[社会構成主義]
 繰り返しますが、クーンの「科学革命の構造」が産み落とした最大の火種は、ひとことで言えば、相対主義ということになるだろうと思います。”科学的な真理”は絶対性や客観性を持たず、そのときどきのパラダイムに依存する。”科学的真理”は科学者たちの合意で真理とみなされているにすぎない。科学者たちがその真理を疑わないのは、パラダイムに沿った教育を受け、パラダイムに沿ったものの見方しかできなくなっているからだ。このように要約されてしまうことはクーンにとって不本意だろうと思いますが、しかしそのようなメッセージを読みとった人は、どうも少なくなかったようなのです。
 科学者たちはこのような見方に激しく反発しました。それについてはあとで詳しく見ることにします。ただその一方で、クーンの相対主義的側面を、もっと発展させたような議論も登場したのです。
 ”科学的真理”が科学者間の合意で成立すると考えることは、”真理”を法律や宗教や習慣と同じような視線で見るということにつながります。ようするに肝心なのは、科学者という人間たちの間での人間関係、というか科学者という集団あるいは社会の仕組みや働きということになります。社会の中で人々が合意を形成して法律や色々な制度ができていく、人と人との交流の中から風俗習慣が形作られる、それと同じようにして、科学者の社会の中で”真理”が形成される。
 そのような発想に基づく科学論が数多く生産されました。その論者たち(科学者、ではなく科学論者たち)は、政治学者が選挙民たちの行動を分析するように、文化人類学者がマイナーな文化を営む人々を観察するように、科学者集団を研究の対象としました。彼らの興味の対象は、自然ではなく、科学者という人間だったのです。

[権威]
 たとえばある人は、科学者の社会における”権威”について考察しました。科学者たちが抱きがちな素朴な信念によれば、科学においてある主張がなされるとき、誰がそれを言ったかは問題ではなく、客観的な実験事実に合っているかどうかが問われます。しかし実際には、一人の科学者がすべての主張の真偽を自ら確かめることなどできません。それどころか、現代の細分化した科学のあり方の中では、一人の科学者は自分の専門分野のごく狭い範囲の事柄だけを理解しているだけで、他の事柄についてはほとんど理解もしていません。にもかかわらず、新しい知識が科学者の社会全体に受け入れられていくのは、科学者が発言者の権威を信じているからです。
 たしかに、科学の世界でも権威はかなりものを言うと思います。同じようなデータでも、有名教授が発表すると一気に広まるが、有名でない研究者が発表しても広まらない、ということはあります。また、大学や企業などに属していない人が研究発表をしても、最初から疑いの目で見られます。先ほど紹介したムペンパ効果は、有名でない研究者が、考えようによっては革命的な結果を報告した例でした。それに対して科学界のとった態度は黙殺でした。逆に、「トンデモ本の世界」のときに紹介した関英男なんて言うのは、権威がトンデモな話を通してしまった例と見ることができます。(科学者の”社会”学にとっては、関英男は格好の研究対象かもしれません)

[産業化科学、汚れた科学]
 またある人は、現代の科学における研究資金の重要性に着目しました。自然科学の研究には、ますます多額の研究費がかかるようになってきています。科学者は、その研究資金を手に入れない限り、研究を実施することはできません。そこで科学者は国家や企業などに予算を申請し、国家や企業が投資する価値があると認めた場合にのみ、研究費が支給されます。つまり、研究は科学者本人ではなく、投資団体(国や企業など)の価値判断に従って行われることになります。
 科学者として成功するためには、投資団体からの資金を絶えず得続ける必要があります。終いには、目的と手段が転倒し、研究をするために資金を得るのではなく資金を得るために研究をするようになります。つまり、自らの好奇心や学術的な価値判断ではなく、投資団体の価値基準に合わせるように研究のテーマを選ぶようになるのです。最悪の場合には、テーマの設定だけでなく、研究の結果にまでも、投資団体の価値基準が紛れ込むことも考えられます。(つまり、結論をスポンサーにとって都合のいい方向にゆがめてしまうわけです。”御用学者”という言葉もあります)
 クーンは社会と隔絶した科学者像を描いていました。それに対しこの描像では、科学者は社会から大きな影響を受けて行動し判断する存在になっています。このような見方と、科学の真理に対する相対主義的な見方が重なると、科学の真理はカネで左右されるものだという、非常に暗い認識が生まれることになります。

[フェミニズム科学論]
 もう一つだけ、科学者という人間集団を分析することで科学そのものを分析した例を紹介しましょう。日本の大学の理工系学部では、ご存じのように学生の大半は男子で女子は一割いるかいないかです。教官となるともっとその比率は下がり、特に教授層では二、三%ぐらいになってしまいます。(余談ですが、日本の理工系学会での女性会員の割合を調べた人がいて、その結果によればもっとも女性会員が多かったのが日本化学会で10%、最少は電気学会で0.8%でした。)このように自然科学の分野では女性研究者が少ないというのは日本に限ったことではなく、世界的に見られる傾向です。また現代だけでなく過去にさかのぼってみても、一貫して科学者は主に男性でした。歴史に名を残している科学者はほとんど男性で、有名な女性科学者といわれてもキューリー夫人ぐらいしか思いつきません。
 このような男女比の偏りが、科学のいわばパラダイムに反映されていると考えた人たちがいます。たとえば、自然は女性、科学は男性であり、自然は科学によって征服されるべきものとして語られることが多い、とその人たちは主張します。さらに、自然を征服する対象とだけ見て客観性を”過度に”強調することで、自然に対する共感が失われてしまったことが、これまでの男性偏重自然科学の欠陥であると指摘します。

[ストロングプログラム]
 以上、例をあげてごく簡単に説明してきた考え方によれば、人が科学的な真理だと考える内容は、党派、人種、性別、職業的立場、経済状態、宗教などの条件に拘束されます。男性は男性の見方でしかものを見られないし、金持ちは金持ちの視点からしかものを見ることができない。普通このような主張は政治的な思想信条に関してなされますが、それだけでなく、科学的な見解であっても同じようにその人の立場が必ず反映されるはずだ、と彼らは考えます。このような考え方を「社会構成主義」と言います。
 このような考え方がもっとも強烈な形で現れたのが、「ストロングプログラム」と呼ばれているモットーです。主要な項目を簡単な(もともこもない)言い方に直すと、
・知識や信念について考えるときは、誰がどういう立場で言っているかを必ず考慮する。
・何が真で何が偽か、何が合理的で何が不合理かを決めつけない。
・真とされている知識も、偽とされている知識も、同じように扱う。
(本当はこれに、このモットーを自分自身の議論にも適用する、という自己言及的モットーがあって、これをまともに考え出すと話がややこしくなりますので、ここでは無視します)
これは極端な相対主義だと言っていいでしょう。つまり、教科書に載っている科学の知識も、トンデモ本に書いてあるトンデモな話しも、どちらが真か偽かと決めつけず平等に扱い、それを言い出した人の社会的な条件を研究しましょう、と言っているのです。

[ポストモダン]
 そろそろ科学者たちの反論に話を移したいのですが、その前にその論争に登場するもう一つの流派を紹介する必要があります。それは「ポストモダン(ポストモダニズム)」と呼ばれる考え方(主義)で、80年代にはやりました。流動性や不安定性を強調する、とか、無意味さの感覚を煽る、というふうにその特徴は述べられていますが、なんだかよくわかりません。僕もいちおう大学生のときに、何しろ流行だったので、ポストモダンの著作と呼ばれるものを何冊も読んだのですが、よくよくわかりませんでした。もともと思想についての専門家ではないのでわからないと言えばどれもよくわからないのですが、それでもクーンの本やこれまで紹介してきた考え方を述べた本などは読めばいちおうは理解した気になります。しかしポストモダンの本というのは、いくらていねいに読んでも理解できないのです。わざとわかりにくく書いてあるのではないかと思いたくなるぐらいです。
 そして実際、それらの本はわからないように書いてあるのかもしれないのです。モダン=近代性の特徴の一つは合理性です。そのモダンのポスト(あとにくる)であることを標榜するポストモダンには、合理性を否定するような性質があると言って間違いではないでしょう。つまり、理屈で理解しようと思っても理解できないということです。
 必然的にこのような思想は、客観的な真理であるとか、絶対の真理に到達する方法といった考え方を否定します。”動き続けることが大切だ”みたいなモットーが出てきて、真理を確立するより、絶えず改変する方がよいとされます。つまりポストモダンは相対主義なのです。
 ただ、ポストモダンが科学論を中心テーマにしていたわけではありません。また、相対主義者がみんなポストモダニストであるわけではありません。たとえばクーンは、合理的な思考により科学を論じようとしていました。(もともと時代的なずれはもちろんありますが)ですから、クーンはポストモダニストではまったくありませんし、クーンに始まる相対主義を紹介するときに、ポストモダンというのは実はよけいな登場人物であるように思えます。ところがそのよけいな存在が、論争の舞台の中心に引きずり出され、ことがこじれる原因になってしまったのです。

[科学者の反論]
 さて、当然のことながら、知識の客観性、絶対性を否定する相対主義の主張は、多くの科学者には受け入れられないものでした。科学の研究においては、事実を客観的に観察測定し、そこから法則を見つけだしている、と多くの科学者は信じています。客観世界がまずあって、人間の感覚はそれを忠実に写し取っているとする立場を素朴(古典的)実在論といいますが、典型的な科学者はみな素朴実在論者だと言っていいでしょう。
 僕がもし科学論を専門に研究している人間なら、科学者がクーンの論に反論している文章のコレクションぐらいは持っていたでしょうが、残念ながら僕はそういう専門家ではありません。ただ、そのような反論の文章をあちこちで目にしたことはありますし、反論を口にするのを聞いたこともあります。それらは実際にどれも、素朴実在論の立場だと言っていいと思います。たとえば彼ら(僕ら?)はこう主張します。クーンは”電子”がまるで科学者が勝手に作り出した概念のようにいうが、実際に電子は実在する。それは数々の実験結果によって明らかである。もし”電子”が空想的な概念だとしたら、電子工学がこれだけ成功することがあり得ただろうか。
 あるいは、今ある科学理論だけが唯一の理論ではないというパラダイムの任意性に対しても、科学者は反発します。たしかにニュートン物理はアインシュタインによって修正されることになったが、ニュートン物理が間違っていたわけではなく、否定されたわけでもない。科学の進歩は連続しているのであり、いまある科学理論は、将来修正を受けることがあるかもしれないが、その場合でも単純に間違いだと否定されることはない。将来の科学の理論は、必ず現在の科学理論を発展させる形で作られる。
 僕も日常的にこういう素朴な立場に立って自然科学の研究をしていますので、このような主張には基本的に共感はします。ただ、正直なところ、この人たちは本当にクーンの本を読んだのだろうか、そこに書いてあることを理解し真剣に考えてみたのだろうかと、ちょっと疑問に感じもします。

[サイエンスウォーズ]
 このような科学者側の反論は、長い間散発的に現れるだけでした。それが、クーンの本の出版から三十年を経過した九十年代になって、正面切って”科学論陣営”と”科学者陣営”の間で論争が勃発しました。まず94年に「高次の迷信」という科学論批判の本がグロスとレビットという二人の科学者によって著されます。それを受ける形で、96年に「ソーカル事件」と呼ばれるスキャンダラスなニセ論文事件が起こり、次いでその当事者である物理学者ソーカルが同じく物理学者のブリクモンとともに「知の欺瞞」を著します。(田崎、大野、堀訳、岩波書店2000年)これらは”科学者陣営”からの攻撃であるわけですが、それに対し”科学論陣営”からの反論ももちろんなされました。そしてこの一連の論争は、”サイエンスウォーズ”と名付けられました。
 僕自身は「高次の迷信」は読んでません。(なにせ、日本語訳が出ていないので・・)幸い、金森修さんという方が要領よくサイエンスウォーズの顛末をまとめてくれていますので、「高次の迷信」についてはその記述にもとづいて話を進めたいと思います。(金森修「サイエンスウォーズ」東京大学出版2000年)
 さて、サイエンスウォーズにおける主な論争点は次の三つです。1:実在論対相対主義、2:ポストモダンにおける科学の誤用、3:社会との関わり。注意すべきは、このうち1と3については、科学者陣営の中でも相当に立場の違う主張があるということです。ではその主張を順番に見ていきます。

[古典的実在論の強弱]
 古典的実在論に基づく科学者側の反論についてはすでに紹介しました。科学的な真理が、疑問の余地なく経験的な実験観察事実にもとづいていると信じている科学者は間違いなく多いはずです。
 しかし先ほど紹介した二冊の本では、もう少し微妙な立場が表明されています。「高次の迷信」のグロスらは、科学の活動において同僚科学者の説得が重要な要素であることを認めます。つまり科学者は、単に実験結果を示して自説の正しさを相手に示すだけでなく、言葉によって相手を信じ込ませようとしている、というわけです。しかし、そのような一面があるにしても、科学における発見が自然現象とは無関係にかってに言葉だけで作り上げられたものであるという主張に強く反発します。
 またソーカルらは、クーンの「科学革命の構造」を次のように批判します。クーンには穏健な側面と過激な側面がある。穏健なクーンは、科学の歴史において経験的な実験観察結果が果たした役割は通常思われているほど大きくなく、それ以外の直感的な要素も入っていると主張する。これについては異論はない。一方過激なクーンは、科学革命の際には主として非合理的な判断基準で、つまり経験的な事実とは無関係に、パラダイムが選択されると主張する。これは断じて受け入れられない。
 ここが肝心なところだと思います。一方に科学は忠実に事実を写し取っているという古典的実在論があり、他方にすべての主張を真とも偽とも決めないストロングプログラムがあります。そしてそれらのあいだに、ソーカルらの主張があります。僕らがはっきり認識すべきことは、実在論にも強弱があり、相対主義にも強弱があるということです。
 強い実在論者は、科学の発明発見において人間的な要素を認めません。法則は客観的事実を虚心に見つめることから生まれ、したがって人為性・任意性はありません。弱い実在論者は、直感や説得の働きなど人間的な要素を認め、したがってある程度の人為性・任意性も認めます。しかし実在と無関係に、人間的な要素だけで科学が作られるという主張は断固拒否します。
 強い相対主義者は、ストロングプログラムにあるように、客観的真理を認めません。人間はどのような主張でもしようと思えばできる、という認識から出発します。弱い相対主義者は、経験的事実ですべてが決まるという従来の思いこみを壊そうとし、非経験的な要素を科学の歴史のなかに探します。
 そして、サイエンスウォーズにおいては、科学者陣営は主として強い相対主義者を攻撃し、科学論陣営は主として強い実在論者を攻撃していたようなのです。つまり互いの攻撃対象は、相手のいわば極端な主張に向けられていたと見ることができます。この点については、あとでもう一度、全体をまとめる際に立ち返りたいと思います。

[ポストモダン批判]
 では次の論争点、ポストモダン批判に移りたいと思います。先ほどお話ししたように、ポストモダニストは総じて強い相対主義の立場をとっていると言うことができます。したがって、その限りでは、科学者陣営の攻撃対象になっても不思議はありません。ただ、先ほどもことわったように、ポストモダン思想は科学を論じることをメインの主題にしていたわけではありません。したがって、ポストモダンを、クーンに始まる科学論陣営に加えるのもおかしな感じなのです。
 にもかかわらず、サイエンスウォーズにおいてはポストモダンは科学者陣営からの強烈な攻撃の対象になりました。その理由は、科学を正しく論じなかったから、ということももちろんあったでしょうが、どうもそれ以上に、科学を正しく使わなかったから、ということであったようなのです。
 一群のポストモダニストたちは、自分の文章の中で自然科学や数学の用語を多用しました。それは必ずしも現代の科学を批判する目的ではなく、むしろ科学の最新の成果を刺激的なものととらえ、いわば好意的に使っていた場合が多いと思います。しかし残念ながら、その際用語や概念の意味を正しく理解せずに誤用してしまったケースがありました。また、さらに悪いことに、よく意味を理解していない科学用語を、単に自分の文章にはくをつける、というか、カッコよいものにするために使ってしまっていた場合があったのです。
 そのような悪習を糾弾すべく、ソーカルが96年にニセ論文事件を起こしました。物理学者である彼は、ポストモダンの思想家たちが物理概念を誤用するの許しがたく思っていました。彼は、日頃からそのような誤用例のコレクションをしており、その集めた誤用例をまねて、いかにもポストモダン風の論文をでっち上げ、「Social Text」という”文系”の論文誌に投稿しました。その論文は審査をパスし掲載出版されました。その直後、彼はその論文がまったくのでたらめであることを公表しました。
 学術論文はその分野で能力ありと認められた学者によって審査を受け、内容に間違いがなくまた価値や意義があることを認められて初めて論文誌に掲載されます。(審査を経ない論文もありますが、学術的に価値があると認められるのはそのような審査を通った論文だけです)ソーカルがでっち上げた論文は、物理概念を誤用しているだけでなく、内容的に空疎で意味不明なしろものでした。なにしろ書いた当人がそうだといっているのですから、間違いありません。(僕も日本語訳を読みましたが、ほんと意味不明でした)その論文が審査をパスし、論文誌に掲載されてしまったのです。しかも掲載されたその号というのが、科学者側の科学論批判やポストモダン批判へ反論するために組んだ特集号だった、というおまけまでついています。
 ソーカルの意図は、ポストモダニストたちは物理概念を正しく理解しておらず、しかも中味のない論文を書いてはお互いに何にもわからないのにわかったふりをしているだけだ、ということを世の中にはっきり示すことでした。そしてそれはかなりの程度成功したと言っていいようなのです。

[「知」の欺瞞]
 さらにソーカルはブリクモンとともに「『知』の欺瞞」という本を著します。この本には二種類の文章が含まれています。全体の三分の一を占めるのが相対主義批判の文章で、残り三分の二ではポストモダニストら現代思想の思想家たちが科学的数学的概念を誤用した文を引用し、それ批判しています。もう忘れたかもしれませんが、この話の一番最初に、「思想界のトンデモ本の世界」としてこの「『知』の欺瞞」に少しふれました。ラカンという有名な思想家は、文章の中でやたら数学用語を使っているが、実は無理数と虚数の区別もできていない、という非常に衝撃的な例をそのとき紹介しました。
 ソーカルらのこの本にも批判はあるようですし、またソーカルのニセ論文事件には、意図はともかくやり方が汚すぎるという声もあります。ただ、客観的に見て、ポストモダンの思想家たちがよく理解もせずに単に脚色のために科学的用語を濫用していたという事実は動かしがたいと思われます。ポストモダニストvs”科学者陣営”という対決は、本当にそういう対決があったとして、科学者陣営の勝利に終わったと言っていいでしょう。
 しかしそれで問題が片づいたわけではありません。サイエンスウォーズは”科学論陣営”vs”科学者陣営’という構図でした。そしてポストモダニストは、科学論と関係はもちろんあるものの、科学論陣営の主要なメンバーであったわけではないのです。すでに述べたように、クーンの忠実な後継者はポストモダニストではないはずです。ところが、ポストモダン思想家たちが強烈な攻撃を受け、はでに粉砕されたために、そのポストモダン攻撃がサイエンスウォーズの中心テーマであるかのような雰囲気になってしまったようなのです。現に、ソーカルの本も三分の二がポストモダン攻撃に費やされています。
 さらに、ポストモダニストvs”科学者陣営”という対立が、”文系”vs”理系”という対立に読みかえられ、”文系”は自然科学をわかっていないのだから口を出すな、という主張が科学者側で強まるということもあったようです。”文系”の人間がどうしても科学に口を出すというなら、大学の人事の過程で”理系”の人間がそいつの自然科学の理解度を審査させてもらう必要がある、というような脅しっぽい主張まで現れました。
 そういえば、80年代後半だったと思いますが、日本で中沢新一という宗教学者が東大の教授に採用されるとき、東大の物理学の教授が反対して話題になったことがあります。中沢という人はフラクタルのことを自著でよく引いてきていたのですが(たとえば、チベットのマンダラはフラクタル図形である、とか)、そのフラクタル理解がいい加減であると、その物理の教授は指摘したのです。(結局中沢氏はめでたく東大教授に就任しましたが)これはサイエンスウォーズの十年ほども前のことですが、そのころからこのパターンの対立は散発的にあったようです。
 ポストモダンがどうあれ、”文系”と”理系”が対立するのはばかげたことです。ポストモダンの欠陥はポストモダンだけの欠陥であり、”文系”全体の欠陥ではもちろんありません。

[社会との関わり]
 しかしサイエンスウォーズには、学者間の対立ではすまない、もう一つのきわめて重大な論争点が含まれていました。それが社会との関わりという論点です。
 先ほど紹介した「高次の迷信」において、グロスとレビットは、科学者同士の人間関係や、社会経済状況や、性的人種的差別などが科学の内容に影響を与えているという主張に強く反発します。そしてさらに進んで、科学が社会的な主義主張と関わりをもつことを否定しようとします。たとえば地球温暖化やオゾンホール問題において、環境派が科学を持ち出すことをはっきり嫌います。科学は特定の社会的政治的な活動に手を貸すべきではない。地球温暖化もオゾンホールも、起きるかもしれないし起きないかもしれない。科学は客観的なデータを集めればいいのであって、社会的政治的主張からは完全に独立しているべきだ。
 そしてもちろん、温暖化やオゾンホールがそもそも科学技術によってもたらされたという科学技術批判には耳を貸そうとはしません。グロスらは、科学を批判的な分析から守ろうとするあまり、科学を絶対的な地位に置き、それに対するいっさいの批判を許さず、ただただ服従するように求めているように思えます。彼らによれば、自然科学は唯一の真理を求める学問として、社会や他の学問分野からの干渉を拒否し、純粋さを守り続けるべきだというのです。
 しかし、それは本当に”純粋さ”なのでしょうか。社会構成主義者でなくても、ここではつっこみを入れざるを得ません。温暖化やオゾンホールがこれだけ問題になっている状況で、”起こらないかもしれない”と主張することは、中立的でも何でもない、きわめて明確な政治的社会的立場を表明することです。産業界はその主張を歓迎するでしょうし、環境派はそれによって打撃を受けるでしょう。そして、グロスらのそのような主張は、もしかしたら、彼らが産業界から得ているであろう多額の研究資金と無関係ではないのではないか、という疑いを誰かが抱いたとして、その疑いが不当なものであると言い切れるでしょうか。

[ソーカルの立場]
 グロスらの立場は、現代の社会のあり方を批判し変革しようとする動きを否定しようとするもので、保守派あるいは右派と名付けることができます。しかし、気をつけなければいけないのは、科学者陣営がみな保守派であるわけではない、ということです。現に、科学者陣営の中心人物の一人ソーカルは左派あるいは進歩派と呼ぶべき信条を持っており、ニカラグアのサンディニスタ政権下で数学を教えた経歴を持っています。
 ソーカルらが「『知』の欺瞞」で展開した相対主義批判には、論理的な反論に加え、社会的というか倫理的な反論が含まれています。
「もしもすべての言説が「お話」や「物語」にすぎず、何をとっても他の何かよりも客観的だったり正しかったりしないというなら、最悪の性差別も、あるいは人種差別的な偏見も、もっとも反動的な社会経済学の理論も、現実世界の記述や分析としては少なくとも「同等に正しい」ことになってしまう。既存の社会体制への批判を展開していくための拠点として、明らかに相対主義はあまりに弱い。」
ソーカルらはまた、インド出身のある科学者の言葉を引きます。その科学者によれば、インドにおいて、あやしげな神のお告げにもとづいて為政者が民衆の家を壊したとき、相対主義的風潮に染まった学者たちはその暴挙に対してあまり批判をしなかった、というのです。
 科学の合理性こそが、不合理な習慣や権力の横暴に対抗する根拠となることができる。このような議論ではソーカルは自然科学よりむしろ社会科学を念頭においてはいるのですが、環境問題のように、あるいは先ほどの神のお告げの問題のように、自然科学が社会的問題に直接係わる場合もたくさんあります。そのような場合に科学者が積極的な社会批判に踏み出すことを、ソーカルらは肯定的にとらえているのです。


[見取り図]
 このあたりで、これまでの論点をまとめてサイエンスウォーズの簡単な見取り図を描いてみようと思います。なにしろ素人の見取りですから、相当に乱暴ではありますが、それだけ簡単でわかりやすいかもしれません。
 すでにお話ししたように、科学者陣営の実在論にも強弱があり、科学論陣営の相対主義にも強弱があります。そして、ウォーズにおいて攻撃対象になっているのは、互いの強い主張です。図ではその攻撃を矢印で示してあります。
 科学者陣営にも保守派と左派がいます。これまでふれませんでしたが、左派である頑固な実在論者、という範疇の人たちもいます。共産主義思想に共感する科学者はこの範疇に入ります。共産主義思想においては、唯物論的弁証法によって絶対の真理に到達できるとされていますので、彼らは頑固な実在論者と言えると思います。
 一方、完全な相対主義者の立場には新左派と呼ばれる人たちが含まれます。この人たちは、権威権力を認めない立場ですので、共産主義思想という権威も否定します。完全な相対主義者には、論理的に言って、保守派は含まれないでしょう。保守派が科学者陣営に偏っていることに、このサイエンスウォーズの厄介な点があります。そのために、科学者陣営が保守派だとみなされ、科学者陣営の(主としてポストモダンに対する)”勝利”が、保守派の勝利だとみなされる傾向が生まれたようなのです。しかし、それは事実ではありません。
 さてそれで、これまではっきりさせてきませんでしたが、僕自身はどこにいるかというと、「左派である柔軟な実在論者」の範疇の中にいます。ソーカルと基本的に同じだと言っていいと思います。以下では、これまでの議論全体をまとめながら、自分自身の考えを結論としてお話ししたいと思います。

[認識論的な面での相対主義批判]
 僕自身は、クーンの議論を魅力的だと感じましたし、説得力があると感じました。自然科学は単純に自然を忠実に写し取って作り上げられたものではなく、ある程度の任意性があり、科学者集団の「美的配慮」といった感覚が働いていることを認めます。しかし、ソーカルらが著作の中で強調しているように、そのことと、”なんでもかまわない”とする極端な相対主義的主張は、まったく別物なのです。たとえば逆二乗則において、実験結果に忠実に1.99・・(あるいは2.00・・)乗とせずに2乗としたことに、科学者のもつ美的配慮が現れているのは確かだと思います。しかし、だからといって3乗でも1乗でもよかったわけではない。自然界の現象は”約2”乗であることを確かに示したのであり、それを1や3と主張する自由度は科学者にはありません。(よけいな一言ですが、極端な相対主義者は、「トンデモ本の世界」で紹介したUFO大好きな人々に似ています。他の天体から異星人が来ている可能性は完全には否定できない、という事実から、空に浮かんでいる光の点は異星人の円盤であるという、という主張を”同様に確からしい”と認めるのです)
 あるいはまた、確かに科学のパラダイムは時代によって変わってきましたが、しかしこの先地動説がくつがえされ、もとの天動説に戻る可能性はありません。その一方で、素粒子論や宇宙論の最先端部分は、この先がらりと作り替えられる可能性もあるでしょう。その両方を同列にいっしょくたに論じることはできません。この先革命は決して起こらない基礎の領域と、革命が起こりうる最先端の領域に分けて考える必要があります。ところが極端な相対主義は、そのような区別をせず、すべて書き換え可能と扱ってしまうのです。
 この議論といくぶん重なりますが、僕がクーンの本を読みながら感じた疑問をもう一度持ち出したいと思います。すでにクーンの本を紹介しているときにお話ししているのですが、僕の疑問はパラダイムの適用範囲に関するものでした。クーンの議論によれば、研究室内で先輩から後輩に伝えられるノウハウもパラダイム(の一部)と呼べそうであるし、また地動説や量子力学もパラダイムである。小はごく狭い特定の専門領域から、大は自然科学全般まで、どの大きさの守備範囲を持つパラダイムを議論するのかで、話はまったく違ってくるはずです。にもかかわらず、クーンの本の中では、定義の混乱もあって、この規模の問題がクリアに認識された上で議論されてはいなかったと思います。そしてそのことも、クーン以後極端な相対主義者を生む原因になったように思えます。つまり、小さなパラダイムが容易にひっくりかえることを証明し、そのことで大きなパラダイムがひっくりかえることも証明されたと短絡していたのではないかと思うのです。しかし実際には、大きなパラダイムはそう変わるものではありません。クーンはニュートンとアインシュタインの間の断絶を論じます。たしかに質量という概念に関し、両者には断絶があります。しかし物理学においてどのように議論しどのように実証するかという基本的な流儀において、両者に断絶があったとは僕には思えません。たとえば、片方で正しいとされる数式の変形が、他方で間違っているとされることはないでしょう。パラダイムが変わったか、変わらなかったか、ではなく、どの部分があるいはどのレベルまで変わったか、という議論のし方をすべきだと思えます。

[倫理的相対主義批判]
 そしてまた、極端な相対主義に対するソーカルらの倫理的な批判にも僕は共感します。彼らが持ち出したような問題をめぐって、左派というか進歩派というかリベラルのなかで意見が分裂する場合があります。たとえば、日本の中にイスラムの集団があり、その中で明確な男女差別が行われていた、また男女差別を正当化する教育が子どもたちに対してなされていたとします。少数派の固有の文化や習慣を尊重するのは、リベラルな立場と一般に言えます。しかし同時に、男女差別を否定することもリベラルな立場とされています。ここで、リベラルの立場は二つに分かれることになります。
 僕は、男女差別は許されるべきではない、という立場をとります。世の中には普遍的に正しい命題が存在する、そして「男女差別は許されない」というテーゼは普遍的に絶対的に正しい、と主張します。それは西欧的な価値観に過ぎない、という批判は受け付けません。文化的な多様性を認めた上で、なおかつすべての人間にとって妥当する命題は存在する。僕はそう断言します。
 僕という個人がそう信じているだけだと言われれば、その通りかもしれません。しかし僕はそう主張します。その結果、イスラムの人とは意見の対立が生まれることになりますが、それでも主張しなければなりません。そうでなければ、進歩はあり得ません。
 進歩? 極端な相対主義では、進歩という言葉もありません。僕が気に入らないのはそこです。何かが何かに比べよりよい、と判断することを放棄すれば、世の中がよりよくなることはあり得ません。何がよく何が悪いのか、判断が難しい場合もあります。その判断の難しさが相対主義を生み出したという面はあるでしょう。(社会主義国の崩壊が新左派を生んだように)それでも、何がよく何が悪いと判断しなけれは、僕らの世界はすこしもまともにはならない。
 科学的な真理についても同じです。たとえば、放射能が人間にとって危険であるか安全であるかはパラダイムに依存する、などというばかげたことを、科学者はけっして言ってはいけない。放射能は危険である、これは絶対的な真理であると、科学者は宣言しなければならないのです。そうでなければ、この世界はとんでもないことになってしまうでしょう。
 もちろん、教育の場に相対主義を持ち込むことにも僕は反対です。思えば、前の本「トンデモ本の世界」では、ずっとそのことを僕は主張していたのかもしれません。

[カウンターバランス論]
 ところで、極端な相対主義を擁護する次のような意見もあります。科学者の持っている古典的実在論はきわめて強固であって、それにわずかでも打撃を与えるには、極端な主張をどうしてもする必要があった。
 世の中が右に行きすぎているときは、思いっきり左の主張をして、その結果両方が釣り合って真ん中へんに来てくれれば、たしかにめでたし、めでたしです。しかし、僕はこのようなカウンターバランス論の有効性に大いに疑いを持ちます。あまり極端なことを言っていると、あの人はめちゃくちゃなことを言う人だ、というレッテルを貼られてしまい、その結果、正当な主張をしているときでさえだれもまともに耳を貸さなくなる可能性があります。
 脇道にそれるようですが、テレビによく出てくるフェミニストの某有名女性教授もそういう目で見られかけていると思います。すごくいいことを言っているのですが、議論が白熱すると、どう考えても無理があることまで主張してします。それで、あの人は乱暴な議論をして絶対自説を曲げない人だというレッテルが貼られてしまっています。やっかいなのは、下手をするとそのレッテルが根拠なく一般化され、フェミニストとはめちゃくちゃなことを主張する人たちだ、という印象を与えかねない、ということです。自説を強硬に主張することが、かえって自分たちの社会での影響力をそぐことになりかねないのです。
 サイエンスウォーズで科学論陣営に起きたのもそれと同じ現象だったのではないかと思います。ポストモダニズムのようなめちゃくちゃな主張によって、科学論陣営全体が胡散臭いものとのレッテルを貼られたのではないでしょうか(少なくとも、科学者からは)。
 さらに大きな問題は、対立点が前面に押し出されることによって、共通点が隠れてしまったことです。さきほどの図では、僕は二本線で「柔軟な実在論者」の「左派」部分と「部分的相対主義者」の「左派」部分を結びました。その意味は、この二つの部分は、科学者陣営と科学論陣営に一見分かれてはいるが、実際はかなり似通った考え方を持っている、ということです。したがって本来ならば、両者は共同して現代の科学の問題に発言することができたはずです。ところが、サイエンスウォーズの激化によって、共通点は覆い隠され、互いに相手陣営の極端な部分を攻撃するようになってしまった。あるいは、自陣の立場を守るため、相手側の発言に耳を閉ざすようになってしまった。もしそれによって、まっとうな科学批判が行われなくなってしまうとしたら、サイエンスウォーズは社会に非常に大きなマイナスをもたらしたと言わざるを得ないでしょう。
 
[結論?]
 結局のところ、僕の結論は平凡でつまらないものです。要するにバランスが肝心である。科学者たちは科学にある程度の任意性があることを認めるべきだし、科学論者は科学にある程度の(?)客観性があることを認めるべきだ。まあ、そういう言い方をすれば、どちらの陣営もそれぐらいは認めていると表向きは答えるのでしょうが。
 いまの社会の中で、科学がときに独善的な表情を見せることはたしかです。困ったことに、科学者が独善的な意識になっているように思える光景にもよく出くわします。それだけに、科学批判が重要であることも間違いありません。僕自身は、クーンの通常科学論が実はけっこう気に入っています。あれは、鼻高々の科学者をへこますには、打ってつけの議論だと思います。
 おそらく、カウンターバランス論は一人の人間の心の中でなら正当化されるのだと思います。それまで、科学は忠実に事実を写し取っているだけだという単純な科学観しか持っていなかった人間が、極端な相対主義にふれ、何割かその方へ歩み寄るということは大いにありそうなことです。現に僕自身もそうだったと思います。そして、傲慢な科学者になることを防ぐという点で、たぶんそれは好ましいことなのです。
 要するに僕は、「科学革命の構造」という本が、その過激な部分も含めて好きですし、読んでよかったと心から思っています。そうであるからこそ、その中身を知ってもらいたくて、こうやって紹介し議論してきたというわけです。