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 僕はこの話を、「グスコーブドリの伝記」から始めました。それは、ブドリの生き方が科学者あるいは技術者の生き方の、ひとつの原型であると考えられたからです。しかし、現実の科学者の生き方は、これほどまでにブドリ的生き方とは異なっています。はじめの方で紹介したように、火山の爆発を起こすために命を捨てる決心をしたブドリはこう言い残しました。
「私のようなものは、これから沢山でてきます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派に、もっと美しく、仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
ブドリのこの言葉は、名誉や地位を追い求める現実の科学者たちの姿の、まさに対極にあります。
 いったい人は、名誉や金が手にはいらない限り、あるいは他人との競争がない限り、全力を尽くさないものなのでしょうか。そう信じている人は多分たくさんいます。ただ、話を一般化するのは適当ではないでしょう。すでに述べたように、科学者の世界ほど、個人の名前が前面に現れ、個人の名誉が尊重される世界はあまりありません。科学者という集団は、人間の中でも特に強烈に名誉や勝敗に執着しているように思えます。
 名誉が尊重される仕事が世の中にとって重要で、そうでない仕事はあまり重要でない、というわけでは決してありません。ほとんどすべての仕事は、世の中にとって重要です。そしてほとんどの人は、自分の名誉につながる、つながらないに係わりなく、熱心にその仕事をしているはずです。

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 ここで見方を変えてみたいと思います。科学者たちが名誉欲や金銭欲につき動かされているのは紛れもない真実です。科学者とは人並みはずれてそのような欲が強い人種である、と考えても、平均値としては間違ってはいないでしょう。僕はそのことを、子どものころに与えられた科学者像と対比させるかたちで、否定的に描いてきました。しかし、それは正当だったのでしょうか。

[野口英世]
 すでに述べたように、僕が子どものときに読んだ野口英世伝では、野口英世は母親への感謝と、学問的情熱と、人類愛に満ちた人物として描かれていました。いまでも、たぶん子供向きの伝記にはそのような人物として描かれているのだと思います。しかし、大人向き、というか真実をより正確に記述をした伝記では、まったくと言っていいほど違った人物像が描かれています。
 たとえば彼には病的なほどの浪費癖がありました。金を手に入れると、夜の遊びに即使い果たしてしまったそうです。有名な例では、渡米費用として手に入れた大金を、出発の数日前、料亭で一晩のうちに使い果たしています。彼の熱意や才能を評価して援助してくれたパトロンが何人かいたのですが、彼らは結果的には野口英世に財産を使いつくされ、経済的に没落してしまいます。
 仕事に関しては、強烈な野心家だったことが知られています。「学問は一種のギャンブルである」、「名誉のためなら危ない橋でも渡る」といった言葉が彼の言葉として残されています。そして実際、彼は名誉を得るため超人的な努力をしました。一日三時間ほどしか眠らない、人が一年かかることを二、三ヶ月でやり遂げる。渡米後、当時の医学研究の中心的機関であったロックフェラー医学研究所の研究員になったのも、その努力が認められたからに他なりません。そして一時期、彼はその研究所でのスーパースターでした。
 ただ、彼の研究業績は、今では忘れ去られているか否定されています。たとえば彼は梅毒の病原体の純粋培養に成功したと発表しました。それは当時偉大な成果として賞賛されましたし、僕が読んだ子供向けの伝記でもそのように書いてありました。しかし、その純粋培養は実は彼以外誰もできなかった、他の人が追試をしても成功しなかったのです。現在では、彼の報告は間違っており、彼は病原体の培養には成功しなかった、と考えられています。
 梅毒だけでなく、黄熱や狂犬病などに関する他の主な研究業績も似たような末路をたどりました。これはいったいどう考えたらいいのでしょう。彼がデータをでっち上げ、論文をねつ造したという証拠はみあたりません。おそらくそれはなかったのでしょう。しかし、意図的なねつ造がなかったとしても、彼が結果の正しさを十分検証せずに発表を急いだことは間違いありません。なぜそこまで急がなければならなかったのか、といえばそれは他の人がやる前に発表する必要があったからです。まさに彼は「名誉のために危ない橋を渡」ったのです。
 ついでにつけ加えると、彼の研究成果が一時期もてはやされたのは、彼自身の名声というより彼の師であるフレクスナーの名声あるいはロックフェラー研究所の権威のゆえであるとの指摘もあります。(「背信の科学者たち」)

[伝記]
 このように現実の野口英世は、強烈すぎる名誉欲を持つ、相当にバランスの欠けた人物でした。それが子供向きの伝記では、母親への孝行と崇高な人類愛にもえる人物として描かれていたのです。子供向けの伝記はウソだった、とは言いませんが、相当に人物像をゆがめて書かれていたとは言えるでしょう。
 この理由は明らかだと思います。子供向けの伝記は、人物像を正確に伝えるためではなく、子どもたちに道徳的な教育をするために書かれているからです。野口英世が女遊びに大金を使った話が出てこないのは、そのようなことをしてはいけないという教育的配慮からです。彼の最大の特徴ともいえる名誉欲が描かれていないのも、もっと崇高な別の目的のために生きるべきだという道徳を示すためです。”偉人伝”という言い方が示すように、まさに伝記の主人公は”偉い人”でなければならなかったのです。
 野口英世の場合はかなり極端な例だとは思いますが、他の人物についても、子供向けの伝記では教育的配慮から脚色がなされていたと見るべきでしょう。たとえば、これも定番の”偉人”であるエジソンは自ら心霊術の大家を自称し、晩年には死者の霊と交信するための装置を研究していました。また、二宮尊徳といえば小学校の前庭にある銅像が示すように、百姓仕事をしながら勉学にいそしんだというイメージがあります。しかし実際には、彼はほとんど百姓仕事をしたことがなく、ためたお金で土地を買っては小作人に耕作をさせ、あげた利益でまた土地を買うということをくり返しています。つまり、いまでいう財テクにすぐれた投資家でした。
 この話のはじめの方で野口英世と並べてキューリー夫人の名前をあげましたが、彼女については最近女性の(フェミニズムの?)研究者が興味深い指摘をしています。(川島慶子、科学史研究第28巻第3号)キューリー夫人の伝記では、必ず彼女の勤勉さが強調されています。ラジウムを分離するため4年間くる日もくる日も鉱石を溶かして濾過する作業を続けた、というふうに。もちろんキューリー夫人が勤勉であったのは確かです。しかしそれを過度に強調することで、彼女の頭脳の働きの方が低く見られてしまっています。あたかも夫ピエール・キューリーが知的な作業を担当し、彼女の方は肉体労働を担当していたかのように。これは、頭のいい女性はかわいくない、嫌われる、という性差別の意識が現れたものだと、その女性研究者は指摘します。
 あるいはまた、二度目のノーベル賞受賞講演の中で、キューリー夫人は自分の業績を、夫の業績から分けて強調しました。これは、自分自身の研究者としての功績あるいは名誉を、確実なものにしたいという思いからだと考えられます。しかしこのような点も伝記では無視されがちで、純粋に科学の発展のため、人類の幸福のためという文脈でのみ彼女の努力が語られてきました。これも、その女性研究者によれば、名誉を追い求める(でしゃばる)女性を否定的に見る性差別意識が根底にあるというのです。
 キューリー夫人は夫の死後、妻子ある研究者と不倫関係になります。このことが子供向けの伝記に書いてないのは当然といえば当然かもしれませんが、結果的にキューリー夫人という人物のイメージを歪める(つまり実体とは異なるものにする)働きをしたということにはなるでしょう。そして、禁欲的で黙々と働く女性を理想的とする男性の価値観がここにも反映しているのだという解釈が、たしかに説得力を持つのです。

[子どもの科学者像は幻か]
 子どものころ読んだ伝記の中では、科学者とは人類の幸福と真理の探究のため、ときには命まで犠牲にして研究活動に邁進している人たちでした。しかしそのような人物像は、子どもに道徳的観念を植え付けるため、あるいは下手をすると性差別意識を植え付けるために作り出された、虚像にすぎないようです。
 子ども番組のアニメや特撮ものにでてきた博士も世界の平和のため命をかけて研究していましたが、しょせんあのようなものは子供だましの作り話にすぎません。地球防衛軍と自衛隊が似ても似つかないのと同じように、彼らと現実の科学者との間には何の関連もないに違いないのです。
 人間が名誉欲や金銭欲につき動かされて仕事に励むことは、考えてみればごく自然なことだといえるのでしょう。行き過ぎは困るとしても、結果的に生産的な仕事につながるなら、そのような欲はなんら非難を受けるべきものではない。努力をして成果を上げ、その報酬を求めることは、個人としての当然の権利の主張なのでしょう。そして、子供向けの伝記というのは、そのような当然の権利の主張を抑圧する意図を持って書かれているのかもしれないのです。
 それでは「グスコーブドリの伝記」はどうなのでしょう。あれもしょせん子供向けに書かれた童話にすぎない、とあっさり切って捨ててしまえばいいのでしょうか。あるいは、宮沢賢治という特異な性格を持った作家が作り出した幻想にすぎない、と解釈しておけばいいのでしょうか。たしかに宮沢賢治には、自己犠牲、というか、自己が燃え尽きてなくなることへのあこがれがあったように思われます。たとえば「よだかの星」のラストでは、主人公のよだかは天に向かって飛び続け、やがてその身は焼けて青い光を発し星になります。そして、そのような感覚のもとには、自己に対する羞恥心あるいいは罪悪感があるといわれています。宮沢賢治は金貸し業も営む裕福な家に生まれ育ちました。その結果、子どものころから周囲の貧しい小作農とわが身を比べ、自然と罪の意識を持つようになったのだといわれています。
 そのような罪悪感に駆られた人間が、「グスコーブドリの伝記」のような物語を書き、実生活でも農民たちのユートピアを作るべく奮闘し、自らは極端に質素な生活に耐え、やがて健康を失って挫折する。こう単純化して書いてしまえば、いちおうの理解はできます。
 しかし、そのような理屈で解釈して終わりにしていいのかどうか、僕にはわかりません。あるいはいいのかもしれません。ただ「グスコーブドリの伝記」は感動的な物語です。それを読んでただちに科学者になろうと志す子どもも、もしかしたらいるかもしれません。少なくとも、この作品と出会った子どもの心の中に、ずっと残り続ける力を持った作品だと思います。もしその子どもがその後成長して科学の研究者になり、もう一度この作品を読みなおしたとき、こんなものは子ども向けの童話に過ぎないと簡単に切って捨てることができるとは、僕にはどうしても思えませn。

[続・グスコーブドリの伝記]
 この話の締めくくりとして、僕は「グスコーブドリの伝記」の不細工な続編を書きました。初めにことわっておきますと、これを宮沢賢治作品の正統な続編にしようなどという気は、はなから持ちませんでした。そんなことやろうとしてもできるわけありませんから当然といえば当然ですが。物語のすじは一応つながってはいますが、つながっているのはそれだけです。続編の中の主人公はクーボー博士とネリなのですが、二人とも、正編の中よりはなんとなく神経質で暗いキャラクターになっています。
 この続編では、ブドリの死後、ブドリの母親らしき人があらわれます。正編では、母親はブドリたちに食物を残すために、父親に続いて森の中へ姿を消します。その後、ブドリの「お父さんたちの墓」が見つかり、ブドリはネリといっしょにそこを訪れています。それが、ブドリの両親の消息について正編の中で書かれているすべてです。

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十、朝の来客
 ブドリが起こした噴火のあと、人々は今までよりも明るい表情になり、よく笑うようになりました。家の中では、お椀に大きく盛られたきれいなオリザを見て、まず子どもたちが笑い、つられておとうさんおかあさんが笑い出しました。すっかり穏やかな顔になった牛が道をゆっくり歩いていくのを見て、畑の人たちが笑いました。あるいはまた、美しい木々の葉でおおわれた山の姿が夕日の中に浮かぶのを見ながら、同じ夕日の光をあびてたくさんの人がほほえんでいました。そして、そんなとき人びとはブドリの名前を思い出しているのでした。
 けれども火山局では、笑顔はむしろ少なくなったようでした。火山局の人々はけっして暗い気持ちになっていたわけではありません。前に雨を降らせたとき以上にたくさんの感謝状が火山局にはとどいていましたし、外で人に会えばかならずあたたかいお礼の言葉をかけてもらいました。火山局の人たちにとって、こんなにうれしいことは他にはありません。ただ、火山局の人たちはブドリの犠牲を忘れることができず、噴火のことを言われるたびに悲しいような、緊張するような気持ちになったのです。
 そのような日が幾月か続いた後の、ある日の朝のことでした。クーボー大博士が食事を終え、書斎の椅子に腰掛けて本を読んでいると、ドアをノックする音がしました。クーボー博士が「はいりたまえ」と声をかけてもドアは動きません。博士はゆっくりと本を閉じ、ゆっくりとドアに向かって歩き、ゆっくりとドアを開けました。
 外に立っていたのは一人の婦人でした。歳はとっていますが、体の様子はしっかりしていて、体格も立派です。服装や髪の様子はお百姓の仕事をしている人のようでした。
 クーボー博士はその顔を見て心をどんと打たれたような感じを持ちました。
「何かご用ですか」
博士がたずねると、その老婦人は落ちついた声で
「ひとつ、お願いがあってまいりました」
と答えました。博士は部屋の中へはいるようにうながしましたが、その老婦人は入り口に立ったままこう続けました。
「ブドリの名前をどこかに残してもらえないでしょうか。あれだけ人々に尽くしたのですから」
その言葉を聞いて、博士はなぜ婦人の顔を見て心がどんと打たれたように感じたのかがわかりました。顔がどこかブドリに似ていたのです。
「わかった、ひとつ考えてみよう。たしかにそうした方がいいのかもしれん。どうだね、ひとまず部屋に入って、ゆっくり話をしませんか」
博士はもう一度部屋に入ることを進めましたが、老婦人は首を横に振り、おじぎをして立ち去ろうとしました。
「ちょっと待ってほしい」
クーボー博士はあわてて声をかけました。
「それでは、明日までに考えておくから、明日の朝またここにおいでください」
老婦人は少しうなずいたようでしたが、何も言わずゆっくり歩いて去っていきました。
 それからすぐにクーボー博士は、ブドリの妹のネリのところに人をやって、翌朝早くに来てほしいと伝えました。あの老婦人の顔は、ブドリに似ているのと同じぐらい、ネリにも似ていたからです。
 翌朝、老婦人は前の日と同じように、博士の部屋の入り口に姿を現しました。
「ブドリの名前を残すことは僕も賛成だし、ぜひそうしたい。どのように残すかは決めてはいないが。ともかく、ゆっくり相談をしよう。それに、ぜひ会ってもらいたい人がいる」
博士はまた部屋の中へ入るように促しましたが、老婦人はやはり動きません。その様子を見て、部屋の中からネリが出てきました。老婦人はネリを見ると、やさしく笑って
「元気そうだね」
と言いました。ネリは何も言わずに少しうなずきました。クーボー博士は二人の顔を順番に見て、やはり似ていると思いました。
「やはりあなたはネリのことも知っているのだね。あなたが今までどのように生きてきたか、ひとつ話してもらえないだろうか」
博士はこのように言いましたが、老婦人はそれには答えようとせず、博士に向かって
「ブドリの名前のことはよろしくお願いします」
と言って頭を下げ、それからネリに向かって
「子どもを大切にしなさいよ。もしまた男の子ができたら、ぜひブドリと名付けなさい」
と言って、前の日と同じようにゆっくり歩いて去っていきました。
 クーボー博士は部屋のドアを閉めると、ネリにたずねました。
「あの人は、おまえとブドリのおかあさんなのかね?」
ネリは少し考えてから答えました。
「わかりません。そのような気もしますし、そうではないような気もします。まだほんの子どものときに分かれたきりなので、顔をよく覚えていません」
「おまえたちのおかあさんは、飢饉のときに森の中で死んだと聞いているが」
「はい、そう聞いています。でも実際は、私たちの両親だと思われる体を、誰かが森の中で見つけて土の中に埋めた、というだけです。それが本当に私たちの両親だったかどうかはわかりません。あの年は、たくさんの人が森の中で死にましたので」
「だが、あの人はおまえが誰かをちゃんと知っていたようだ。あの人にどこかで会ったおぼえはあるか?」
ネリは首を横に振りました。
 クーボー博士は腕組みをして考え込みました。あの老婦人がブドリの母親だとしたら、ブドリの名前をどうにかして残したいと思うのは無理もないことです。けれども、本当にそうなら、なぜネリとあまり話そうとしなかったのでしょう。そもそも、なぜ今まで姿を現さず、ブドリが死んでしまってから現れたのでしょう。
 ただし、もしあの老婦人がブドリたちの母親でなかったとしても、ブドリの名前を残すことは間違ったことではないはずです。博士はやはり何かの形で名前を残そうと決めました。
 ブドリとネリによく似たその老婦人は、その後博士の前に姿を現すことはありませんでした。

十一、夜の来客
 クーボー博士は、ブドリの名前を何かの形で残そうと考えていることを、火山局の人たちに話しました。ただし、ブドリのおかあさんかもしれない婦人がたずねてきたことは誰にも話しませんでした。それでも、ペンネン技師を含め火山局の誰もが、ブドリの名前を残すことに大賛成でした。博士はペンネン技師に言いました。
「それでは、火山局の庭に、石碑を作ることにしよう。その石碑には、『グスコーブドリにより、カルボナード火山噴火』と書いて、噴火の日付を入れることにしよう」
 それから博士は人を四人集め、カルボナード火山島にいって、噴火で吹き出した石の中から、石碑につごうのよい石を捜してくるように言いました。四人は何日もかけて山麓を探し回り、ひとつの石を選んで持ち帰りました。それは腰の高さぐらいの、それほど大きくない石ですが、見る角度によってはカルボナード火山島の形とよく似ていました。クーボー博士は街で一番腕がいいと評判の石工をよんで、文字を刻むため片側を平らに仕上げさせました。
 そのように石碑の準備が進められているさなかのある晩、夕食を終えたクーボー博士が部屋で本を読んでいると、ドアをノックする弱い音が聞こえました。博士が本を読むのを止め、何も言わずに待っていると、もう一度弱いノックの音がしました。博士は、あの婦人がまた来たのかもしれない、と思いました。
 博士がドアを開けると、そこに立っていたのはまえの婦人と同じぐらいに年老いた、別の婦人でした。前の人よりは小柄で、体つきも細く、また髪の毛も少し白くなっていました。けれども、不健康そうに老け込んだという感じではありませんでした。服装は地味でしたが、落ちついて上品そうでした。
 クーボー博士はその人の顔を見て思わず声を上げそうになるぐらい驚きました。その人の顔は、ブドリの顔にそっくりだったのです。
「あなたは・・・」
クーボー博士はそれだけ言って言葉に詰まりました。すると老婦人は、小さな声でこう言いました。
「お願いがあってまいりました。博士はブドリの名前を刻んだ石碑を立てる用意をされていると聞きました」
「たしかいに、そのつもりでいるが」
「おねがいです。どうにかして、それをやめていただくわけにはいきませんでしょうか」
博士は、なぜそんなことを言うのだろうと不思議に思いましたが、理由をたずねる前につい
「わかった」
と返事をしてしまいました。その老婦人の、博士を見つめる目が、あまりにブドリの目そのままだったからです。ブドリが真剣に何かの頼みごとをしてきたとき、博士はいままで断れたためしはありませんでした。
 老婦人は博士の返事を聞くと、「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げ、すぐに立ち去ろうとしました。博士はあわてて
「すまんが、明日の晩もう一度だけ来てもらえないだろうか」
と言いました。老婦人は「はい」と返事をして歩き始めました。
 翌日、博士は再びネリを呼びました。
「すまんがまた会ってもらいたい人がいる。ブドリによく似た婦人がもう一人現れたのだ」
「その人は、私にも似ているのでしょうか」
「それが、今度の婦人はおまえにはあまり似ていない」
 夜になって、昨晩と同じぐらいの時刻に、老婦人は再び博士の部屋のドアをたたきました。博士は言いました。
「あなたの願いについては必ずよく考える。だが、なぜそうしてほしいのか、理由を教えてもらえないだろうか」
老婦人は博士の顔をじっと見つめながら答えました。
「ブドリのようなものは、これからいく人も出てまいります」
「ああ、やはりあなたはそんなことを言う。これはたまらん」
そう言って博士はうめきました。それから、部屋の奥に控えていたネリを手で招きました。ネリがドアの近くにやってくると、老婦人は何も言わずネリの顔をじっと見つめました。ネリも同じように何も言わず婦人の顔を見つめました。博士はしばらく二人の顔を見比べていましたが、ついにこう言いました。
「わかった、とにかくもう少し考える時間がほしい」
その言葉を聞くと、老婦人は前の晩と同じように黙っておじぎをして立ち去りました。
「あの婦人は、おまえのことを知っていると思うか?」
博士はネリにたずねました。
「はい、知っていると思います。あの人は私のことをとても心配してくれていました」
「そうか。ではあの人はブドリの、お前たちの何なのだろう。あの人こそお前たちの母親なのだろうか」
ネリはしばらく考えてから答えました。
「あの人は、ブドリに似すぎています」
「ブドリの母親にしては、ブドリに似すぎていると言うのか」
「はい、そうです」
 クーボー博士は腕を組んで部屋の中を歩き回りまじめました。そして大きく一声うなると、立ち止まってネリにたずねました。
「僕はあの石碑を作るべき何だろうか、作るべきではないんだろうか」
ネリはため息をひとつつきました。
「そんなことは、とても私には答えられません。だって、あの二人の婦人は、もしかしたら二人とも私自身だったかもしれないのですから」
 ブドリによく似た婦人は、その後二度と博士の部屋のドアをたたくことはありませんでした。

十二、除幕式
 クーボー博士によばれた石工は、博士の指示どおりに石を削り、文字を刻み込みました。完成した石碑は、火山局の庭の一角に置かれ、上から青い布がかぶせられました。
 そしてその布が除かれる日がやってきました。布をかぶった石碑の回りには火山局の職員が全員集まりました。それだけでなく、石碑の除幕式のことが町の新聞に載ったので、町中から人が集まり火山局の庭を埋め尽くしました。
 石碑の脇に立ったクーボー博士が大きな声を張り上げました。
「これからカルボナード火山噴火の記念碑の除幕を行う」
それまでざわついていた人々が静まり返り、音がしなくなった庭の中で、クーボー博士は布を取り去りました。その下には、
「カルボナード火山噴火」
というだけの文字と日付が彫られていました。
 石碑の近くにいる人から静かにどよめきが始まり、徐々に回りに伝わって大きなどよめきになっていきました。「ブドリの名前がない」と言う言葉が、あちこちでそのどよめきに混じりました。
 クーボー博士は一段と大きな声を張り上げました。
「この記念碑は、ブドリによってカルボナード火山が噴火し、たくさんの命が救われたことを記念するものである。同時にこの碑は、ブドリのように働き、ブドリのように生きたいと思っているすべての人びとにとっての碑でもある。どうか火山局の面々は、この碑が自分にとっての碑にもなるようにと、一人づつここに立って誓いを立ててほしい。では、まずわしから」
 クーボー博士は石碑の正面に立ち、しばらくじっと石碑を真正面に見据えました。それからペンネン老技師の方を向いて目で合図をすると、ペンネン技師はすぐにうなずいて石碑の前まで歩いてきて、クーボー博士と入れ替わって石碑に向かい合いました。
 ところがその後が続きませんでした。他の技師や技師見習いたちは互いに顔を見合わせてざわつくばかりで、石碑の方に進もうとはしませんでした。わずかに数人が、ペンネン老技師にはっきり促されて少し首を傾げながら博士たちのまねをしただけでした。それを見たクーボー博士は
「よし、もうおわりだ」
と大声で叫んで、火山局の建物に入ってしまいました。
 石碑にブドリの名前がなかったことは、その日のうちに口伝えで街中に大きく広まり、さらに翌日には新聞に載ったためほとんどくまなく知れ渡りました。街のあちらこちらで、こんな会話が交わされました。
「クーボー博士はブドリの手柄をねたんで、ブドリの名前を入れなかったそうだ」
「博士は、この石碑は自分のための石碑だと言い張っているそうだ」
 このような言葉は、すぐに博士の耳にも入りました。それどころか、火山局の若い技師や技師見習いたちの中にも、同じようなことを平気で言う者がいく人もいました。
 ある日の昼頃、博士が自分の部屋で椅子に座り、じっと天井を見つめていると、ドアをたたく音が聞こえました。ドアの外に立っていたのはネリでした。
「私は先生にお詫びをしなければいけないような気がします」
「ネリ、何でそんなことを言う。もちろんおまえがわびる必要などない。僕が間違ったことをしたんだ。僕は、あの二人の老婦人を両方とも幸福にしようとして、実際には両方とも不幸にしてしまったに違いないんだ。ブドリの名前を入れた石碑を作るか、それとも石碑を作るのをやめるかしていれば、どちらかの婦人は幸せだったに違いないのだ」
「いいえ、先生、あの二人の婦人はどちらも幸せに違いありません。私はそれを言いたくて、こうしてうかがったのです」
「ああ、それはありがたい言葉だ。だが、僕のことは心配をしなくていい。僕らのような仕事をしていれば、こういうことも時には起きる。僕らはそれに耐えなければいかんのだ」

十三、噴火
 その翌日、火山局の技師の一人がクーボー博士のもとに観測記録を抱えて走ってきました。
「先生、カルボナード火山が、また噴火しそうです」
「どれ、観測記録を見せてご覧」
博士はそういうと、記録をゆっくり読み通してからこう言いました。
「たしかにもうすぐ噴火するようだが、今度の噴火はごく小さい噴火だ。この前の、ブドリが起こした噴火の時に出きらなかったガスが抜けるだけだ」
 それから三日後、カルボナード火山がもう一度噴火をしました。博士が予想したとおり、今度の噴火は前のよりはるかに小さく、吹き出した炭酸ガスの量も十分の一以下で、気温をさらに上げることはないだろうと予想されました。ただ、博士のあるいは他の技師たちの予想に反して、噴火の規模の割にはたくさんの火山灰が吹き出ました。その灰は、ちょうど噴火の時に噴いていた強い風にのって、火山局がある辺りにも運ばれてきました。家々の屋根にはずっしり茶色味を帯びた灰が降り積もり、収穫の終わった田畑もいちめん火山灰の色に変わりました。
 そして火山局にも灰は降り積もりました。特に石碑のある中庭は、風の吹き溜まりになり、さらに回りを取り囲む建物の屋根から飛び落ちる灰も加わり、いっそう深くつもりました。さほど大きくない石碑は、ほとんどてっぺんまで火山灰に埋もれてしまいました。
 噴火が半日ほどでやむと、人々は灰を片づけ始めました。まず家の屋根から灰を除き、次に庭や道から灰を運び出し、それから田畑の灰を片づけました。田畑の灰を片づけるのはたいへんで、朝から夕方まで家族総出で働いても、ほんのわずかの割合づつしか片づきません。それでも、収穫は全部終わっていましたし、次の春まで種をまくこともありませんので、みんなそれほど急ぐ様子もなく、深刻な表情も見せませんでした。
 そのように火山灰の片づけに追われるようになってからは、もうだれも石碑のことを話題になくなりました。人々はみな火山灰を片づけるのに少し熱中しているようでした。そして、この火山灰の影響で翌年の作物がどうなるか、街のあちこちで議論がありました。ある人は収穫が半分ぐらいになると予想し、別の人はいまのうちに灰をきれいに除けば問題ないと言い、またある人は少しぐらい灰を残しておいた方が収穫は増えるだろうと言い張りました。
 火山局の中庭からも、火山局の職員たちの手によって火山灰が取り除かれていきました。石碑はもとのように姿を現しましたが、刻まれた文字の中には火山灰が詰まり、ずいぶんと読みにくくなってしまいました。それでも火山局では、クーボー博士を含めだれもが次の噴火の予測に忙しく、石碑を元通りきれいにしようとするひとはひとりもいませんでした。