「White Tiger」, Arvind Adiga、2008年

 2008年のブッカー賞受賞作である。空港の本屋でこの本を選んだのも、表紙の「ブッカー賞受賞」という文字が目に入ったためだ。だが、いまこの本を人に薦めるとしたら、ブッカー賞受賞だから、という理由よりむしろ、とにかくおもしろい小説だからという理由で薦めたい。
 小説は、中国の首相(温家宝)に宛てた手紙のような形で始まる。だが、これは手紙なのか、メールなのか、それとも発話を録音しているのか、よくわからない。(相手が相手だけに、直接語っているわけではないことはたしかだが)そして、なぜ中国の首相なのかもわからない。わからないまま、読者は主人公の語りに引き込まれていってしまう。
 彼は最初に、自分はこれから起業家について語るのだと言う。私はバンガロールで会社を起し成功した、起業の話を聴きたければ私の話を聞くべきだ。しかしすぐに、彼は自分が犯罪者であることを明かす。3年前に出された、自分の指名手配書のスキャン画像を持ち出し、そのなかの自分の記述について説明し始めるのだ。北インドの貧しい村に生まれ育ち、父親はリキシャを引いていた。デリーで雇われ運転手として働いているときに犯罪を犯し、追われる身となった。その犯罪とは、雇い主の殺害だ。
 小説は、七日間にわたり毎晩主人公が温首相に自分のこれまでの人生を語るという形をとっている。二日目から、彼は幼いころの村での暮らしを語り始める。インフラの整っていない村、四人の大地主による支配、職員の腐敗によってまともに機能しなくなった学校や病院、祖母に対して誰も頭が上がらない貧しい家庭。彼が生まれたのは1980年代のはずだが、この村の記述は20世紀前半であっても少しも不自然さはない。ある日、州の役人が小学校を視察に来た。そして、彼がクラスの中で唯一まともに文章が読めることを知り、奨学金の支給を約束する。「他の子はだめだが、お前だけはまともだ。お前は、ジャングルでもっとも見つけるのが難しいといわれている動物、白いトラだ」
 だが、彼は奨学金をもらって都市の学校に行くことはできなかった。従姉妹の結婚持参金の用意のため、大地主の一人に雇われて働くことになってしまったのだ。そして、彼に勉学を勧めていた父親が結核で死ぬ。やがて彼は兄と一緒に近くの都市に出て、ティーショップで働き始める。そこで雇われ運転手は金が儲かると聞きつけ、タクシー運転手に頼み込んで運転を教えてもらう。運転ができるようになった彼は、金持ちの家を次々訪ねてまわり、雇ってくれと頼み込む。ようやく雇ってもいいという家が見つかる。そこの次男がアメリカから帰ってきたところで、運転手がちょうど必要だったのだ。そして偶然にも、その家の主人は、村を支配している大地主の一人だった。
 こうして彼はアメリカ帰りの息子、Ashokの運転手として働き始める。Ashokは、他の家族と比べれば、はるかに西欧的な価値観、感性をもっており、アメリカでキリスト教徒のインド人女性と結婚していた。このAshokと彼との関係が中盤以降の中心的な主題であり、Ashokはいわばこの小説の第二の主人公である。そのため、インドとアメリカとの対比がいくども繰り返され、アメリカあるいは先進国全般との違いを読者は強く意識することになる。
 彼を雇った大地主は、その地域の石炭採掘の利権を手に入れ、高額な納税を免れることによって大きな利益を得ていた。しかしそのためには政治家への工作が必要だった。Ashokとその兄は、政治家への工作のためにデリーに行くことになる。家では彼以外にもう一人、先輩の運転手がいた。その運転手は敬虔なヒンズー教徒のように振舞っていたのだが、実はイスラム教徒だった。インドの家は宗教には寛容ではない。ヒンズー教徒の家に、ヒンズー教徒以外の使用人が雇われるとは考えられない。先輩運転手がイスラムであることを知った彼は、主人にばらすとおどして先輩運転手を追い出すことに成功する。こうして、彼がAshok夫妻らとともに、デリーに行くことになった。
 ここまでの彼は、言ってみれば、自分の道を自分で切り開こうとしてきた。学校に行けなくなってから、自分で運転手になる道を選び、自分で雇い主を見つけ、さらに先輩を蹴落としてデリーでの運転手の地位を確保した。ティーショップで働いているより、収入ははるかに増えた。しかし、デリーでの彼には、そのような勢いはもう見られない。Ashokと一緒に、ただ社会の流れに翻弄されていくようになる。
 Ashokたちは、デリーのGurgaonという新興地区に滞在する。("One night@call center"のコールセンターのある地区だ)新しい巨大アパートが次々建設され、大きなショッピングモールもある。夫人にはこの地区が一番いいとAshokは考え、この地区を選んだ。Ashokと兄は、大臣をはじめとする政治家に賄賂を渡し、その手下たちを言われるがまま接待する。西欧的な価値観を併せ持つAshokにとって、それはつらい務めだった。そのAshokに対し、兄(マングースというあだ名がついている)はこういう。「ここはアメリカとは違うんだ」
 政治家への工作は思ったように進まず、デリー滞在が長引いていき(最終的には八ヶ月になる)、Ashokも彼も、生活が徐々にすさんでくる。Ashok夫妻は大酒を飲むようになり、彼も酒を覚える。ある日、Ashok夫妻は泥酔状態で、彼に深夜の街をドライブするよう命ずる。途中、夫人が無理やり運転を代わり、無茶なスピードを出して走っている最中に何かをはねてしまう。はねたのが人なのか、動物なのかも確認もせず、そこから彼が運転を代わってアパートに戻る。彼は車についた血を洗い流すが、子供用の服とおぼしき布の切れ端が車輪についているのを見つける。主人公はAshokに言う。路上で暮らしている子供がひとりいなくなっても、誰も気にしません。
 このときAshokの兄マングースは帰郷していたのだが、すぐにデリーに戻ってくる。そして、彼にある書類にサインするよう要求する。それは、自分が車を運転していて誰かをはねた、という警察への申告書だった。この書類を提出することで、Ashokらは罪を逃れることができ、彼はひき逃げの罪を負うことになる。Ashokは黙っていて、彼を救おうとはしない。彼も雇い主に逆らうことができず、サインすることに同意する。
 こんなことはデリーではしょっちゅう起きている、インド人は支配者に逆らうことができないのだ、と彼は言う。言いながら、彼は申告書にサインをさせた雇い主に対して怒り、それを断ることができない自分に対していらだち、精神的に押しつぶされる。ひき逃げの申告書は、結局は警察に提出されなかった。子供がひかれたという届けが出されてないことを警察に確認し、その必要がないと判断したためだ。しかしこの一件は、Ashokを殺害する直接の動機になったわけではないにしても、彼の中で殺害を正当化する理由のひとつになったことは間違いない。
 このあと、夫人はAshokを捨ててアメリカに帰り、Ashokは精神的に衰弱する。そのAshokと彼との心理的な関係を示す印象的なシーンがある。酒におぼれたAshokがドライブの途中道端で吐く。すると彼は自分の手でその口をぬぐってあげる。吐いた汚物を、素手でぬぐう。このとき、弱りきったAshokに対して、彼は哀れみの感情を持つようになっていたように見える。しかしそこには、自分の支配者が逆に弱者になったことによって生まれる、残酷な優越感も混じっていただろう。その一方で、ひき逃げの一件での怒りは消えようがないはずで、Ashokへの奉仕は自分の奴隷根性の表れであるとも感じていただろう。
「何のために生きているんだろう」とAshokは彼に問う。彼は「神を信じるべきです」と答えながら、心の中で、もしあなたがいなければ誰が私に給料を払うというんだ、と毒づく。

 "ひき逃げ事故"のあたりから、この小説は読むのがつらくなってくる。Ashokの弱さがさらけ出され、一方彼の方は邪悪な面がしだいに表に出てくる。その結果として彼とAshokの関係が悲劇的な結末を迎えることは、物語のはじめにすでに知らされている。Ashokはもっと強い人間でありたいと思っていただろうし、彼も善良な市民になりたいと思っていただろう。そして、互いに対等な人間としての関係をきずきたいという願いを、二人とも持っていたかもしれない。だが、デリーという都市が、あるいはインドの社会が、二人にそれを許さなかった。
 小説の中ではデリーの混沌とした様子が詳しく描かれる。(中国人に向かって語っているという設定のおかげで、背景の説明は自然と詳しくなる)深刻な交通渋滞と大気汚染、路上生活者たち、支離滅裂な住所表示、車から吐き捨てられるごみと唾液、地下鉄工事など進む開発、貧者は入れない大規模なショッピングモール、豪華なホテル、赤線地区、道を聞けば人々は平気でうそを教える(インドはどこもそうだ)・・・。それは、物事が合理的に進まず、にもかかわらず猛スピードで前進を続けるインド社会そのものだ。マングースが繰り返しAshokに諭していたように、そこはアメリカ(あるいは先進国)とは異質の世界なのだ。アメリカでは、人々は自分の意思で道を選び、なりたいものになることができる。それは実際には建前にすぎないのだが、少なくともそれができることを保証する形式的な合理性は社会の中に整えられているように見える。しかしインドはそうではない。人々は合理性を欠いた大きな流れの中にはじめから飲み込まれており、そのまま流され続けるか、もしくは抵抗した挙句自分が思っていたのとは違う地点に行き着くか、そのどちらかの運命をたどる。
 冒頭で彼は起業について語るようなことを言った。そして、自分はジャングルにおいて特別な存在であるwhite tigerなのだと言った。たしかに、雇い主を殺したのは自分の意思であっただろう。しかしその殺人という結末は、彼が自ら望んで招きよせたのではなく、状況に追い詰められた結果でしかなかった。デリーの動物園で彼はwhite tigerを見てショックを受ける。本当は、ジャングルに君臨する白いトラではなく、その檻の中のトラこそが、彼のシンボルなのだった。

 彼の生活がすさんできたせいで、彼の運転手としての職が危うくなる。女を買うのを手助けした仲間の運転手は、そのことをAshokにばらすと彼を脅す。一方、彼からの送金が途絶えて久しい故郷の祖母は、用意された相手との結婚を迫る。そして、Ashokがよりを戻したかっての交際相手の女性は、彼の性質を見抜き、運転手を変えることを提案する。
 このとき、Ashokも追い詰められていた。総選挙で与党が敗北し(実際に2004年の総選挙で政権が代わっている)、これまでの工作が水の泡となり、また新たな相手に多額の賄賂を渡さなければならなくなった。大金をカバンにつめ、政治家に会いにいく途中で、Ashokは彼に殺される。雨の中、車の脇に屈みこんだAshokを割れたウイスキーの瓶で殴る殺害のシーンは凄惨である。彼はその前に、自分を脅迫していた仲間の運転手も同じウイスキー瓶で殺している。同じ瓶で二人殺す。これは殺人鬼のやることだ。
 彼が奪ったカバンに入っていた現金は、70万ルピーだという。約140万円。私たち日本人の感覚では、ひと一人の命、あるいは一人の命を奪うことに、つりあうとは思えない。だが、インド人はどう感じるだろうか。
 彼はその金を持ってバンガロールに行き、コールセンターの職員を自動車で送り迎えする事業を始める。コールセンターは、アメリカからの電話での問い合わせを受けるため勤務時間は深夜になり、職員の通勤に専用の送迎車が必要になる。彼は警察官に金を渡し、免許の不備を口実に先行の業者の車が運行できないようにして、仕事をとることに成功する。こうしてたしかに彼は起業に成功するのだが、最初に大きな口をたたいた割にはたいした起業ではない。成功の秘訣としては行政に金をつかませるということだけだし、そもそも職種もどちらかといえば隙間の産業である。だがもちろん、彼は(あるいは、この小説は)、最初から起業について語るつもりなどなかったのだ。
 彼はデリーから逃げる際、田舎から出てきていた幼い従兄弟を見捨てることができずバンガロールまで連れてきて、学校に通わせる。また、自社の車が起した交通事故で息子を失った家を訪ね、亡くなった息子の兄弟を会社で雇いたいと申し出る。だが、このような彼の善良な一面も、とってつけた言い訳のように感じられる。彼の良心も、経済的な成功も、彼の人生を翻弄した不合理さを浮き出させる皮肉でしかないようだ。

 ところで、なぜこの物語は中国の首相に向けて語られなければならなかったのだろう。中国といえばその旺盛な経済発展。たしかに日本の首相に向けて起業について語っても仕方ないだろう。そう冒頭部分では思うが、しかし起業はこの物語の主題ではない。語る相手の温首相は途中からあまり目立たない存在になるのだが、Ashokがアメリカという国を意識させる働きをしているように、ところどころで中国という国を意識させる働きをしている。経済的にはインドより進んでいるが、政治においては民主的なシステムを持たない国。そして、この物語のラストで、彼は温首相に向けてこう言う。あなただって、その地位に上り詰めるまでに誰かを殺してきたんじゃないのか? もちろん彼の言葉が温首相に届くことはない。だが、この一言を言うために、彼は温首相に語るというスタイルをとったのかもしれない。つまり、自分の犯罪を正当化するために、あるいは、自分の人生の皮肉をより一般化するために、彼は中国の首相という架空の聞き手を空想したのかもしれない。

(この作品は翻訳が出ている:「グローバリズム出づる処の殺人者より」 鈴木 恵訳 文藝春秋 (2009/02) これはまだ読んでいない。タイトルがあまりに違いすぎて、ずっと気づかなかった。)