名古屋工業大学技術倫理研究会編
「技術倫理研究」第5号(2008)pp.15-32

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2011年3月11日の震災をうけてのつけたし

リスク論批判:なぜリスク論はリスク対策に対し過度に否定的な結論を導くか

Too risky risk analysis

市村正也


1 はじめに

 人間の生命、健康、安全にとってなんらかのリスクが存在するとき、直ちにそのリスクを低減する対策を実施するのではなく、リスク対策が持つマイナス面を考慮して実施するかどうかを判断すべきとする考え方がある。対策のマイナス面とは、具体的には、対策にかかるコストおよび対策によって引き起こされる新たなリスクである。リスク対策は、そのようなマイナス面と、プラス面つまり対象になるリスクの減少とをはかりにかけ、プラス面が大きいと考えられるときにのみ実施されるべきである。この文章では、そのような考え方をリスク論とよぶ。また一般にもそのような考え方がリスク論と総称されていると考えられる。
 リスク論の一般的な合理性は疑い得ない。あるリスクへの対策が別のより大きなリスクを引き起こすなら、その対策は実行されるべきではない。また、あるリスク対策を実施した結果、リスク対策にあてることのできる予算や資源を使い果たしてしまい、別のより深刻なリスクへ対応できなくなってしまうようなら、そのリスク対策を実施すべきではない。当然である。この文章は、このようなリスク論の原則としての合理性を否定するものではないことを、最初に断っておきたい。にもかかわらず、リスク論が現実に適用された際、得られる結論は必ずしも説得力のあるものではない。この文章では、リスク論にはいくつかの大きな問題点があり、その問題点を十分認識して回避しない限り、リスク対策に消極的すぎる結論が導かれることを主張する。
 次節での議論の前提として、ここではまずリスク論が使われる条件について二点確認しておきたい。一点めはリスク評価の不確実さである。もしリスクが大きいなら、つまり被害が発生する確率が高くかつ被害も深刻であると確実に予測されるなら、そのリスクに対する対策は直ちにとられるはずであり、リスク論的な分析は必要ではない。したがってリスク論が扱うリスクは、基本的には、対策が必要かどうか議論が分かれるような、小さな、または不確実なリスクであると言ってよい。ところで、一般に小さな・不確実なリスクの正確な評価は原理的に不可能である。この点は色々な文献で議論されているのでここでは詳しく述べない。簡単に言えば、安全性危険性についてのデータは実験で収集することも検証することもできないため、何らかのモデル化をした上での予測に頼らざるを得ない。たとえばある濃度のある物質に何万分の一という程度の確率の発ガン性が疑われたとする。その発ガン性を正確に実験で求めようとしても、第一に人間を使った人体実験はそもそも不可能であり、第二に動物を使うにしても何万匹もの動物を使って実験することは現実にできない。そのため、発ガン性が数十分の一になるような高濃度で、かつマウスなどの動物を使った実験から、はるかに低い濃度で人間が受ける影響を予測しなければならない。このような方法で正確に発ガン性が評価できないことは、専門家でなくても容易に想像がつく。リスク評価の不確かさは以下のすべての議論での前提である。
 二点目は、リスク論を使う目的・意図の非対称性である。考え方の上で、リスク論はゼロリスク原則と対置される。ゼロリスク原則とは、リスクはゼロでなければならずリスクが発見された場合はそれをなくす対策が直ちにとられなければならない、とする考え方である。この考え方は明らかに不合理であるが、その不合理さを批判し否定するためにリスク論が持ち出される。そのため、リスク論はリスク対策が不要であることを論証する目的で使われることが多くなる。本来、リスク論的な分析は、リスク対策が必要であるという結論を導くこともあれば、不要であるという結論を導くこともあり、結論がどちらかに偏る必然性はないと考えられる。しかし、リスク対策が必要であると主張するのはゼロリスク原則に基づいてでもできる。つまり、リスクの存在とその危険性をアピールすればよく、あえてリスク論的分析をする必要がない。一方、リスク対策が不要であると主張するためにはリスク論的分析がいる。したがって、リスク対策が不要であると主張したいときにリスク論が用いられることが多くなる。そのため、リスク論の問題点を考えるとき、それが本来必要なリスク対策を不要と判断してしまう恐れがないかどうかに重点を置く必要がある。逆に、本来不要な対策を必要と判断してしまうケースも原理的にはありうるが、リスク対策の必要性を主張する場面にはそもそもリスク論はあまり登場しない。

2 リスク論批判

 リスク論では、リスクの大きさとリスク対策によって生じる損失がそれぞれ評価され、比較検討される。以下では、リスクの評価と、リスク対策による損失の評価の両方について、現実のリスク論がかかえている問題点を議論する。
 まず2-1において、リスク対策による損失の評価すなわちベネフィット評価に関わる問題について、代表的なリスク論の枠組みを紹介しながら考察する。次いで2-2において、従来のリスク論的分析のリスク評価では、ある重要なリスク要因がほとんど考慮されてこなかったことを主張する。

2-1 リスク対策に伴う損失評価(ベネフィット評価)の問題点
a) リスクトレードオフ
 リスク対策が新たな別のリスク(対抗リスク)を引き起こすことがある。そのときは、もとのリスクと対抗リスクを天秤にかけた上でリスク対策の是非を判断しなければならない。このような考え方がリスクトレードオフである[1]。その典型的なケースが薬の副作用である。病気を治そうと思い薬を飲んだ結果、重い副作用が引き起こされることがある。もとの病気の症状より副作用の方が重篤になるようならその服薬は止めるべきである。症状の改善が副作用の害より顕著ならその薬は使うべきである。
 このリスクトレードオフの考え方は理にかなっているが、しかしそこで行われることになる二つのリスクの比較は一般に決して簡単ではない。薬とその副作用の場合は、もともとのリスク(病気)と対抗リスク(副作用)はいずれも似た性質(いずれも健康被害)であり、またリスクの対象となるのも同じ一人の患者であった。しかし、もとのリスクと対抗リスクとでは、リスクの性質が異なる場合がある。たとえば、オゾン層がフロンによって破壊されるのを防ぐためオゾンを減らす効果の小さな代替フロンを使い始めたが、その代替フロンは強い地球温暖化効果を持っている、というような場合である。もとのリスクであるオゾン層破壊と、対抗リスクである地球温暖化という、性質の異なった二つのリスクの軽重を比較するのは容易ではない。また、元のリスクと対抗リスクで、リスクの被害者が異なるケースもある。たとえば、ある工場で有害物質が発生し、工場内で処理をしようとするとそこの従業員百人に重い健康被害が引き起こされる恐れがある。有害物質を遠く離れた処分場へ運搬して処分すれば、従業員の健康は守られるが、処分場近くの住民一万人に軽い健康被害が引き起こされる恐れがある。このような場合、二つのリスクの対象が異なり、また人数も症状も異なるため、比較は困難になる。
 以上のような困難さはすでに認識されており、それを承知の上でリスクトレードオフ分析はなされてきた。しかし、リスクトレードオフ分析にはもう一つ潜在的かつ本質的な問題点がある。そして、それによってこの分析は必然的に、対抗リスクを過大に評価し、リスク対策に否定的な結論を導きやすい傾向を持つ。以下では高齢ドライバーの運転免許問題についてのリスクトレードオフ分析を例にとって、その問題点を議論する。
 高齢になると一般に視野が狭くなり光に対する感度が衰える。反射神経も衰え、さらに認知症など意識障害を患う割合が増加する。したがって、交通事故を引き起こす確率は高齢になると高くなると予測され、実際に単位走行距離あたりの事故の確率は高齢になると増加する。これが低減すべきリスクである。その対策として、一定年齢の高齢者の運転免許更新を停止したり、取り消したりして、高齢者の運転免許所有を制限することが考えられる。この、運転免許所有の制限というリスク対策によって引き起こされる対抗リスクとして、グラハムらは以下のような項目を考えた[2]。
高齢者が運転ができなくなることによって:
・雇用される機会が減り精神的心理的に損失を被る。
・レクリエーションに接する機会が減り、社会的孤立を感じ、意気消沈する。
・運転ができなくなることで自尊心が失われ、鬱になりやすくなる。
・食品、衣類、医薬品の購入や通院が困難になり、病気が悪化する恐れがある。
・近くにある値段の高い店で買い物せざるを得なくなり、経済的に損をする。
・歩く機会が多くなり、歩行中の転倒による怪我が増える。
・バスや列車の乗降時に段差で転倒して怪我をすることが多くなる。
・混雑したバス、列車中の押し合いへし合いで体を痛める危険性が高まる。
・歩行時あるいは公共交通機関利用時に犯罪にあう可能性が出てくる。
・親族や友人が代わりに運転しなければならなくなり、負担が増す。その負担をなくすため高齢者は老人ホームに入れられてしまう確率が高くなる。
 このリストが冗談半分で作られたと誤解される恐れがあるので念のため断っておくが、この文献の著者たちには冗談を言うつもりなど毛頭ない。実際、いずれの対抗リスクも、その存在を否定することはできない。高齢者が歩いていて転倒することはたしかにある。自動車の運転を制限することで転倒する高齢者が増える可能性もないとは言えない。
 ここで、確率の小さなリスクの正確な評価は現実に不可能であることを思い出す必要がある。高齢者で鬱になる割合はデータで示すことはできるだろうが、自動車の運転をする/しないことと鬱になることの因果関係を明らかにするのは困難である。鬱になるリスクを正確に見積もることができないということは、そのリスクが大きいと主張することはできないものの、逆にそのリスクの存在を否定することもできないということである。こうして、我々は上のすべての対抗リスクの存在を認めざるを得ない。
 もとのリスクは一つである。しかし対抗リスクはたくさんある。高齢者の交通事故という単純なリスクに対する、運転免許所有の制限という単純な対策においてでさえそうなのである。これが、地球温暖化というリスクに対する環境税という対策のような大規模で複雑な事象について、上のようなセンスで対抗リスクを数え上げていったら、いったいいくつの対抗リスクが列挙されることになるのか、もはや見当もつかない。薬の副作用のように対抗リスクが単純であるのはむしろ例外で、いったん社会や自然環境が係わってくると、因果関係の理解の不完全さゆえに、対抗リスクのリストは容易に発散する。
 こうして、もとのリスクと対抗リスクの比較は、必ず一つ対複数(ないし多数)の比較になる。その結果、リスクトレードオフ分析は、対抗リスクの方をより大きく評価してリスク対策に否定的な結論を導きやすい傾向を持つ。まして、論者がリスク対策を否定しようとする意図をあらかじめ持っていたとすれば、容易にその意図に沿った議論を組み立てることができる。そして実際、たとえば環境対策に反対する主張においては、対抗リスクをいくつも数え上げる論法が典型的に用いられている[3]。
 もちろんリスクトレードオフ分析によってリスク対策について肯定的な結論を導くことも可能である。対抗リスクのうち、誰でも思いつきそうな項目を二つ、三つあげてそれで止めておけば、リスク対策は是とされるだろう。しかし、最初に述べたように、リスク論的分析はそもそもリスク対策に反対する役割を担って使われるケースが多い。そしていずれにしても、リスクトレードオフ分析は、一見論理的合理的な枠組みを備えているように見えながら、その実きわめて恣意的な運用が可能であるし実際なされている。上の例で、鬱になる危険性を対抗リスクに加えるかどうかを決めるのは、現実のデータでも論理でもなく、論者の価値観や感性でしかないだろう。

b) リスクベネフィット分析
 リスクベネフィット分析では、リスクの大きさと、そのリスクの要因が与える利益(またはリスク対策が与える損失)を比較し、リスク対策の是非が判断される。リスクトレードオフ分析もその一種と見なせるが、リスクベネフィット分析でのベネフィットは対抗リスクという形をとるとはかぎらない。以下では、リスクベネフィット分析の代表例である中西氏によるリスク分析を取り上げ、そのベネフィット評価の問題点について考察する。
 中西流リスクベネフィット分析の要点は以下のようである[4]。いま、あるリスク(たとえば水銀中毒)が存在し、ある方策(たとえば工場の閉鎖)をとることによってリスクの大きさがdRだけ減少し、そのために費用がdBだけかかったとする。また、ここでリスクの大きさとは人の命が失われる確率であると考える。中西氏のリスクベネフィット原則では、このリスク対策の妥当性は、次のdB/dRの値を基準にして判断される。
dB/dR = リスク削減費用/リスクの大きさ = 一人の命を救うための費用
この値をもとに、そのリスク対策の妥当性を判断する。金額があまりに大きければ、そのリスク対策はとる必要がないと判断される。また、複数のリスクがあるなかで、dB/dRの小さなリスクから対策を講じていくのが合理的である。
 このリスクベネフィット分析では、リスクの大きさは人間の死の可能性という尺度で評価され、ベネフィットはリスク対策の金銭的コストという尺度で評価される。(たとえば、リスクの源である工場を閉鎖する場合、閉鎖によって生じる金銭的損失が、すわなちその工場が生み出していたベネフィットである)リスクとベネフィットそれぞれを単一の尺度で評価することは、きわめて大胆な単純化であり、その点が批判されることがある。たとえば、生死だけを問題にすることで生活の質を無視しているという批判を招く。しかし、尺度を単一にすることによって初めて異なるリスク同士の比較が可能になる。また、上のリスクトレードオフ分析で例を示したような、恣意的な議論の発散を防ぐことができる。したがって、この中西リスク論は議論の枠組みとしては優れたものである。ただ、枠組みとして合理的であるがゆえに、リスク論的分析のもつ問題点がより明解にあらわれるとも言える。
 リスク評価についての問題点の議論は次節で行うこととし、この節ではベネフィット評価の問題点を議論する。中西リスク論ではベネフィットはリスク対策の経済的コストであり、それは論理的には妥当である。問題は、リスク対策の経済的コストが、そもそも原理的に評価可能かどうかである。
 たとえばある工場から有害物質が放出されている可能性が指摘されたとする。それに対するリスク対策としては、有害物質を出さない新たな工場を作る、あるいは、有害物質の処理装置を設置する、ということなどが考えられる。ところで、リスク論的分析が登場するのは、リスク対策をとるべきかどうかについて、人々の考えが一致していないときである。つまり、そのリスクの性質や規模などについて理解が十分ではなく、リスク対策も確立されてはいない可能性が高い。人類が初めて発見・認識したリスクである場合も多いだろう。この例の場合では、有害物質の処理方法やそれを生じない代替の製造技術が確立されていないとしよう。そのようなとき、リスク対策のコストを算出することは可能だろうか。
 リスクへの対策が不可能なら、コストは無限大である。では、ある一人の研究者がリスク対策の技術を開発したとしよう。そのとき、そのリスク対策は、コスト無限大ではないが、値段のつけようがない。資本主義社会でのものの値段は、ある値段なら売るという人がいて、その値段なら買うという人がいて、それで決定される。新たに見い出されたリスクの、新たに開発されたリスク対策については、そのような取り引きはまだ存在せず、値段はつけようがない。その研究者は、無料で技術を使わせるかもしれないが、どれだけ膨大な金を積まれても技術の使用を断るかもしれない。つまり、コストはゼロかも知れないし無限大かも知れない。
 それほど極端な場合でなくても、基本的に資本主義社会での値段は需要と供給の関係で決まることを思い出せば、リスク対策のコストは原理的に不確定であることが理解できよう。リスク論的分析が適用されるリスクとは多くの場合未知なるリスクであり、その対策にはほとんど常に特殊な技術が必要になる。つまり、供給側は常にきわめて限定される。したがって、その値段を容易に高いまま保つことができる。場合によっては、リスク対策を供給できる企業が一つしかないこともあるだろうし、それがリスクを生み出している当の企業であることだって考えられる。(典型的には、独自の技術である物質を製造しているプラントで有害物質が発生したとして、その発生を抑える技術を提供できる可能性があるのは、まず第一にはその当の企業であろう)その場合、企業はリスク対策のコストを好きなだけ高く主張することができ、結局リスク対策の実施を免れることができる。
 実は中西氏は、リスクベネフィット分析のこのような問題点を認識していた[4]。
「公害規制の過程で、企業ができないと強く主張し、あるいは、そんなことをすれば企業がつぶれると主張し、規制が出来なかったことをたびたび経験してきた。・・・リスク・ベネフィット原則は、合理的に見えるが、極めて現状肯定的で、可能だと誰にもわかっていることしかできないし、ひとつの業界が口を合わせて、できない、費用が高すぎると主張すれば規制ができないという面がある。リスク削減の競争が行われるという保証がなければ、実はリスク・ベネフィット原則と言うのはリスク削減の方向性を持たないということに注意していただきたい。」
「リスク削減の競争」が行われればコストは下がる。ではその「競争の保証」はいかにして得られるのだろうか。誰かが、たとえば中西氏のような人が競争しろと命令をして、それで企業が競争するわけではない。企業が競争するのは、そこに需要があり、利益をあげる可能性があるとみなされるときである。そしてこの場合の需要とはリスク対策の実施である。リスク対策を実施すると決定されて初めて、それに必要な技術の需要が生まれ、競争が始まる。しかしリスク論的分析が行われている段階、すなわちリスク対策をこれから実施すべきかどうかを議論している段階では、原理的に、競争はまだ存在しない。したがって、上の文章は中西氏が自分のリスク論の致命的な欠点を自ら明らかにしたものである。企業間の競争という、分析が行われている時点で原理的に存在し得ないものが、分析の必要条件とされているのだから。
 リスク対策に定価はない。科学技術の進歩や社会の決断によって、リスク対策のコストはダイナミックに変化し得る。そのコストを固定的に考えると、ベネフィットが大きく見積もられ、リスク対策に対し過度に否定的な結論が導かれやすくなる。

2-2 リスク評価の問題点
 この節ではリスク論的分析でのリスク評価に関わる問題を考える。ただ、最初に述べたように、小さなリスクの評価の技術的な困難さ、不確定さについては、すでによく知られていることであるので、ここでは扱わない。以下では、科学的理解の不十分さ以外の、リスク評価を誤らせる二つの要因について考察する。

a) 関係者がルールを破るリスク
 この節では狂牛病BSE問題を例にとって議論をすすめる。BSE問題はリスク論に係わる議論においてもっとも頻繁に取り上げられているテーマの一つである。それは、この問題が社会に与えた影響が大きく、かつリスク評価やリスク対策について意見の一致が見られず議論が続いるためであろう。ただここでは一連の議論を紹介することはせず、あくまで原則的な議論の例題として扱う。
 BSEは、感染した牛の肉骨粉を他の牛が餌として食べることで伝染する。したがって伝染を止めるには、牛が牛の肉骨粉を食べないようにすればよい。BSEおよびそれに類似の病気にかかるのは牛、羊などであり、豚や鳥が発症する恐れはない。つまり、牛の肉骨粉を豚や鳥が食べることに問題はなく、また豚や鳥の肉骨粉を牛が食べることにも問題はない。そこで、英国ではBSEの拡大を防ぐため1988年に牛(反すう動物)への反すう動物の肉骨粉の使用が禁止された。しかし、その後もBSEの発症は、減少はしたものの止まることはなかった。つまり、このとき英国ではBSEというリスクに対する適切な対策をとることができずリスク管理に失敗した[5]。
 この1988年の時点において、BSE伝染のメカニズムについての理解が間違っていたわけではない。発症に必要な病原体プリオンの量がごく微量であることは十分認識されてはいなかったにしても、牛の肉骨粉を牛に与えないようにすれば感染は防げるという認識は科学的に正しい(と現在でも見なされている)。したがって英国で取られたリスク対策は科学的に正しいリスク評価に基づいていた、と言える。にもかかわらず対策が失敗したのは、豚やニワトリには牛由来の肉骨粉の使用が認められていたため、それがさまざまな経路で牛の餌に混入したことが原因とされている。現に、1996年にすべての家畜への肉骨粉の使用が禁止されることで、ようやく英国でのBSE発生はほぼおさまった。
 牛の肉骨粉を豚に与えることのBSE発症リスクはゼロである。一方、肉骨粉を使うことによって飼料代も安くなりまた肉骨粉を廃棄物として処理する費用も不要になるからベネフィットは大きい。したがって、肉骨粉を豚に与えることを禁止する対策は、リスクベネフィット分析では当然否定される。だが、その結論は間違っていたことを現実は証明している。
 このように、科学的な評価ではリスクがゼロあるいは極めて低いとされているにもかかわらず、現実には大きなリスクが発生することがある。その原因は関係者による規則破りである。上の例では、牛の肉骨粉の牛への使用が禁止されたにも係わらず、それが守られずにBSEの感染が引き起こされた。飼料会社や農家の不注意から、他の家畜用の飼料と牛用の飼料が混ざってしまったのかもしれないし、あるいは、用途が制限されて価格が下がった牛の肉骨粉を、禁止されていると知りつつ牛に使ったケースがあったかもしれない。ともかく、故意にせよ過失にせよ規則は破られBSEは伝染し続けた。それをとめるには、すべての家畜への肉骨粉使用禁止という、より厳しく広範囲な禁止ルールを設け、規則破りを起きにくくする必要があった。
 日本においても、2001年に国内でのBSE発生を受けまず牛の肉骨粉の牛への使用が禁止された。しかしその後すべての肉骨粉のすべての用途への使用が一旦禁止された。科学的にはそのような広範囲な使用禁止は必要がないと判断される。しかし、感染の状況だけでなく肉骨粉の使用状況、管理状況がよくわからない段階では、そのような広範囲の禁則をもうけるのは理にかなっている。少なくともその時点では規則破りのリスクを重く考える必要があったのである。
 日本政府がとった全頭検査という対策も同様に考えれば肯定的に評価することができる。この全頭検査に対して、たとえば危険部位の除去で人間へのリスクは取り除くことができるから全頭検査は不要である、といった批判がある。危険部位の除去でリスクが低減するのはたしかである。しかしここでも問題は、危険部位の除去が完全に行われるか否か、規則破りが起こらないかどうかである。過失によるのであれ故意であれ、危険部位が十分除去されずBSE感染牛の肉が市場に出てしまったら、人間にとって重大なリスクになる。したがって、少なくとも食肉加工に関する管理検査体制が十分に整ったと判断できるまで全頭検査を行うのは合理的な判断であり、それを科学的知見に基づいていないと非難するのは間違っている。
 以上述べたように、単純に「科学的」なリスク評価は、ときに現実から遊離し誤った結論を導く。規則破りのリスクを無視し、科学的評価によるリスクだけを考慮する論理は、たとえば次のような主張の論理と同じである。
 銃は人に向けて発砲しなければ人が死ぬことはない。銃を人に向けて発砲することは法律で禁止されている。よって、銃所有によって殺人が増えるというリスクはゼロであり、殺人事件を防止するため銃の所持を規制すべきだという主張は、「人に向けて発砲しなければ人が死ぬことはない」という科学的真実を無視した非科学的な主張である。
 あえて説明するまでもないことだが、銃の規制について意見が分かれるのは、規則破りをどの程度深刻に考慮するかという点で立場が相違するからであって、「銃を人に向けなければ人は死なない」という事実認識が異なっているわけではない。そしてもちろん、「銃を人に向けなければ人は死なない」ことがまぎれもない科学的真実であるからといって、銃所有にリスクがないと考えるのは、たいへんなリスクの過小評価である。

b) 専門家にだまされるリスク
 次に水俣病を例にとってリスク評価に係わるもう一つの問題を考える[6]。水俣病は被害の大きさという点で国内で最大級の公害だが、汚染を引き起こした側の行為の悪質さという点でも最上級の形容が必要になる。そのことが、リスク評価で忘れてはならないもう一つのファクターを教えてくれる。
 水俣病の原因は、チッソ(日本チッソ肥料株式会社)のアセトアルデヒド製造工程から排出された有機水銀であった。有機水銀の蓄積した魚貝類を食べた人々が水俣病を発症し、最初の被害は1956年に報告された。その後も被害は拡大し続けたが、チッソの排水が原因だと政府が認定したのは1968年になってからで、それまでは原因は不確定とされ、行政的な対策はとられなかった。
 もし、もっと早い時点で排水を止める、あるいは水俣湾の漁獲を禁止するといった措置がとられていたら、被害ははるかに小さい規模で食い止められたであろう。しかし、いちど漁獲禁止措置が検討されはしたが結局行われず、有効な対策がとられないまま10年以上にもわたって新たな犠牲者が生み出され続けた。現在の地点から考えれば、このときのリスク対策は無惨な失敗であったと断言してよい。つまり、このままチッソが操業を続け人々が水俣湾の魚貝類を食べ続けるということのリスクを、とてつもなく過小に評価したと言える。ではなぜそのような大失敗をおかすことになってしまったのか。
 行政が対策に乗り出すことができなかったのは、表向きは、原因が不確定であったからである。1968年以前においては政府はチッソの排水が原因であると認めなかったし、そうである以上そのことを前提とした対策をとることはできなかった。たしかに水俣病のように広範囲な有機水銀中毒を人類はかって経験したことがなかった。また原因物質もすぐに特定できたわけではなく、調査開始当初は有機水銀以外の無機物、有機物も原因として疑われた。
 しかし、よく知られているように、1959年にチッソ付属病院で工場排水をネコの餌にまぜて与える実験が行われ、アセトアルデヒド工程の排水を投与した猫「ネコ400号」が水俣病を発症した。猫の臓器の水銀も定量されている。つまりこの時点において、チッソの工場排水が水俣病の原因であることが、しかもどの工程からの排水かまで特定されて、明確に判明していた。金属水銀から有機水銀が合成されるメカニズムはまだ解明されていなかったにしても、少なくともチッソの操業停止、あるいは水俣湾での漁獲禁止といった措置を決断するに十分な情報はすでに得られていたことになる。
 したがって、水俣病におけるリスク対策の失敗、つまりはリスクの極度の過小評価を、科学的知識の不十分さのためと考えるのは正しくない。リスクを正しく評価するための情報は1959年にすでに得られていた。しかしそれが意図的に隠されたために、正しいリスク評価ができなかったのだ。したがって、リスク評価の失敗の真の原因は、専門家の情報隠ぺいである。
 水俣病のケースは、専門家が適切な情報提供をしなかったためにリスク評価に失敗した例であるが、専門家に起因するリスクにはこれと少し性質が異なるものもある。それを例示するため、これもきわめて有名な薬害エイズ事件を取り上げる[7]。血友病の治療に用いられた非加熱の血液製剤がエイズウイルスに汚染されていたため血友病患者がエイズウイルスに感染した。この事件では、被害者の一人の主治医であり当該研究分野で指導的立場にあった安倍英、厚生省の生物製剤課長であった松村明仁、非過熱製剤の販売元ミドリ十字社の社長であった松下廉蔵の三人が被害者から殺人罪で刑事告訴され、業務上過失致死容疑で逮捕起訴、松村、松下の二名については有罪が確定した。
 薬害エイズ事件においては、非加熱製剤を使い続けることのリスクとベネフィット(薬の副作用と効果)の判断が問題になった。そして結果的には、使い続けることのリスクが正しく評価されず悲劇が引き起こされたように見える。しかし、ことが単に医学的なリスク評価を誤ったというだけなら、関係者が殺人罪で告訴、過失致死で有罪という事態にはならなかったであろう。とりわけ、非加熱製剤の危険性が認識され加熱製剤が承認された後も市場に出回った非加熱製剤が回収されることなく使われ続けたことは、科学的知識の不十分さによるリスク評価ミスとみなすことはできない。それゆえ、回収しなかった製薬会社と回収を命じなかった厚生省の責任者に有罪判決が下されることになった。
 薬害エイズで有罪になった二名は医学の専門家ではないにしても、医学の専門家集団を統率する立場にある、別種の高度な専門家であった。なかでも厚生省の村松課長は、専門家から情報を収集しそれをもとにリスク評価を行う任務を負っていた。つまり、リスク評価を行う当の本人が、重要な情報を隠ぺいし無視することによって、過った結論を導き出したことになる。水俣病では情報を提供すべき専門家が情報提供しなかったためにリスク対策に失敗したが、薬害エイズでは情報提供を受けた専門家がそれを無視したためにリスク対策に失敗した。どちらのケースも、科学的知識の不完全さのためではなく、専門家の不誠実によって正当なリスク評価が行われず大きな被害が発生した。これを一般の人の側から見れば、専門家にだまされて被害を被ったという言い方ができよう。つまりこの社会においては、専門家にだまされる危険性が存在する。(この危険性つまりある種のリスクは、ある元リスクを対象とした評価の過程にかかわるものであるから、元リスクとはレベルの異なる、いわばメタリスクというべきものである)それを回避するためには、専門家によるリスク評価を絶対視するのではなく、より一段上のレベルで専門家の主張を相対化して検証し、同時に専門家自体を評価する必要があるだろう。
 ところで薬害エイズ事件においては、安倍医師は一審で無罪判決を受け、控訴審の判決前に死去した。一審判決理由によれば、当時安倍医師は非加熱製剤によるエイズ感染の可能性は低いと考えており、したがって非加熱製剤の薬効を考えて投与を続けたことは合理的な判断であると認められた。実際に安倍医師がエイズの危険性をどの程度認識していたのか、もはや確かめようはない。被害者は彼の行為に患者の命を奪おうとする意図を読み取ったし、検察は明白な危険性を無視した過失があると判断した。しかし今の時点では、単にそういう疑いがあったというしかない。
 科学的理解が不完全な段階では、誤った判断があったとしても、それが意図的な欺瞞なのか単なる間違いなのか言いあてることは難しい。水俣病においても、いわばチッソ側に立って、チッソ排水が原因ではないと主張した専門家が複数いた。彼らは単に間違えただけなのか、それとも真実を知っていながらそれを隠そうとしたのか、確かめるすべはない。ただ、彼らの説が意図的な虚偽であったという疑いは残る。そして多くの有名な公害、薬害問題において、そのような疑いを抱かせる専門家の活動があった。一般の人々の側からすれば、専門家にだまされる危険性は、常に忘れるわけにはいかない。

c) 人々の不安感とリスク論
 上のa)、b)で述べた不正行為の可能性は、実は一般の人々が抱く不安感の中にはすでに織り込まれている。たとえばBSE問題が発生してしばらくは、危険部位の除去や全頭検査を実施しても、牛肉の消費量は落ち込んだままだった。それは、危険部位を除去すれば感染の危険はないという科学的知識を人々が否定したためではなく、対策が本当に完全に行われるかどうか、つまり規則破りが起きないかどうか、確信が持てなかったためである。また、原子力発電所の安全性を専門家がいかに力説しても、人々がそれに納得せずに不安を持ち続けるのは、原発に関して繰り返し事故情報隠しや検査結果偽造などの不正行為が行われているからである。人々はこれまで報じられた様々な事件から、関係者の規則破りや専門家の欺瞞の可能性を学習し、それに基づいた不安感を抱く。それは当然かつ合理的な不安である。
 一方リスク論的分析では、通常そのような不正行為のリスクが考慮されることはない。それは、いわば守備範囲の外であると認識されているであろう。関係者の規則破りはリスク評価ではなくリスク管理の問題であり、専門家の虚偽も含めて不正行為には刑法の処罰で対応すべきである、だからリスク評価とは別の問題であると。そのような立場での分析は、それはそれで存在価値がないわけではないだろう。しかし、不正行為は現実に存在するリアルなリスクであって、守備範囲を限ってそれらを無視することは現実の問題への忠実な対応を放棄することになるし、結果的にリスクの過小評価つながる。そうである以上、不正行為というリアルなリスクを正しく織り込んだ人々の不安に対して、リスク論の側から非科学的であるとか感情的で過剰な反応であるといった非難を投げつけることは正当ではない[8]。
 人々が専門家や事業関係者を信頼せず規則破りを疑うことは、誰にとっても幸福なことではない。しかしだからといって、その不信感を取り除くにはどうすべきか、という問題の立て方をすべきではない。信頼とは心理状態である。ある人が実在しないものを恐れているときには、その人の心理状態が問題にされるべきである。しかし、人が現実に存在する危険なものを恐れているとき、問題にされるべきは現実であってその人の心理状態ではない。上で見たように、リスクに係わる不正行為は実在する。そうである以上、容易に信頼しないことが現実に正しく対応した心理状態なのであり、信頼を問題にするなら、信頼をどうやって生み出すかではなく、安易な信頼が生まれないようにするにはどうしたらよいか、という問いをたてるべきなのだ。そして専門家はそのような人々の不信感に耐えなくてはいけない。現実には、人々の不信感不安感が間違った認識に基づいていることもあるだろうし、専門家個人の立場では、自分の正当な主張が信用されないことは理不尽と感じられるだろう。しかし、人々が感じているのは個々の専門家というより専門家という人種全体、あるいはこの社会の全体に対する不信感なのだ。誠実な専門家であっても、専門家集団の一員としての責任は免れることはできず、したがってその不信感は自分の身で受けとめなければならない。

3 まとめ

 これまでリスク論の欠点、限界について考察し、リスク論的分析がリスクを過小に評価する一方でベネフィットを過大に評価し、その結果リスク対策の実施に対し過度に否定的な結論を導きやすいことを示した。その欠点を回避し、安全確保側に重点を移すためには、以下の方針がとられるべきである。
1) 専門家の主張を相対化する。科学的理解の不十分さから間違えている可能性だけでなく、専門家が意図的に偽っている可能性も考慮し、専門家自体の評価を怠らない。
2) ルールが破られることによるリスクを無視しない。ある程度の規則破りを想定したリスク評価を行い、規則破りがあっても大きな被害が出ないように余裕を持って制度を設計する。
3) 科学技術も社会も可塑的であることを忘れない。現在の科学技術や社会を絶対的な前提にしてしまうと、リスク対策のコストが過大に評価され可能なリスク対策が狭く限定されてしまう。むしろリスク対策の実施をきっかけに科学技術そのものを、社会そのものを変えていくという指向性が必要である。
 ところで、リスク管理について予防原則という考え方も提唱されており、リスク論的な原則に対置されることも多い。この予防原則とは、科学的根拠が不十分でも社会的な合意に基づきリスク対策を実行する、というような意味である。ただ、予防原則とリスク論との原理上の違いは実は明白ではない。リスク論も被害の可能性を確率的に考えているわけで、確定した被害だけを扱うわけではない。またベネフィットとの釣り合いを考えリスク対策を決めるプロセスは、本来は専門家の独断ではなく社会的合意を踏まえて行われるはずのものだ。つまりリスク論にも予防原則的な要素を取り込むことは可能である。一方、いくら予防原則といっても、すべてのリスクに完璧な対策をこうじることは不可能である以上、リスクの選定が行われざるを得ない。したがってそこではリスク論的な分析が用いられることになるかもしれない。
 すでに繰り返したようにリスク論的分析には形式的な合理性があるし、その結論も常に非現実的なわけではない。リスク論的分析に欠陥があるとしても、不確定で複雑なリスクに対するときは、どのような方針をとっても、なんらかの欠陥を抱えざるをえない。したがって、欠点があっても直ちに排斥してしまうべきではない[9]。必要なのは、リスク論を完全否定するのでも絶対視するのでもなく、「原則」の地位から下ろし、限定的な有効性を持つひとつのツールの地位に置くことであろう。


[1]ジョンDグラハム、ジョナサンBウィーナー「リスク対リスク」菅原努監訳 昭和堂(1998)1章
[2]文献[1]3章
[3]そのような議論の例として、文献[1]9章
[4] 中西準子:「環境リスク論」、岩波(1995年) 7章
[5]山内一也「プリオン病の謎に迫る」日本放送出版協会(2002)6章
[6]原田正純「水俣病」岩波書店(1972)
[7]廣野喜幸「薬害エイズ問題の科学技術社会論的分析に向けて」(藤垣裕子編「科学技術社会論の技法」東京大学出版(2005))
[8]人々の不安感を非科学的であると非難する文献の例として、中西準子:「環境リスク学−不安の海の羅針盤」、日本評論社(2004年)
[9]K. S. シュレーダー=フレチェット「環境リスクと合理的意志決定」松田毅監訳 昭和堂(2007) 11章


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