「Last Man in Tower」, Arvind Adiga、2011年

 White Tigerの作者の第三作、ハードカバー版で400ページ超、ペーパーバックでは500ページほどにもなる大作である。ただ、ストーリーとしてはWhite Tigerより単純であり、その分、話の進展は遅く読者はじらされる。だが、そのじらしこそが作者の狙いの一つであったと読み終えて気づくことになる。
 Towerとはムンバイ近郊、国内線空港近くにある古いアパートである。いわば中流向けのアパートで、そこに入っているのは、ある程度安定した収入がある家庭か、または長年職を勤め上げ退職した老人の家庭である。ただその周りにはまだスラム街が広がっている。  ある開発業者が、そのTowerを買収し、取り壊して新しく高級アパートを建設しようと計画した。ムンバイは急速な発展を続けている。空港の近くという点もメリットである。その地域では次々と新しいアパートが建設されており、ライバル企業も土地買収を始めている。開発業者はTowerの住人たちに対し、市場の価格よりはるかに高い買取価格を提示する。(日本円にすれば一戸あたり3000万円ほどだから、日本の大都市で新築マンションが買えてしまうぐらいの金額だ)ただし、期限を設けそれまでに全員が同意しなければいけない。同意が得られなければ買収は行わない。大半の住人はその買収案を大歓迎したが、3戸だけ同意しなかった。
 まず、左翼思想の婦人の家庭。2人の子供がいるが、夫はフィリッピンで別の女性と暮らしている。単に捨てられたというだけでなく、財産も持ち逃げされてしまったらしい。開発業者は信じられない、きっと金を払わないつもりだと主張するのだが、開発業者本人とあって説得されあっさりと同意してしまう。この簡単な変節に、作者の左翼に対する冷たい視線を感じる。左翼思想は、自分の苦境を自分で納得するための手段に過ぎなく、大金を目の前に置かれるとあっさり不要になってしまう、とでもいうような。
 もう一戸は老夫婦二人の家庭。夫は会計士として会社勤めをしていたが退職した。妻はほどんど視力を失っており、部屋の中を移動するときは、壁づたいに、壁の傷や凹凸などに触って位置を確認しながら歩く。もし新しいアパートに引っ越してしまったら、壁を触っても位置がわからなくなってしまう。それでTowerを出ることに反対する。夫のほうは、妻の意向に沿って反対を表明するのだが、内心では売却で入るお金がほしいと思っている。そしてある日、夫は開発業者の腹心がやとったごろつきに襲われそうになる。襲われそうに、といっても、実際はホッケースティックを持った若者が目の前に現れただけなのだが、夫は驚いて足元にあった穴に落ち怪我をする。それで、この夫婦は買収への反対を取り下げる。
 そして、最後まで反対を貫いた最後の一戸、"last man"は、かって理科の教師をしていた老人である。息子はすでに独立し、少し離れたところに家庭を持っている。もう一人、娘がいたが、十年以上前に鉄道事故で亡くなった。そして一年前、妻がガンでなくなり、元教師の老人は一人暮らしになった。
 ではこの元教師はなぜ最後まで反対を貫こうとしたのか。最初は、仲のよかった元会計士の夫婦への同情が主たる理由であったように見える。しかしその老夫婦の方が買収に同意したあとも、last manとなって反対し続けた。もし元教師が同意しなければ、買収の計画はつぶれ、住民たちは大金を得るチャンスを失ってしまう。だから他の住民たちは元教師を説得しようとしたのだが、それでも元教師は同意しなかった。
 なぜ元教師はそこまでかたくなに反対しようとしたのか。それがこの小説のポイントである。反対の理由は、実ははっきりしない。これまで住んできた部屋には亡くなった妻や娘の記憶が残っており、元教師はそれを失いたくないと思っている。そのような気持ちは、たしかに理解できないではないが、それだけで大金を拒否する十分な理由になるものだろうか。元教師は、自分は何もほしくないのだ、と繰り返し口にする。なるほど先の短い当人には大金は不要なのかもしれないが、息子家族にとっては大きな助けとなるはずだ。それだけでなく、元教師が反対し続ければ、他の住人たちはよりよい生活を始めるチャンスを奪われてしまう。それだけの犠牲を払うだけの意義が、元教師の反対にはあるのだろうか。
 もし開発業者が悪徳で、元教師が周囲の尊敬を集める人格高潔な人物なら、両者の対立は悪対善の図式になる。しかしこの小説はそうではない。開発業者は確かに強引ではあるが、犯罪行為は犯していないし、金もちゃんと払うようだ。(最後まではっきりしないのだが) それに対し、元教師の人格はあまり肯定的に描いてはいない。あまりに知識偏重で、かなり吝嗇で、ようするに堅物すぎて、自分では周りから敬愛されていると思っているが、実は好かれても尊敬されてもいない。作者は、元教師に対して毒を持った記述をいくつもちりばめている。たとえば、元教師はテレビを持っておらず、自分はテレビなど見ないと他人には言っているのだが、実はよその家のテレビを窓の隙間から熱心に見ている。そして、他の住人たちは、そのことに当の昔に気づいている。
 作品の後半になると、元教師はムンバイの貧しいものたちのために開発業者と戦おうと決意する。そしてその決意のあと、元教師はそれまでより毅然とし、小説のヒーローらしい雰囲気を身にまとうようになる。しかし実のところ、元教師のその決心の根拠はよく理解できるものではない。考えても、論理的な必然性があるとは思えないのだ。その一方で、息子は反対し続ける父親に対してこう言い放つ。あなたは、自分が偉大な人間だと思われたいだけなのだ。また、開発業者は元教師をこう評価する。弱い人間が今度こそ強くなれると思ったときが、一番やっかいなのだ。息子や開発業者のこうした言葉は、説得力をもって読者に届く。
 作品の中盤以降、読者は元教師の強情さにずっと付き合わされる。そして、開発業者と元教師のどちらを是とするか悩むことになる。開発業者に嫌悪を感じながらも、元教師に対しては、もしかしたらすでに狂気が混じっているのではという疑いを抱き始める。途中から悲劇的な結末が待っていることは予想されるのだが、話の展開は遅く、結末に向けて緊張が高まるというより、苛立ちがつのると言った方がよい。
 おそらく、読者が感じるその苛立ちこそが、この小説のもっとも重要な要素なのだ。そして、読者にそれだけの苛立ちを与えるために、この小説はこれだけの長さが必要だったのだ。自分はムンバイの貧しい層を代表しているという元教師の思い込みは、論理的には正当ではないが、文学的には立派に正当性を持っている。対する開発業者の方は、拡張し続けるムンバイという都市を背負っている。それだけでなく、インド全体の経済発展、さらにはグローバルな資本主義経済の発展をも象徴しているといっていいだろう。その両者の対決は、実は最初から勝ち負けが見えている。仮に元教師がいったんは勝ったとしても、いずれ、遠くない将来、元教師は寿命が尽きる。また、この開発業者が撤退したとしても、いずれ別の開発業者が開発に乗り出してくるのは間違いない。だから、勝つのは必ず開発側である。しかしそのことは、開発が絶対的な善であることを意味しない。この開発は間違った開発であるかもしれないし、もしかしたら世界経済の発展自体も、もう少し別の進め方があっていいのかもしれない。こうして、読者は答えの出ない問いに追い詰められていく。
 最終的に、賢い開発業者は自分の手を汚すことなく元教師を除くことに成功する。元教師は、手に入るはずの大金が失われることを恐れた住民たちによって、殺されてしまう。そこにいたるまでの住民たちの心理の動きが、この小説におけるもっとも緊迫した読みどころである。住民たちもそれぞれ複雑なキャラクターを与えられており、それぞれの人生の物語が連作短編の一編のように組み込まれている。さらに、掃除のおばさんや守衛さんの物語が、より下の階級のサンプリングのような形で加わっている。この作者の第一作「White Tiger」は一人の人物にまつわる物語であり、読み物として切れ味鋭い面白さがあった。第二作の「Between the Assasination」では、連作短編というかたちをとることで、ひとつの地域社会全体を描こうとした。それに続くこの小説では、開発業者と元教師との対立を中心におきつつも、アパートという小社会を舞台にすることで社会全体の縮図を織り込んだ。
 実際、インドという社会は人間に満ちあふれた世界である。登場人物が少なすぎては、インドという社会を描くことはできなかっただろう。