「The Death of a Schoolmaster」, Shashi Tharoor, 1990年

  ある家族の物語である。教師の父親、15歳年下の母親、そして6人の子供がいる。(後にもう一人増える)最初は家族はたった3部屋の小さな家で暮らしていた。豊かではないが、不自由は感じていなかった。あるとき、母親の叔父が死に、大きな屋敷と農地を相続する。家族はその家に移り、父親は教師を辞め、耕作の管理をする。しかし父親はその仕事に向いていなかった。思うように収入は上がらず、父親は疲弊する。そこで、先代からの使用人の一人に耕作の管理を任せることにする。その使用人が送ってくる金額は、耕地の規模からして妥当とはいえなかったが、家族はそれで暮らしていくことができた。父親は、空いた時間で好きな読書をし、主人公に教育をする。主人公は学校で優秀な成績を収め、大学に進学し、そこで政治活動を始める。やがて共産主義政党から国政選挙に立候補し、当選する。そして農地解放の法律を成立させ、農地が耕作人の所有になるようにする。そのころ父親はガンを患い、治療に大きなお金が必要になる。そこで家族は、これまで管理を任せていた元使用人に農地を売り、代金を治療費に当てようとする。主人公がその交渉に元使用人のところに出向くと、元使用人はこう告げる。農地解放の法律によって土地はすでに自分のものになっている、あなたはもう土地を持っていない。主人公は、自分の作った法律が自分たちの土地に適用されるとは思っていなかった。それは、彼の中で理論と現実が乖離していたことの表れだった。一方父親は、高額な治療を断り、静かに死を受け入れる。そして、これからも自分の信ずる道を進むようにと主人公を励ます。父親は、本を手に持ったまま亡くなる。 「私は、父がかかえていた本を取り、それから父の目を静かに閉じた。父は、私の目を開かせてくれた。」

 20ページほどの短編である。父と子の物語なのだが、最後にインド社会全体にかかわる展開があるところがおもしろいと思った。作者は実際にかって国会議員であり、国連の副事務総長も務め、その傍ら小説や評論を執筆していた。そのような経歴が、社会の大きな話をこの小さな作品の中に入れさせたと考えていいだろう。
 この作品は、「A Monsoon Feast」という、シンガポールとケララ州の作家の短編を集めたアンソロジーに収められている(2012年にシンガポールの会社が出版)。Tharoor氏はこの本で序文の評論も書いており、その中でインド人が英語で小説を書くということについて次のように述べている。インドで英語をマスターしているのは人口の2%足らずだという。しかし外国人のために英語で小説を書いているわけではない。自分にとって、あるいは都市部に暮らす多くのインド人にとって、英語は日常の言語である。そして英語は、特定の地域に根ざしているわけではないので、他の言語よりも、インドの多様性を表現するのに適している。自分はケララ州の田舎で生まれ、ムンバイやデリーで育った。元妻はカシミールとベンガルの血が入っている。西欧の影響も含め、現代のインドの複雑さを表現できるのは英語しかない。
 ただ、ここでいう英語を"マスター"するということがどういう意味なのか実はよくわからない。ある程度英語が話せる人は2%よりもっと多いはずで、国別英語話者数というデータでは12%ほどになっている。だが、一般には読み書きの方が会話よりは難しく(私たち日本人にとってはそうではないが)、英語で小説を読むとなると、高等教育を受けかつ読書が好きという人に限られるだろうから、その割合は相当に小さくなるはずだ。そう考えると、インドにおいて英語で書かれた小説というのは、地域的には広い範囲を対象にするとしても、教育水準という点では、読者層を狭く限定することになるだろう。

 ところで、なぜシンガポールとケララなのだろう。シンガポールとインドの関係が深いのはたしかで、シンガポールにはインド人街がある。ただ、なぜケララなのだろう。(デリーやムンバイではなく)この本を出版したのはInsight Indiaというプロジェクトらしいのだが、その目的はtier 2都市と世界的なハブを結ぶことなのだそうだ。デリーなど6つの大都市がtier 1、次のランクの大きな都市がtier 2で、ケララの州都コチもそれに含まれている。tier 2都市は60ぐらいあるので、インドの他の地方とシンガポールの作家のアンソロジーもあるのかもしれない。