インドで犬に咬まれる


 2003年12月18日、インド、チェンナイにて、僕は犬に咬まれた。
 その日、IIT, Madrasで開かれているワークショップの文化プログラムで、ラーマヤーナを題材にしたインド舞踊を見た。その後、夜9時頃ホテルに戻り、近くのレストランへ夕食をとりに出かけた。そのときのメニューをまだ覚えている。Gobi Masala(日本の単語で言えば野菜カレー)とRoti(薄焼きのパンのようなもの)と紅茶だった。いつものように味と値段に大いに満足し、愉快な気分でホテルに向かって歩いていると、道の隅の方から、わりと小型の黒い犬が左側から突然駆け寄ってきた。左脚をあわてて前にふって避けようとしたが、犬の歯がふくらはぎに届いた。小さく痛みを感じた。
 犬はすぐにもときた方向へ走り去り、僕はまたホテルに向かって歩き出した。そのときは咬まれたという認識はなかった。少し歩いて、小さな痛みがまだのこっているので、脚の、犬が飛びかかってきた辺りを見ると、ズボンが破けていた。ズボンが破れてしまったのも少しショックだったが、犬の歯がズボンの布を突き破り皮膚に確実に届いていることを知って、急に不安になった。
 ホテルの部屋に戻り、ズボンを脱いで見てみると、歯一本分の傷がふくらはぎに付いていた。浴室で少し洗いはしたが、蛇口の構造の関係で直接お湯がかからず完全に洗浄したという自信はない。後になって、あのとき何とかしてもっと完全に洗っておけば良かったと繰り返し思った。
 柴田元幸という翻訳家のエッセイにインドで犬に咬まれた体験談があるのを、ホテルの部屋で僕は思い出した。狂犬病の疑いがある犬に咬まれ医者に行ったところ、血清を打つか、運を天に任せるか、どちらかを選択をするように言われた。狂犬病になったら命を失うのだから、日本だったら有無を言わさず血清を打つに違いないのに、といった内容だ。つまりインドでは狂犬病がある。その犬が狂犬病であるなら命が危ない。だがガイドブックには、他の伝染病のことは書いてあっても、狂犬病のことは一言も書いてない。それに咬み傷はほんの歯一本分のかすり傷だ。
 その後、今まで何度か言葉を交わしたことのある顔馴染みのホテルのボーイさんに会い、今日は一日どうでした、という質問に対し、いい一日だったけどたった今犬に咬まれた、という返事をしてみた。すると彼の顔の表情が変わった。そして、すぐに医者に行こう、と言った。
 夜もやっている病院がホテルから歩いてわずか数分のところにあった。小さな町医者の雰囲気で、僕は何度もその前を通っていながら、そこが病院だとは今まで気づかなかった。彼は親切にも僕をそこに案内し、医者に状況を説明してくれた。そして僕にこう言った。昔は犬に咬まれるとお腹に何度も注射をしたが、今は腕に一度するだけでいいんだ。
 医者は三畳ほどの小さな診察室で僕の脚の傷を調べ(しかし消毒も何もしなかった)、ボーイとも現地の言葉で会話を交わした後、僕に何事かを言った。しかし医者の英語が聞き取りにくく、なんと言っているのかわからなかった。anti-"セプ??"というような言葉が聞こえたので、"セプ??"は病名かとたずねたら、医者とボーイがそうだと答えた。僕はこのときのことを、つまり自分の英語力と注意深さの不足を、繰り返し後悔することになる。狂犬病の英語名がrabi(rabies)であると、そう言われれば思い出せたはずだが、そのときは狂犬病のことしか頭になく、医者がいった病名が狂犬病のことだとうっかり思いこんでしまったのだ。
 インドでは完全に医薬分業になっているようで、医者が書いたメモ書き=処方箋をもって、僕らは薬局へ薬を買いに行った。病院付属の薬局はもう閉まっていたが、歩いて10分とかからないところに24時間営業の薬局があり、そこで医者のメモ書きを見せて小量の薬品の入った注射器を購入した。このときは本当にボーイに感謝した。彼がいなかったら、薬局を見つけるのも容易ではなかったはずだ。注射器は10ルピー、約25円だった。
 病院に戻ると、今度は看護婦が出てきて買ってきた注射を打ってくれた。ボーイは、もうこれで心配はいらない、というようなことを言った。僕もそう信じた。
 翌日、ホテルのフロントの従業員が、病院に行って注射をしてもらったか?、と僕にたずねた。そしてボーイと同じく、昔は腹に何度も注射をしたが今は一回だけだ、という話しをした。そのときの会話の中に、"anti-rabi"という言葉が出てきた。その時点で僕は狂犬病=rabiであることを思い出したのだが、前日の医者の言葉との食い違いをちゃんと考えようとはしなかった。愚かだった。犬に咬まれて注射をするのは初めてかときかれ、初めてだと答えると、日本には犬はいないのか?ときき返された。これはちょっとした笑い話だとそのときは思った。

 12月24日の朝、僕は帰国した。空港の検疫で、犬に咬まれ注射を打ったことを言うべきだったが、僕はそれをしなかった。僕はその時、あの病院での注射で、すべては解決していると思い込んでいたのだ。もしちゃんと検疫で申し出ていれば、もう一日早くワクチン接種を開始することができていた可能性が高い。
 昼ごろ大学に出て、すぐに打ち合わせに呼ばれてそれに出席し、終わって戻ってきてからインターネットで狂犬病について調べた。咬まれてからの潜伏期間は普通は1〜2カ月だが個人差が大きく、短いと2、3週間、長いと1年以上になる。発症後の致死率は100%で、潜伏期間のあいだに対処しないと命がない。かっては血清を繰り返し打っていたが、副作用がきわめて強く、今は安全なワクチンが開発されたのでワクチン接種を行う。
 インド人がかってお腹に何度も注射を受けたのは血清だろう。そして僕が受けたのはワクチン接種だったのだろう、と僕はその情報を読んで思った。ただ、おかしな点がある。ワクチン注射は何回か繰り返し行わなければいけないと、どのホームページにも書いてある。なぜあの医者はひとつの注射で十分だと言ったのだろう。インド人はもうある程度免疫力があるから一度で大丈夫なのだろうか?
 不安になって名大病院に電話をした。インターネットの情報によれば、この東海地区で狂犬病の予防接種をしているのは名大病院、名鉄病院、豊田記念病院の三つだけだった。僕が電話をしたとき時刻は5時少し前で、すでに病院の受け付けは終了しており、電話は救急の部門に回された。そこの担当者(もちろん感染症が専門ではない)に状況を説明し、二十分ほどして折り返し電話があり、名大病院ではワクチンは常備していない、名鉄病院には常備されているのでそちらに行った方がいい、と聞かされた。名鉄病院に電話をしたが、電話に出たのは守衛で、外来なら明日8時半からにしてくれ、と言われた。
 翌朝9時前に、名鉄病院に行った。受け付けで最初は外科に行けと指示され、外科で今度は予防接種センターに行くように言われた。9時半近くなって、予防接種センターの医師が出勤してきたので、ドアの前でつかまえて、インドで犬に咬まれたことを言った。
 その医師、宮津医師は、まずインドで受けた処置のことをたずねた。注射を一本。それはどんな注射かわかるか、とたずねられ、インド人医師が書いたメモ書き=処方箋を見せると、宮津医師はその暗号のような手書き文字をしばらくながめた後、これは破傷風の注射だろうな、と言った。そしてこう続けた。インドでは狂犬病のワクチンはほとんど手に入らない。
 ここでようやく僕は自分の置かれている状況を理解した。インドでは今でも毎年何万人もの人が狂犬病で命を失っている。しかし狂犬病のワクチンはあまりない。ワクチンが不足しているからこそ、何万人もの人が死ぬ結果になっていると言うべきだろう。インド人医師が破傷風のワクチンだけを僕に打ってそれで大丈夫だと言ったのは、あるいはその地域では狂犬病の発生がないとわかっているからかもしれない。しかし、もしかしたら、狂犬病の危険があると承知しつつも、ワクチンが手に入らないから、破傷風だけで済ませたのかもしれない。
 前日にインターネットで調べていたので、宮津医師からあらためて説明を受ける前に、僕は次のようなことを知っていた。狂犬病は犬に咬まれてからワクチン接種を始めても効果があるが、一回のワクチン接種では効果がなく、何度も繰り返して徐々に抗体値を高めていかなければならない。一方傷口から体内に入った狂犬病ウイルスは、神経を伝って脳に向かって進み、脳内に入ると狂犬病を発症する。脳には、血管がもつ特殊なフィルター作用により科学物質も血清も届かないため、発症すると治療の手だてはない。ワクチン接種によって抗体値が十分上がるのと、ウイルスが脳に達するのと、どちらが早いかが生死を分けることになる。そのため、最初のワクチン接種は、できれば咬まれた当日、遅くても咬まれてから3日以内に行わなければならない。
 犬に咬まれたのは18日、この日は25日、すでに一週間が経過していた。宮津医師は、いそがないと危ないな、とつぶやいた。それから、普通に打ったのでは間に合わないので三カ所に打ちます、と言って、両腕に一カ所づつの皮下注射と左腕の肩の近くに筋肉注射をした。後で教えてもらったが、皮膚のすぐ下に液を入れる皮下注射の方が抗体値が早く上がるのだそうだ。
 それから次回以降の接種の予定を決めた。二回目は28日の日曜日、三回目は31日の大晦日の日、四回目は1月6日。接種の開始が遅れたことを考慮し、標準的な日数より少し期間を短縮してある。28日と31日は、本来なら休日の日にわざわざ出てきていただいて接種をしてもらうことになる。しかし宮津医師はそのことを躊躇する様子を少しも見せなかった。三回目までこうやって三カ所に注射していきましょう、そうすればだいじょうぶでしょう、それでもし発症しちゃったら、そのときは、困っちゃうね、と宮津医師は言った。
 最悪の気分だった。間違いなく、今までの人生の中で最悪の気分だった。狂犬病は発熱、悪寒などの風邪症状で始まり、やがて麻痺と狂躁の状態になり、恐水発作という特有の痙攣発作が起こる。そして呼吸困難になり死亡する。まさに狂い死にである。僕は自分がそのように死んでいく姿を想像した。想像するのをやめようと思っても、すぐに繰り返し思い描いていた。
 僕を咬んだ犬が狂犬病である可能性と、そうでない可能性と、どちらが高いかと言えば、そうでない可能性の方が高いだろう。また、ワクチン接種の開始が遅れたとはいえ、3日過ぎたら効果がゼロになるわけではない。3日以内なら100%助かるが、それを過ぎると確率が100%ではなくなる、ということだ。それに、咬み傷は大きくはないし、咬まれた部位が頭から遠いほど潜伏期間が長いとあったから、ふくらはぎなら比較的余裕があるはずだ。
 しかしいくらそう考えても不安は消えなかった。わけもなく咬みついてきたということは、狂犬病にかかっていた証拠ではないのか。4日間の遅れがどの程度深刻なのか、ホームページには書いてない。ホームページには、かすり傷でも感染するとはっきり書いてある。
 僕はすぐに大学に出る気にならなかった。名鉄栄生駅に直結している出口ではなく、正面出口から出て駅に向かった。名駅からは、自転車を置いてきた今池に駅がある地下鉄ではなくJRに乗って千種で降り、今池までゆっくり歩いた。
 その日は実は忙しい一日だった。研究室では大掃除がある。午後、大同工大で非常勤の講義をしなければならない。インドへ行っていて処理が遅れている仕事がたまっている。人と会う約束もある。学長選挙の候補者が集まる討論会も予定されている。僕は大学へ行って、いくつか事務仕事をし、簡単に自分の部屋の掃除をし、講義をし、人と会った。何をしていても、講義をしている最中でさえ、ときどき狂犬病のことを思い出し自分が何をしているのかを瞬間的に忘れた。大学の学長選挙のことなど、少しも考える気にならなかった。それでも、僕はたぶん一見普通に仕事をし、会話を交わし、普段通りに食事をして寝た。いちおう、ちゃんと眠れた。

 狂犬病を発症して死ぬことを考え、それまでにやっておくべきことは何か、いちおう考えた。この文章を書くという作業もそのひとつだ。ただ、25日も、26日も、その作業に手を付けることができなかった。精神状態が普段とかなり変わってしまっているのが自分でもわかった。毎日書かさずしている読書もする気にならない。新聞も、特に論説記事は、まったく読む気がしない。運動もしようとしなかった。2月1日に開催されるフルマラソンにエントリーしているから、本来ならインドから帰ってきてすぐにでもトレーニングを再開しなければいけなかったのだが。
 それでも、時間とともに少しづつ楽観的に考えられるようになってきた。くよくよしていてもしょうがないのだと、徐々に思えるようになった。自分の体の中で抗体がどんどん強くなっているのだと考えるようにした。
 配偶者も含め何人かの人に、犬に咬まれワクチン接種を受けていることを話した。詳しいことをまったく話さず、ワクチンを打ってもらったんですよ、とだけいうと、相手の人は、そうですかそれは大変でしたね、と言って笑った。僕もそれにつられて、そうなんですよ、と言って笑った。そうやって笑ってくれたことで、僕はずいぶん気分が楽になった。配偶者には、ワクチン接種が何度も繰り返して必要である(だから年末に実家には帰ることができない)ことを当然話したが、咬まれてから3日以内に行わなければいけないことや、狂犬病の致死率が100%であることは話していない。だから、当然現代の医学の力をもってすれば問題は起きないはずだと彼女は信じている。もしかして狂犬病になるんじゃないかと心配している?、もし死んじゃったらどうしよう、と笑いながら彼女は言うが、これにはいっしょに笑う気にはならない。
 27日夜からこの文章を書き始めた。28日に二回目の接種を受け、翌日にはランニングを再開した。危険な二ヶ月間を生き延びた後、この文章を、インドを訪問する人への警鐘として、自分のホームページに掲載することを今は考えている。
 ところで、インドで注射を受けたとき、インド人医師は"anti-セプ??"と言っていたが、その"せぷ??"に相当しそうな病名を探したところ、"sepsis"=敗血症という病気があった。破傷風は"tetanus"であるから、聞き間違えるには音が違いすぎる。というわけで、僕が受けた注射は破傷風ワクチンでもなく、単なる抗生物質であった可能性があり、したがって破傷風の危険も考えなければいけないのかもしれない。破傷風の潜伏期間は普通は一週間以内だが、最長3週間というからまだ発病の可能性はないわけではない。ただ、破傷風は発症してからでも血清治療が可能とあるので、狂犬病に比べると恐怖感ははるかに低い。
 インドに行くなら狂犬病、破傷風、A型肝炎、日本脳炎の四種類の予防接種をしていくべきだと宮津医師は言っていた。きっとその通りなのだろう。インドを甘く見てはいけない。僕の体験のまとめは、この一言につきる。
2003.12.29

PS このときの体験には、もう一つ別の話がある。


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