「One night @ the Call Center」, Chetan Bhagat、2005年

 作者は1974年生まれ、ということは30歳のときにこの本を執筆したことになる。IIT-DheliとIndian Institute of Managementを卒業、この本の執筆時は国際投資銀行に勤めていたそうだ。経歴からして、相当に優秀な人に違いない。IITを出て、さらにマネージメントの大学も出て、会社勤めの合間に小説を書くというのはよほど能力がなければ無理だろう。その後、会社は09年にやめて、今は作家活動に専念しているという。
 この本は、2010年にチェンナイ近郊にある某私立大学内の売店で買った。その大学は私立大学の中ではインドでトップだといわれており、またお金持ちのお坊ちゃまお嬢様が通う大学として知られている。たしかに学生たちの服装もなんとなくおしゃれというか、垢抜けた感じだった。ところで、日本の大学内には必ず本屋さんがあるが、インドの大学ではふつうはない。少なくとも私が行ったことのある大学のほとんどでは見かけなかった。ところがこの大学には小さいながらも本屋さんがあって、教科書ではなく小説などの一般的な書籍を扱っていた。そこで学生さんに「面白い小説は?」とたずねて薦められたのがこの作品である。実際、この作者の作品は他にも何冊か並んでいた。チェンナイの露店でもほぼ必ずこの人の本を見かけるし、某大学の教授に好きな小説は何かとたずねたときもこの作者の名前が出てきた。つまり、文句なく今のインドでの流行作家の一人であるようだ。なおこの作品は2008年にボリウッド映画化され、その後他の作品も続々映画化された。特に、第一作「five point someone」が原作になっている「3 idiots」(2009年)はインド歴代1位の興行成績を上げたらしく、日本でも「きっと、うまくいく」というタイトルで公開された。(名古屋では2013年5月にシネマスコーレで上映、よほど好評だったらしく、その後6月に名演小劇場で再度上映)ただ、映画の方がはるかに凝ったストーリーになっているようで、原作がよかったからヒットしたというわけではなさそうだ。(映画は、たしかに面白かった)

 この小説「One night @ the call center」は簡単な劇中劇の構成になっている。作者が夜行列車で眠れぬ夜をすごしていると、きれいな女性が乗ってきて、このコールセンターでの一夜の物語を作者に語る、という設定なのだが、これはいかにもわざとらしいというか、クサイ設定である。(ここでもういやな予感がする)
 登場人物は、デリー郊外のコールセンターに勤める6人のチームで、冷蔵庫や掃除機などの家電製品についての電話対応を担当している。男女3人ずつで、最年長はもう孫がいる初老の男性、一番若いのは主人公の親友の22歳の若者、そして主人公は26歳の男性である。アメリカからの電話を受けるために、彼らの勤務はいつも深夜になり、会社が用意した一台の自動車に乗り合わせて出勤する。(ちなみに、コールセンターがあるデリーのGurgaonという地区は、「White Tiger」で、主人公とAshokが滞在していた地区でもある。また、「White Tiger」の主人公は、場所はBangaloreだが、コールセンター職員を送迎するタクシー会社を起業する。このような重なりは、もちろん偶然だろうが、Gurgaonという地区やコールセンターという仕事が現代のインドをいわば象徴しており、小説の題材にとられやすかったためでもあるだろう)
 その晩、外部との回線の接続にトラブルがあり、かかってくる電話が極端に少なくなる。それで彼らは時間つぶしに互いのプライベートな話題を持ち出すのだが、その結果、一人ひとりの人生の色々な問題が明らかになってくる。
 主人公はチームメンバーの女性と付き合っていたのだが、今はうまく行っていない。彼はまだ未練大ありなのだが、彼女の方はアメリカ在住でマイクロソフト社勤務のインド人との結婚話を母親から持ち出され、乗り気になっている。(彼女との仲が壊れた原因は、母親が結婚相手として彼の社会的地位に不満だったためだ)この二人の恋愛話がこの小説の中心テーマのひとつで、過去のデートの回想シーンもたくさん出てくる。
 他のメンバーにかかわるエピソードのなかで、もっとも主要な問題はやはり家族問題である。ある女性メンバーは義理の母のわがままに耐えながらその面倒を見ているが、夫は浮気をしていた。年配の男性メンバーは息子夫婦との関係がうまく行かず、孫とのコミュニケーションも取れない。主人公の彼女は、結婚相手について、母親に反発を感じながらもその意向を無視できない。といった調子で、いずれもテレビドラマによく出てきそうな展開である。
 また、チームの上司がこれまた類型的なダメ上司として描かれる。コンピュータは使えない、部下の功績を横取りし、自分の出世を目論んでいる。一方で、会社の業績は思わしくなく、チームの部署のリストラが実は計画されている。
 この小説のこのあたり部分でむしろ興味深いのは、若者の新しい生活が描かれている点だろう。主人公たちが行ったディスコでは、露出度の高い女性たちが踊り、飲み物一杯の金額が半日分の給料にも匹敵する。主人公と彼女は、そのディスコに行ったときに、車の中で性行為をする。こういうことがインドで一般的だとは思えないが、こういうことをしたいと思っている若者は多いのだろう。メンバーの一人に美女がいて、いつも洋装でおしゃれをしており、モデルになることを夢見ている。彼女はモデルになるために関係者と寝たのだが、にもかかわらずモデル採用を拒否され、不安定になっている。このあたり、またしてもメロドラマ風である。
 もう一点、繰り返し現れるのはアメリカ(人)への意識である。コールセンター自体、インドとアメリカの経済的な格差ゆえに成立している仕事である。アメリカの経済的優位さに対する(対抗)意識は随所に現れる。(主人公の彼女が結婚を考えている相手がアメリカ在住の高収入の男性、というのもその一つだ)このコールセンターでは「35歳のアメリカ人のIQは10歳のインド人並み、そう思って相手をせよ」と教育される。この夜も、掃除機が吸わなくなったというクレームの電話がかかってくるが、実はごみを捨ててないだけで、それを指摘すると、「おまえインド人だろ、ごみのたくさんたまったお前らの国はいつ取り替えるんだ?」みたいなことを言われる。
 この小説では、アメリカ人は好戦的で、おびえていて、徹底的におろかな存在として描かれる。しかし、残念ながらインド人の知的水準が平均してアメリカ人より上ということはない。理不尽なクレームをつける人は、たしかにアメリカにはたくさんいるのだろうが、インドにも(控えめに言って)同程度に存在するのは間違いない。こうしたアメリカ人の扱い方は、作者の認識の幼稚さの現れと思われるが、もしかしたら読者に受ける(本を売る)ための計算された戦略なのかもしれない。

 さて、小説のラストでは、チームメンバー全員が勤務時間中に職場を抜け出し、自分たちで自動車を運転して高級会員制バーに出かけ、帰りに建設現場の穴に落ちそうな状態で身動きが取れなくなる。携帯も圏外でつながらない。そこに、主人公の携帯へ電話がかかってくる。相手はGodだと名乗る。主人公たちはGodの指示に従って車を操作し建設現場から脱出するのだが、その前にGodから人生に関するアドバイス(!)を受ける。その内容は、たとえば「内なる心からのcallを聞け、本当にやりたいことをやれ」といった調子で、中学校の道徳の教科書レベルの人生訓と考えればよい。そしてGodの言葉に励まされて、主人公たちは会社に帰って次のようなことをやる。
・PCを操作し、偽のセクハラメールを送信することで、いやな上司を懲らしめる(これは犯罪だ)
・アメリカに電話をかけて、電話をかけなければPCにトラブルが起きるというデマを流し、コールセンターへの電話を増やして自分たちの職を守る(これも犯罪だろ)
・主人公の彼女が結婚しようとしているアメリカ在住の男が実はハゲであることをあばく。ハゲを隠していたことを知り、彼女はその男性との結婚をやめ、主人公とよりを戻す(!)
もう論評する必要もない。子供向けマンガレベルのハッピーエンドと言っていいだろう。(いや、最近の日本のマンガはもっと高級か)
 それにしても、この小説がインドの大学生のあいだで(もしかしたら大学教員の間でも)人気があることはどう考えたらいいのだろう。この作者は気の利いた会話を書く能力は高いが、この作品の優れている点はせいぜいそれぐらいである。登場人物の性格やエピソードは単純に類型化されているし、話の展開もご都合主義的だ。そしてなにより、伝えようとしているメッセージが相当低い精神年齢向けである。おそらくそれは、作者自身の精神年齢が低いためであろう。作者の姿勢でどうしても承服できないのは、彼がコールセンターという仕事を見下しているという点である。コールセンターはインド人がバカなアメリカ人の相手をさせられているだけ、と彼は考えている。これはアメリカ人に対する侮辱であるだけでなく、現実にコールセンターで働いているインド人に対する侮辱でもある。実際にはコールセンターへの電話が大きな助けになったケースはたくさんあるだろうし、相手に感謝されることで仕事にやりがいを感じているインド人も多いだろう。このような地道なサービス業を軽蔑する作者の姿勢は、彼のエリート意識の現われであるかもしれない。だとするなら、この作品を高く評価する大学生も(大学教授も)、同じようなエリート意識の持ち主ということになるだろう。

 ところで、この小説の一番最後では再び夜行列車のシーンに戻り、その女性が当のGodだったかもしれない、という無理やりなオチがとってつけられて終わる。そもそも、このGodとは何だろう。宗教の神とは考えられない。なにしろこのGodの教えは、単にうまく世の中を渡る秘訣にすぎないのだから。間違いなく、この作者は宗教的というか形而上学的な感覚や思想を持ち合わせてはいない。だからこそ、Godを、ストーリ展開のための都合のいいおもちゃとして使うことができたのである。