遅ればせながら、2011年3月11日の震災をうけてのつけたし

 専門家にだまされるリスクがある、ということが論文の主張の一つだったが、あの原発事故を経験した今では、多くの人にとってそのことはすっかり自明のことになってしまった。事故の解説でマスメディアに登場した○○大学教授たち(特に、東京大学教授たち)は、明らかに嘘を言って私たちをだまそうとしていた。情報がなくてわからなかった部分もあったのかもしれないが、そういうときはわからないといえばいいものを、彼らはわかっているふりをして解説をしていた。私はそう考えているし、同じように考えている人は多い。
 というわけで、今となっては私の論文の存在価値はすっかり薄れてしまったと思う。なにしろ、非常にたくさんの日本人が、専門家にだまされた、という感情を現に抱いているのだから。震災から1年後の3月10日の朝日新聞に、小説家の阿部和重さんが文章を寄せている。その中で阿部さんは、震災によって(いや、原発事故によって、というべきだ)、言葉や情報への信頼が失われた、言葉が壊された、と述べている。その通りだと思う。あの時の大学教授たちの姿を見てしまうと、大学教授という人間たちはまったく信用ならないのではないかという気がしてくる(自分もそのひとりではあるのだが)。
 しかし、当の専門家たちは、そのことに気がついていないようだ。原子力なり放射線なりの専門家として(あるいは、○○大学教授として)発言をすれば、それで素人は信じてくれるといまだに思い込んでいるように見える。たとえば、原子力政策の基本方針を決める原子力委員会の専門委員である大学教授が原発関連業界から多額の寄付を受けていたという報道があった(2012年2月6日)。その教授たちは、「会議での発言は寄付に左右されない」と話していたという。原理的にはそういうこともありえるし、震災前なら、その言葉を信じる人もけっこういたかもしれない。しかし、いま私たちは、もはやそのような言葉を信じはしない。そのような言葉を信じるべきではないと、私たちは震災を通して学んでしまったのだ。ところが、あの教授たちはそのことを認識していない。だから、「寄付に左右されない」などという言い訳を平然と口にし、それを聞いた私たちはますます深く絶望することになる。
 専門家の言葉を人々が信じなくなったことで、食品やがれきの放射能に関する安全基準も信用されなくなり、問題の解決策を見出せなくなってしまった。やっかいなことに、この安全基準に関しては、本当の正解を実は誰も知らない。にもかかわらず、専門家たちは「安全だ」あるいは「危険だ」と強く断定的に主張している。はっきりわかっていないはずのに専門家が断定しているときは、実はなにか隠れた意図がある。私たちはそのことを震災によって学習した。だから、専門家たちが主張の言葉を強めれば強めるほど、人々の専門家に対する疑いの念は強まっていく。
 では、どうしたら専門家が信頼を取り戻せるのだろう。あらゆる専門家たちにとって、この問題は切実な問題のはずだ。実のところ、私もいちおう太陽電池の専門家である。ネット上で太陽電池に関して間違った意見や説明を見つけることがあるが、仮にそこで「私は太陽電池が専門の大学教授です」と名乗って何かを書き込んだとしたら、はたしてその内容を信じてもらえるのだろうか。どうせ企業からお金をもらっているだろうから(実際、少しもらっている)、都合の悪いことは隠そうとしているに違いない、と思われてしまうのではないだろうか。
 私には、この専門家不信に対して、はっきりした解決策を示すことはできない。一度失った信頼は容易には取り戻せない、というのは陳腐な紋切り型であるけれども、どうしようもなく真実だと思う。唯一、私に言えることがあるとすれば、「専門家はまず口ごもるべき」ということだけだ。自分が疑いの目で見られていることを自覚する。自分の言葉はかならず裏を探られると意識し、それから口を開く。それは、原発推進派だけでなく、原発や放射能の危険性を訴える側も同じだ。放射能の安全基準のような問題に関しては、自分は間違っているかもしれないということを、はっきり表明したほうがいい。それは一見自分の主張を弱めるようであるけれども、自分の弱みもおもてに出し、自分には他人を操ろうとする意図がないことを納得させて、それでようやく人々は専門家の言葉に耳を傾けてくれるのではないだろうか。(2012年4月)

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