、なにしろ自分を過大に評価してますから、自分の子孫を多数残すことに異常に執着している。だからとんでもない数の子どもを作るし、精子バンクにも精子を提供した、というわけです。
 そういう「父親」に会ってしまって、トム君はこんな不安を抱きます。自分の「父親」は子どもを大切にしない悪い親だった。その遺伝子が自分には宿っている。自分はいい父親になれるのだろうか。
 自分の「父親」がノーベル賞受賞者かもしれないと知ったとき、トム君は「父親」の知能が自分に遺伝していることを願いました。ところが、「父親」の正体を見てしまったあとでは、こんどはその人格が自分に遺伝していないことを彼は願うようになりました。
 彼のその心配を、私たちは非科学的だと笑うべきでしょうか、それとも、もっともな心配だと同情すべきでしょうか。
 実際、性格が遺伝するという説はあるのです。単純には、たとえば、犬は種類によって性格が違う、という話しをよく聞きます。○○という種類は人によくなつく、あるいはなつかない。××はおとなしい、とか、どう猛だ、とか。これは「性格」と私たちが呼んでいる性質が犬の遺伝子に書き込まれていることを意味しています。
 犬の「性格」と人間の性格とはちょっと話しが違うと思うかもしれませんが、人間という「種」にも、種に特徴的な心の働きがありそれが遺伝子に書き込まれているという説、というよりそのような前提に基づく学問分野があります。それは進化心理学といいます。
 それによれば、たとえば私たちは仲間を助けようとする心を(ふつうは)持っていますが、そういう助け合いの心というのは、進化の過程で、環境への適応の一環として作られてきた。私たちの祖先(まだ人間とはいえないような祖先です)が群れを作って生活していたときに、仲間で助け合う群れの方が助け合わない群れより生き延びる確率が高かった。そのため、人間は進化の過程で、環境への適応のひとつとして助け合う心を発達させた。獣の場合なら、たとえばより鋭い牙を持った個体は生存競争を生き抜く確率が高くなり、その結果進化の過程で牙が発達する、というようなことが起きるわけですが、それと同じです。
(このような話しは、名工大の小田先生が書かれた「ヒトは環境を壊す動物である」という本にも出てきます)
 このように、進化心理学によれば、「助け合いの心」のような、私たちの日常の言葉でいえば「性格」とか「心」にあたるものも、人間という種の遺伝子に書き込まれているというのです。「助け合いの心」以外にも、種が生き延びることに役立つ感情は同じように人間の遺伝子に書き込まれていると進化心理学では考えます。たとえば不安感は危険をさけ生き延びるために役立ったので、私たちには不安を感じる遺伝子があるのだと。
 それでも、進化心理学が扱うのは人間という種全体の性質であって、普通私たちがいう性格とは少し話しが違う、と思うかもしれません。私たちがふつう考える性格というのは、もっと個人的なもの、その人特有のものだからです。
 しかし、種全体の特徴だけでなく、個人的な「性格」にも遺伝がからんでくる、といくつかの学問分野では考えられているようなのです。まず、精神医学の分野では、個人的な「性格」「人格」の傷害には遺伝的要因が係わっていると考えられています。たとえば、トラウマを抱えるということがありますが、同じようなひどい経験をしても、それがトラウマになって残る人と残らない人がいる。その差は、脳のある部分(扁桃体)の大きさの違いによっていて、その脳の器質的な違いは遺伝によって決まるのだそうです。もちろん、遺伝的にトラウマを抱える要因を持っている人でも、そうなるような経験をしなければトラウマを抱えることはありません。しかしひとたびトラウマになり得る経験をしてしまうと、その遺伝的な性質が現れてしまい、トラウマを抱えることになってしまうわけです。
 ただ、精神医学が扱うのは病的な「性格」で、いってみれば極端な場合で、やはりふつうの「性格」とは話しが違うと思うかもしれません。ところがもっとふつうの「性格」も遺伝の影響が大きいことを大前提にしている分野があります。それは行動遺伝学という分野で、専門の学術雑誌もあるのだそうです。その分野の人が書いたある本によれば、怒りっぽさであるとか、積極的か消極的かとか、あるいは性的な好みとかは、遺伝的な要因によって大きく左右されるのだそうです。
 しかしもちろん、遺伝でまったく決定してしまうわけではありません。実は私が読んだ本では、生物学的な側面である「気質」と、環境によって左右される「性格」を別けて考えていて、その両者が合わさって「人格」が形成されるとされています。遺伝が影響するのは気質の部分だけ、というわけですが、ただ概念としてはそのように切り分けてたとしても、実際には環境か遺伝かを区別するのはむずかしいようで、ということは、「気質」と「性格」を切り分けることも容易ではないようです。
 実際、性格が遺伝するかどうかは、知能が遺伝するかどうか以上にむずかしい問題のはずです。まったく遺伝が関係ないと証明することはできないでしょうが、どのていど遺伝するかを定量的に決定することはなかなかできないでしょう。知能については、知能指数というそれなりに確立された指標があるわけですが、心を「測る」ことは知能ほどは標準化されていないはずで、それだけデータも得にくいでしょう。また知能の場合以上に遺伝と環境の影響を分けるのはむずかしいだろうと思います。というのは、知能も含めた他の身体的特徴の遺伝を介して間接的に性格が親から子に伝わるということもあるだろうからです。たとえば、知能が極めて高い(低い)、とか、見た目がものすごくいい(わるい)、という特徴はその人の性格に影響をおよぼすはずですから、そのような特徴が遺伝することで性格が遺伝するかもしれない。しかしそれはあくまで身体的特徴が遺伝しただけであって、性格が遺伝子に書き込まれていたわけではありません。そう考えると、たとえば「内気、臆病、抑制的な行動の50%は遺伝だと推計されている」みたいな文章が本の中に出てくると、かえってその本全体の信ぴょう性を疑いたくなります。
 ただ、精神医学や進化心理学の知見を否定することはできないと思います。そして行動遺伝学(その一派が)が主張することも、すっかり信じることはできなくても、完全に否定してしまうこともできない。
 性格が遺伝するかどうかを議論するのがここでの目的ではありませんし、もちろん私には結論を出すことなどもともとできはしません。しかし、仮に性格も遺伝すると考えてみましょう。あるいはいっそのこと、遺伝で人格が完全に決定されるとしたらどうでしょう。念のために付け加えますが、先ほども断った通り行動遺伝学でさえ遺伝で人格が決まるとはいっていませんし、もちろん私自身そんなことは信じていません。ですから、以下はすべて架空の話しです。
 架空の話しではあるのですが、ただその前提条件はもしかしたら真実かもしれない架空の話しです。

 先ほどから何度かトム君の話しをしました。成績が上がっても、それが「父親」からの遺伝のおかげだと考えたら、遺伝子にあやつられていると感じるかもしれない。「ノーベル賞受賞者の精子バンク」の著者は彼の心理をそう推測しました。しかし、もし性格も人格もまとめて遺伝するのだとしたら、「あやつられている」と感じる人格自体が遺伝の産物ということになり、したがってそれが遺伝子に「あやつられている」という言い方はできなくなります。
 あるいは、遺伝的素質のために走るのが速いという評価に対し、いや違う、これは自分の努力の成果だと反論したケニア人ランナー。もし、努力をする人格も遺伝的素質の一つだとしたら、もはや、脚が速いのは遺伝ではない、と反論することはできなくなるでしょう。
 もともと私たちは、身体的能力や知能には遺伝の可能性を認め、一方それとは対立する主体として自分というものを考えてきたと思います。だから、素質には恵まれなかったが努力を重ねて成功した、というような言い方を私たちはします。また、素質に恵まれないと私たちは体や頭が自分の思う通りに動いてくれないという思いを持ちます。努力をする主体である自分にとって、努力のような心の働きは自分の内的な活動である一方、体や頭の能力は外的条件と位置付けられている、と言っていいと思います。
 しかし、人格も遺伝だとなったら、その内と外の区別は消滅してしまいます。ある部分の遺伝子と、別の部分の遺伝子というに過ぎなくなります。
 このように考えることは、かなり私たちを憂鬱にさせます。素質はないが努力をして成功した、という言葉に、私たちは生まれつきの限界をこえる可能性を見ます。生まれつきの素質がどうであれ、努力次第で成功の可能性が開ける。しかしその努力も生まれつきの素質だとしたら、それにも恵まれていない人には最初から望みはありません。できる人と、できない人が生まれ落ちた時点ですでに決まってしまっていることになります。
 それはまた教育のある部分を否定することでもあるでしょう。教育の場では、最初からこの子はできるがこの子には可能性がない、という区別はしません。すべての子に可能性があるということが、教育の大前提だと言っていいと思います。仮に親から受け継いだ知能が低くても、教育によって勉強に対する意欲をかき立て、努力をさせることによって知的な能力は伸びていく。(知能指数の開発者ビネーが信じていたように)しかし学習しようとする意欲も遺伝で親から子へ伝わるものだとしたら、それを受け継いで生まれなかった子に対する教育は必ず失敗するでしょう。そしてもし、そのような人格を司る遺伝子が解明され、遺伝子検査によって生まれた子どもの人格が明らかになってしまうとしたら、知能にも恵まれず勉学意欲も乏しいと判断された子どもには、最初から教育などやめておいた方がいいということになるでしょう。(ショックレーが強く主張していたように)
 軍隊がリクルートするときは、遺伝子を調べ、上の命令には逆らわない人格の人を選ぶ。会社は遺伝子検査によって誠実さを調べてそれに基づいて採用をきめる。行動遺伝学者はこのような未来を思い描いています。もし人格が遺伝するのだとしたら、それは合理的なやり方かもしれない。しかし、合理的だから大賛成だという人は、たぶん一人もいないのではないでしょうか。
 このようなことを考えて私たちが憂鬱になるのは、一つには自分が(あるいは自分の子どもが)どのように判定されることになるかわからない、という不安があるからでしょう。行動遺伝学者は、遺伝子を解析することでその人の才能を発掘し開花させることができる、というようなことをいいます。たしかにそういうこともあるでしょう。しかし、調べた結果才能はないと判明してしまったら、その人はハナから打ち捨てられることになる。ある職業につくことをめざして努力していたのに、可能性はないと判断され、道がそこで閉ざされてしまうかもしれない。そうなる恐怖をまったく持たない人は、おそらくほとんどいないのではないかと思います。実際、そのような遺伝子検査は多くの人に絶望を与えるでしょうし、だからそんな遺伝子検査によって私たちの社会がより幸福なものになるとは考えられない。

 ただ、遺伝子が人格を決めていると考えたときに私たちが感じる憂鬱感はたぶんそれだけではないのです。自分の運命があらかじめ決められてしまっているという思い、あるいは自分の意志、自由意志が否定されてしまったような思いが私たちを憂鬱にさせるのです。つまり、性格や人格があらかじめ与えられる外的条件になることによって、「自分」というものが消滅しまった。それで、私たちは落ち込むわけです。
 それは自分がロボットだと気づくようなものです。(ロボット、というのは工場で動いているようなロボットではなく、SFに出てくる人間のようなロボットです)自分は自由意志を持って生きていると信じてきたが、実は誰かが作ったハードウエア上で、誰かが作ったプログラムが動いているにすぎない。
 あるいは自分がクローン人間だと気づくようなものです。(このクローン人間も、本当のクローンではなく、SFに出てくるクローン人間です)SFのクローン人間は、本物のクローンと違って、遺伝子だけでなく年齢も外見も、そして頭の中身もオリジナルと同じです。彼らは、性格や知的能力だけでなく記憶情報まで入力済みの状態でこの世に生まれてきます。クローンはあくまでオリジナルのコピーであり、クローンが自己意識を持ったとしても、それは客観的に見れば完全に人工的に作られたものに過ぎません。
 しかし考えてみると、ロボットなり人工知能が人間のコントロールを超えた独自の自我を持つという設定は、SFでは珍しくありません。彼ら(それら?)は、自分が人間によってつくり出されたからといってそこで絶望するわけではなく、ちゃんと感情を持って恋愛をすることもあるし、人間に反乱を起こすこともある。
 クローン人間もそうです。今年(2010年)、「月に囚われた男」という映画を見ました。(監督はダンカン・ジョーンズという人ですが、この人はデビッド・ボウイの息子さんなのだそうです)月の裏側で、たった一人で地下資源の採掘をしている男が主人公です。3年の契約を終えまもなく地球に帰るというときに、彼はある事故がきっかけとなって自分がクローン人間であることに気づきます。実は、その資源採掘をしている会社は、彼のクローンを何体も作り、3年ごとに新しいのと取り替えて働かせていたのです。彼の記憶は、何年も前に死んだオリジナルのものですので、現実とはずれています。たとえば、子どもはまだ赤ん坊だと思っているが、現実には大人になっている、というように。そのことを知って、つまり自分のすべてが人工的につくり出されたものだと知って彼はどうしたか。彼は反乱を起こします。地球に脱出して、会社のやっていることを暴いた。映画の最後には、クローンの人権をまもる制度が作られた、みたいな話しが出てきます。
 つまりSFでは、ロボットもクローンも、生まれたときに全てプログラムされているからといって、世をはかなむことはありません。もし自分の存在を消されそうになったら、必死でそれに抗おうとする。そのような存在であるということを平然と受け入れ、ちゃんと自分の存在価値を肯定しているように見えます。すべて入力済みで生まれてくることの、どこが悪いのだ、と開き直っているかのようです。
 でも、考えてみると、いったいどこが悪いのでしょう?
 いま紹介した映画のように、クローン人間にも人権を認めていいだろうと私も思います。生まれるときにすべて入力済みであったとしても、だからといってその「人」の人権を踏みにじっていいという理由は考え付きません。クローン人間本人にとってみても、お前はクローンだからと機械のように扱われたのではたまったものではないわけで、生まれはどうあれ自分を人間として尊重しろと当然思うでしょう。
 まして、今はすべての人間が入力済みで生まれてきているかもしれない、と考えているわけです。入力済みの人間とそうでない人間がいるのではなく、すべての人間が入力済みである。そうであるなら、入力済みであることは、ますます、問題ではなくなります。人間とはもともとそういうものだと認識をちょっと変えればいいだけです。

 それでもやはり、できることとできないことがあらかじめ決められて生まれてきていると考えることは、私たちを憂鬱にさせるでしょう。優れた才能なり好ましい人格なりが自分にはあると信じられる人はともかく、そうでない人(こちらの方が多数でしょう)は憂鬱にならざるを得ません。
 ただ逆に、人間は白紙で生まれてきていて教育次第、努力次第で何でもできる、とみなされることで私たちがハッピーになれるかといえば、そうともかぎらないだろうと思います。もしその前提に立つなら、何かができなかったら自分の努力が足りないことになります。できなかったときは周りからそう責められ、自分でも自分自身を責めることになるでしょう。
 子どもがなにかに失敗した。そのとき親から、できないのは努力が足りないせいだ、と言われるのと、お前はそういうのは苦手だからしかたがない、と言われるのと、どちらがいいか。
 どちらがいいかはともかく、努力が足りないと責められ続けることが、無条件に私たちの人生を幸福にするとは言えないのではないでしょうか。努力をしても才能がないからできない、あるいは、努力をしようにも努力をするという性格を受け継いでいないからできない、ということを認めてもらい、おまえにはそれが限界だよと言ってもらうことが、救いになることもあるでしょう。誰もができるはずだという信念が、誰もができなければいけないという一種の強迫観念になり、それが教育の場で子どもたちを追い詰めるということもあるかもしれません。またその強迫観念は、逆に教育者の方も追い詰めるでしょう。その子が成功しないのは教え方がわるいせいだ、その子が真面目に努力しないのは指導の仕方に問題がある。
 すべて遺伝的に決まっているとなったら、できないことはやろうとしても無駄だという地獄が待っています。しかし遺伝的にはまったく決まっていないとなったら、無限に努力し続けなければいけない、努力をさせ続けなければいけないという地獄が待っています。

 念のため繰り返しますが、知能も性格も全部遺伝するとここで主張したいわけではありません。もしそうだとしたら、という架空の想定で議論をしているだけです。知能や性格に対する遺伝の影響については、確定的な答えは得られないだろうということはすでに説明しました。なんといっても、データに不確定さが大きすぎるからです。
 それに加え、遺伝の影響ををどの程度みとめるかは、学術的というよりはイデオロギー的対立だといわれます。リベラルで平等を尊ぶ人は遺伝の影響は小さいと主張します。逆に保守的、自由主義的な人は、個人の自由と選択を強調し、遺伝による個人差も肯定します。少数の勝者が幸せになる社会を是とするかしないか、の違いだと言ってもいいでしょう。ショックレーは人間を生まれたときからの勝者と敗者に色分けしようとした。ショックレーを人種差別主義者と非難した人たちは、人間には生まれながらにそんな区別はないのだと信じていた。それは科学的な認識の差であると同時に政治的なイデオロギーの違いでもあるために、両者が議論してもまったく決着がつかなかったのです。
 しかし、イデオロギーとの関係もそう単純ではないかもしれません。つまり、遺伝決定論的なリベラルというのもあり得るのではないかと思います。ショックレー的な保守主義が間違っているのは、能力の劣る人を見下す姿勢があるからです。(それに加え、人種と直結させて考えているからでもあります)そうではなく、能力がどうであろうが、人間として尊重する。そして、能力のある人と同じことをやるよう要求するのではなく、できないことを前提に積極的にサポートする、そういうリベラルもあり得るでしょう。また、性格に問題がある人に対しては、非難し排除するのではなく、運が悪かった人たちだとみなして、少しでもその不運から、つまりその望ましくない性格から自由になれるように手助けする。性格が遺伝で決まってしまうとしたら、性格が悪くてもその人の責任とは言えないし、なぜ変わらないのかと非難することもできないわけで、周りの人がやるべきことは、その人自身や他人がその性格のために被害を受けることがないようサポートをすることでしょう。
 私の立場は、はっきりしているわけではありませんが、いちおうその「遺伝決定論的なリベラル」です。遺伝がどこまで決めてしまうのかについては誰もわかっていないだろうし、まして私は遺伝学者でも何でもないからわかりません。にもかかわらず遺伝決定論的な認識を持つのは、子どもの頃の経験が原因だろと思います。子どもの頃、私はあることが非常に得意で、別のあることが非常に苦手でした。得意なことはそれほど一生懸命にやろうと思わなくてもできたけれども、苦手なことは必死にがんばってもまったくできなかった。それで私は、それが本当に遺伝の結果かどうかわからないけれども、人間にはできることとできないことがある、あることをできる人間とできない人間がいる、というふうに信じるようになりました。人間、努力すれば何でもできる、誰でもできるというのは絶対に嘘だ思うようにもなりました。
 同時に、おまえはこれができないからと切り捨てられたのではたまらないと思うようにもなりました。もし私がなんでも得意だったら、そうやって切り捨てられる痛みにはもっと鈍感だったかもしれません。けれども人間には限界があり、その限界は本当にどうにもできないものであることを私は知っています。だから、できないことはできないでしょうがないと受け入れ、それとは関係なく人間としての価値や尊厳を認めてほしいと私は思ったし、そうするべきだと考えているわけです。
 ただ、考えているだけで、実際の行動は伴っていません。自分にはショックレー的な冷たさもあるような気がする。頭ではわかっていても、できない人間に対して冷酷な思いを押さえることができないときがある。
 今までの議論は何だったのだというような結びですが、この言行不一致だけは、遺伝的な性格のせいではないと信じたいです。

「ジーニアス・ファクトリー 」(早川文庫「ノーベル賞受賞者の精子バンク―天才の遺伝子は天才を生んだか」)デイヴィッド プロッツ、酒井 泰介(早川書房)
「ケニア!彼らはなぜ速いのか」忠鉢信一(文藝春秋)
「人間の測りまちがい―差別の科学史 」スティーヴン・J. グールド、鈴木 善次、 森脇 靖子(河出文庫)
「 オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険」 鈴木 光太郎(新曜社)
「ヒトは環境を壊す動物である」 (ちくま新書) 小田 亮(筑摩書房)
「遺伝子があなたをそうさせる―喫煙からダイエットまで」ディーン ヘイマー 、ピーター コープランド、吉田 利子 (翻訳) (草思社)


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