[隔離されているということ]
 ところで、「科学革命の構造」の中では、クーンは注意深く議論を純粋な自然科学に限定しています。これまでに引用した箇所にも、そのような意味の文がいくつか含まれていました。
「科学者集団の社会一般からの隔離によって、個々の科学者は自分で解けると思う問題に注意を集中できる」
僕自身は工学分野の研究者で、純粋な物理に近い研究もしたこともありますが、応用技術に関する研究がどちらかといえば中心です。それら応用研究は、パラダイムにそった通常科学ではないのでしょうか。
 そもそもなぜクーンは”社会一般から隔離”された科学を論じているのでしょうか。技術は、最終的には社会によってその成功不成功が決定されます。それに対し、”隔離された”科学では、価値判断が科学者たちつまりパラダイムを共有している者たちによってのみなされます。したがって、パラダイムは絶対的な地位を占め、通常科学の姿が現れることになるのです。
 しかし工学の世界にも、現実の商業的技術からは遊離した工学研究者の社会があって、そこでは必ずしも技術的有用性にとらわれない相互の価値判断が行われます。”応用なんとか”とか”なんとか工学”といった論文誌の論文の中で、本当に社会の中で役立ちそうな技術を報告しているのはごくごく一握りです。つまり、工学のかなりの部分も”社会一般から隔離”された通常科学になっているのです。
 でも、仮に科学者研究者同士が相互に評価し合うシステムになっているとしても、それで同業者の価値判断が絶対であると結論づけていいのでしょうか。研究結果の妥当性を決めるのは、本当は科学者仲間ではなく研究対象の自然なのではないでしょうか。技術は確かに社会という外部を持っていますが、自然科学一般には自然という外部があり、そこで最終的な評価がなされる。これは純粋科学であろうが、応用技術であろうが、同じなのではないでしょうか。間違った理論に基づけば、機械も動かないし、自然現象の予測もできないはずです。もちろん問題設定の段階では純粋科学と工学では差があるでしょうが、差があるのはそこまでです。研究自体はどちらも同様に自然が相手であって、その結果の判定も研究者同士の閉じた評価で事足りるわけではなく、自然が最終決定を下すはずです。
 それが、この本の後半の、そしてそれに続く長い論争の、重大なポイントです。

[変則例]
 パラダイムは不変ではありません。大昔は太陽が地球の周りを回ると考えられていました。この時代においては、天動説が天文学におけるパラダイムでした。あるいは、ニュートンの物理法則は、初めは普遍的な法則でしたが、アインシュタインの相対性理論の出現後は”物体の速さが光速に比べ十分小さい”という条件下でのみ近似的に成り立つ近似的な法則になりました。このように、科学のパラダイムは時代によって大きく変化します。
 クーンによれば、パラダイムが変わるプロセスは次のような経過をたどります。まず、従来のパラダイムでうまく解決ができない問題が多数知られるようになります。やがて新しいパラダイムが現れ、新旧二つのパラダイムが存在する期間が現れます。そして、新しいパラダイムが選択され、パラダイムが変わります。
 こう書くと、極めて当たり前なことの成りゆきに見えますが、しかし、実は一つひとつの段階に問題が潜んでいます。
 まず最初の段階、従来のパラダイムでは解決できない問題(変則例)が現れてくる段階を考えます。天動説のような”間違った”パラダイムを使っていれば、説明できない自然現象が必ず現れそれですぐに間違いがわかるはずだ、と普通は考えます。しかし、クーンによればそう簡単にはことは進まないのです。
 たとえば天動説は、天体観測のデータが増え、現在の見方からすれば天動説では説明がつかないはずの事実が知られるようになっても、まだ長い期間生き延びました。なぜそのようなことが可能であったかというと、変則例が現れるたびに臨時の”法則”をどんどん作っていったのです。まあ、極端な話し、星ごとに個別”法則”を作ってしまえば、完全に間違いのない理論体系にはなるはずです。
 今から思えば、それは不毛な努力です。彼らは天動説に固執するあまり、それが間違いだと示唆する結果を前にしても受け入れることができなかった。そこで、現実に合わせ理論を修正することで、基本的なパラダイムを生き延びさせようとした。僕らにはそう見えます。ただ僕らがそう感じるのは、僕らが地動説のパラダイムに基づいて考えているからです。すべての天体の動きは普遍的な物理法則(万有引力の法則)に支配されていると僕らは考えますから、天体ごとに個別法則を作ることは当然認められません。しかし当時の人々にとって、星というのは多分に神秘的なものでした。現在でも星占いは根強い人気がありますが、それにつながるような感覚を当時はみんな持っていたと考えられます。ですから科学者たちも、星が個別の”法則”を持っていることも当然あり得る、天体とはそういうものである、と考えていたのです。
 というわけで、天文のいかなる観測データも、とりあえず天動説でも説明がつくということになってしまいます。つまり、変則例が変則例と認識される過程はそう単純ではないのです。

[ムペンバ効果]
 古いパラダイムが長生きをするもう一つ別のメカニズムがあります。それを説明するため、クーンは次のような心理実験をたとえ話として持ち出しています。トランプの中に黒いハートのカードを混ぜておき、それを一枚づつちらっと被験者に見せます。すると被験者は、黒いハートのカードを見せられてもそれが黒いハートだとは気づかず、スペードのカードだと信じてしまうのです。”ハートは赤い”という思いこみがあるために、黒いハートを見ても自分の見間違いだと思ってしまうわけです。このたとえの、”ハートは赤い”という思いこみがパラダイムに相当し、黒いハートが変則例です。一度変則例を見せられても、すぐにはパラダイムを変えることにはならず、むしろ自分の観察が間違いだと認識してしまうわけです。
 このように、パラダイムに反する実験測定結果は間違っている、とみなしてしまえば、変則例は現れようがありません。つまりパラダイムは安泰です。一見これはあり得ないことのように聞こえるかもしれませんが、たぶん実際の研究の現場では日常茶飯事と言っていいのです。理論に合わない実験結果がでることは本当にしばしばあります。そしてそのほとんどは、たとえば、測定装置に問題があったに違いない、というように解釈され忘れ去られます。(まあ、実のところ本当に装置や実験の手順に問題があるケースが多いのですが)
 これに関して、バリー・バーンズという人が書いた「社会現象としての科学」という本に、興味深い論文が紹介されています。その論文では、ビーカに水を入れ冷凍庫で氷にしたときと、同じビーカにお湯を入れ同じように冷やして氷にしたときをくらべると、お湯を入れたときの方が早く凍る、という実験結果が報告されているのだそうです。この現象は、著者の一人の名前を取り「ムペンバ効果」と名付けられたとのこと。なにやらトンデモじみた話しに聞こえますが、たいていの科学者はこの報告に接したとき、実験方法に問題があり”同じように冷やした”という条件は実際には満たされていなかったに違いない、と考えます。実際のところどうなのか、バーンズの本にはあえて書いてありません。バーンズは、パラダイムに反した実験結果がどのように科学者の間で受けとめられるか、と示したかったのです。(ちなみに、その論文が発表されたのは、Physics Education物理教育という論文誌で、物理学の論文誌ではありません。この発表形態からして、物理学からはもともと排除されていたと見ることもできます)
 
[パラダイムvsパラダイム]
 それでも、変則例や説明できない観測事実がたまってくると、ついに新しいパラダイムが提唱されます。新しいパラダイムを作るのは、たいてい非常に若いか、その分野に新しく登場した新人です。長年既存のパラダイムの下で研究をした人はそのパラダイムに沿った思考しかできなくなってしまいますが、新人はまだ違うパラダイムで考えることができるのです。
 こうして、新旧二つのパラダイムが並立するというか共存する時期が訪れます。結果的には、やがて古い方が捨て去られ、新しいパラダイムが科学者たちに選び取られて”革命”が成就します。しかしそのパラダイム選択の過程が単純ではありません。すでに見たように、理論に修正を施したり、測定結果を解釈し直したりして、古いパラダイムを守ろうと科学者はするからです。
 それだけではありません。異なるパラダイムの比較ということになると、いっそう難しい問題が出てきます。単純に考えれば、ある現象が一つのパラダイムで説明がつき、他のパラダイムで説明できないのなら、パラダイムの優劣がはっきりそれでわかりそうなものです。しかし実際は、”説明がつく”とはどういうことなのか、という点について、そもそも新旧両派が食い違ってしまうこともあるのです。たとえばアリストテレスは、なぜ引力があるのかを説明しようとしました。よくは知りませんが、”ものが落ちるのは、ものには落ちようとする性質があるからだ”というような調子です。その議論は、今の私たちの目から見れば、物理学というより哲学に見えます。一方ニュートンは、なぜ引力があるかという問いには係わらず、引力を純粋に記述する方法を見いだしました。私たちにとってそのニュートン力学はまっとうな物理学ですが、アリストテレス的な発想に従えば、それでは現象の説明になっていない、とみなされるはずなのです。
 こういうふうにことがこじれてしまうと、互いに相手を説得しようにも説得しようがなくなります。
「異なった世界で仕事をしている二つのグループの科学者は、同じ点から同方向を見ても違ったものを見る。・・・一つのグループの科学者には証明され得ないような法則も、他のグループには直感的に自明に見えることがある。」
さらにまた、
「対立するパラダイムの主張者たちは、パラダイムの候補が解決しなければならない問題のリストについて、一致を見ないことが多い。科学についての彼らの基準や定義は同一ではない。」
パラダイムというのは、問題の解き方を教えるだけでなく、問題の出し方選び方をも規定するものであることを思い出してください。それぞれが自分の得意分野で問題を作り、解答を出し、得点を稼ぐということを続けてしまうのです。
 同じ価値観の下で、同じルールに基づいて競争をすれば優劣は容易につくでしょうが、そもそもの価値観やルールが違ってしまうとそうはいきません。ようするに、パラダイム間の競争は将棋と囲碁のプレーヤーが対決するような異種格闘技になってしまうです。

[科学の客観性?]
 クーンのこのような見方は、考えてみると、普通に信じられている科学の概念と決定的に対立するものです。科学とは、自然現象を忠実に観察測定し、その結果から法則を見つけだしていく作業だと僕らは信じてきたはずです。その観察測定は、正しくやれば誰がやっても同じ結果が出るし、そこから導かれる法則はいつどこでも成り立つ。それが科学の持つ客観性、普遍性というものです。
 しかしクーンは、同じ一つの自然現象を前にして、二つの異なる学説が並んで存在してしまうというのです。客観的、普遍的な真実の存在を、クーンは否定しようとしているのでしょうか。
 実は、そうなのです。クーンは、客観的な真実の存在を否定しようとしている、と言っていいのです。
「科学者が実験室で行う操作や測定は、経験から「与えられた」ものではなくて、「苦労して集めた」ものである。・・・操作や測定は、それらを取り出すものにある程度なっている直接経験よりも、はるかにもっと明確にパラダイムによって規定されている。科学は、あらゆる可能な実験室の操作を扱うものではない。むしろ科学は、パラダイムと、そのパラダイムである程度規定されている直接経験と照合させるために、関係するようなものだけを選ぶ。その結果、異なったパラダイムを持つ科学者は、異なった具体的な実験室の操作に従事する。」
 いま机の上に電気回路があり、そこにつながれた電流計の針が振れています。その電流計が示している大きさの”電流”は客観的な真実なのでしょうか。電流計というものは、現在の電気理論あるいはパラダイムに基づいて、現在の理論上意味のある値が表示されるように設計され作られたものです。そしてそれを読んでいる電気技術者は、現在のパラダイムを教育され、そのパラダイムに基づいて値を読みとり、意味を見いだしているのです。つまり、その電流の測定は、現在のパラダイムに依存したものであり、普遍的なものとはみなされないのです。実際、電流計の原理-ビオ・サバールの法則-が発見されるのと、電流という概念が確立するのはほぼ同時進行でした。つまり、電流という実体がまず存在しそれを測定するため電流計が作られたのではなく、むしろ電流計が作られることによって電流という実体が生まれたのです。仮に、”電流”という概念を認めない人がいたとします。その人に電流計の針が振れるのを見せても、それで”電流”の実在を認めるようになることはありません。なぜなら、”電流”という概念を認めない人は、”電流計”という概念も認めないからです。
 通常の科学観では、事実がまずあり、そこから理論がいわば抽出されます。しかしクーンの考え方では、まず理論があり、その理論に基づいて”事実”が作り出されるのです。このような考え方を「理論負荷性」といいます。ひとたびこのような考え方を認めてしまうと、客観的普遍的な事実は存在しないことになります。実験結果は常に何らかの理論に基づいていて、もし違う理論に基づけば、違う内容の”事実”が生み出される可能性があるからです。

[この本の中でもっとも衝撃的な主張]
 したがって、異なるパラダイムが対立状態になった場合、決着を付けるのは論理でもなければ、実験結果でもありません。ではいったいどのようにして決着が付くのでしょうか。
「対立するパラダイム間の移行は、同一の基準で測り得ないものの間の移行であるが故に、論理や中立的経験に迫られて一歩を踏み出す、というようなことはあり得ない。・・それらはすべて一度に起こるか、全然起こらないかのどちらかである。」
支配的なパラダイムが変わるということは、路線の変更であって、同一路線上の進歩ではありません。同一路線上の進歩は徐々に進んでいくものですが、路線の変更は変わるか、変わらないかどちらかしかありません。あるとき、科学者の集団がほぼ一斉に別のパラダイムに移るのです。科学者たちにそのような決断をさせるものは何か。
 クーンの答えはこうです。
「パラダイムの選択においても、真偽を決定する上に、関係者の集団的同意より以上の高い基準というものはない。」
集団的同意、パラダイムAよりもパラダイムBの方がいいと科学者たちが考えたから、パラダイムBが支配的になった。これがあたりまえのように聞こえるとしたら、僕の説明がまずかったのです。これは非常に衝撃的な結論です。よろしいでしょうか。先ほど説明したように、クーンによれば、パラダイム間の対立の決着を付ける上で、論理的な説得も実験結果も役には立たないのです。論理的な説得や実験に基づかずに、あるとき科学者たちが、”あちらのパラダイムの方がいい”と言いだし、それでパラダイムが変わる。クーンはそう主張しているのです。
 これは、”客観的な正しさ”の否定だと言っていいでしょう。いってみれば、パラダイムを多数決で決める、というのに近いわけです。普通の科学観に従えば、ある科学的な理論の真偽を、多数決で決めるということは考えられません。理論的な正しさなり、客観的な実験結果なりが、真偽を決める絶対的な物差しとして働くと信じられているからです。しかしそのような物差しを否定してしまうと、残るのは、いわば多数決的な決定方法なのです。
 さらに次のような文章も登場します。
「パラダイムからパラダイムへの説を変えることは、改宗の問題であって、外から強制されるものではない。」
私たちは宗教について議論しているのではなく、自然科学について議論しています。ところがそこに”改宗”という言葉が現れてきました。
 では、科学者たちを改宗へとつき動かすのは何なのでしょう。論理的説得でも実験結果でもないとしたらそれは・・
「古いパラダイムを捨て、新しいものを科学者に取らせる別種の配慮がある。それははっきり表に出ないが、各個人の良識や美的感覚に訴えるもの、つまり新しい理論は古いものよりも「きれいで」、「要領よく」、「簡潔」である、とするものである。」
「何かが、少なくとも一部の科学者に、この新しい提案は正しい軌道に乗っていると感じさせるに違いない。時にはそれは、ただ気質的で不明確な美的配慮に過ぎないであろう。」

どうでしょう、クーンのこの本が科学にあるいは科学論に大きな衝撃を与えた理由が、おわかりいただけたでしょうか。

[美的配慮]
 自然科学の理論は、実験結果をいかに正確に説明できるかではなく、むしろ美的配慮、いってみれば”こっちの方がかっこいいから”という根拠で、選び取られたものである。クーンの主張はそういうふうに聞こえます。しかし、本当にそんなことがあり得るのでしょうか。
 逆二乗則という物理法則の一つのスタイルがあります。ご存じのように引力やクーロン力は物体間の距離の二乗に反比例します。ニュートンは天体観測のデータをもとに万有引力の逆二乗則を導き出した、と一般に信じられています。しかし、引力が距離の増加とともに小さくなるのは確かだとして、それが正確に逆”2”乗であるとどうしてわかったのでしょう。実験データには誤差がつきものです。仮に正確に逆”2”乗である力を観測してそれを距離の関数としてプロットしたとしても、実験誤差のためにかならずばらつきが出るはずです。そのばらついたデータにフィッテングして関数の形を求めれば、おそらく距離の逆”2”乗とはならず、1.998乗になったり、2.03乗になったりするはずです。それに、ニュートンは天体の問題を単純化した二体問題としてあつかいましたが、実際は第三、第四の天体からの力も弱いながら存在します。したがって、二体問題として解析したのでは、正確に逆”2”乗則にはのらないはずなのです。
 にもかかわらずニュートンは万有引力が距離の二乗に反比例するという結論を導き、当時の科学者たちは、あるいは現在の私たちも、それを受け入れました。そこには、実験事実と合う合わないとは別の、あるセンスが働いていると考えざるを得ないでしょう。つまり、自然法則は単純な数式やすっきりとした言明で表されるに違いない、という思いこみです。そのような思いこみがあるから、中学高校で物理法則に接したとき、私たちは簡単にそれを受け入れることができるのでしょう。これは村上陽一郎というひとが「近代科学を超えて」という本で述べていることなのですが、クーンの言う「美的配慮」を具体的に示したものと考えてよいでしょう。
 ついでにつけ加えると、クーロンの法則でも事情は同じです。クーロンの法則とは点電荷間に働く力が距離の逆2乗に比例するというものですが、非常に精密な実験によって実際に9桁の精度で、間違いなく”2”乗であることが確かめられています。ところが、その精密な実験が行われたのは1930年代なのです。クーロンの法則が発見されたのは1780年代、実に百五十年のずれがあります。つまり、クーロンは精密な測定結果がこの世に現れる百五十年も前に、クーロンの法則を”発見”したのです。

[相対主義]
 今議論しているのはパラダイムの選択の問題です。クーンによれば、パラダイムは「美的配慮」にもとづき、「科学者間の合意」によって選ばれるのです。パラダイムが選択されるとは、どのような考え方が科学的に正しいか、何が「真理」であるかを決めることでもあります。ということは、科学的な「真理」は美的配慮に基づく合意によって決定されると言うことになります。クーンは、日本語版にある補章で次のように述べています。
「「真理」にますます接近する、ということは良く聞くことである。・・・しかし私は、そのような主張がもはや意味を持たない、とする。一つには、「真にそこに在る」という言葉が何を意味するかわからないからであり、また一つには、理論の実体論とその自然における「真の」対応物との間の適合という観念自体は、私には原則として今や幻想に見えるからである。」
 これはまさに相対主義ということができるでしょう。つまり、絶対的な真理というものはなく、「真理」と呼ばれているものは、たまたまその状況で真と認められた事柄に過ぎないというのです。クーンは自説が相対主義と呼ばれることに反発を示しながらも、一方で”相対主義と呼ぶなら呼べ”というような表明もしています。
 僕はここでクーンの相対主義的側面を強調しすぎているのだろうと思います。本当は、クーンは僕のこの話から受ける印象よりは、ずっと慎重な言葉づかいをしています。クーンがもし僕のこのまとめを読んだとしたら、これは自説を誤解している、と反発するでしょう。ただ、クーンのこの著作にかなり過激な相対主義的においがあるのも事実です。実際、僕がここに書いたような過激なメッセージを読みとった人はかなりいたようなのです。そしてなにより、この本が自然科学あるいは科学論の世界に与えた衝撃の中身は、おもにその過激な相対主義的要素だったと言っていいのです。

[科学革命]
 ともかくもそのようにして、新しいパラダイムが選び取られます。これが科学革命です。「革命」という単語が使われるのは、同一パラダイムに基づく通常科学内の進歩とは質的にまったく異なる事態が生じるからです。
「新しいパラダイムに導かれて、科学者は新しい装置を採用し、新しい土地を発見する。・・革命によって科学者たちは、これまでの装置で今まで見慣れてきた場所を見ながら、新しいまったく違ったものを見るということである。それはあたかも科学者の社会が急に他の惑星に移住させられて、見慣れた対象が異なった光の下で見慣れぬものに見えるごとくである。」
パラダイムが違うと言うことは、まったく異なる見方で自然を見ているということであり、自然を記述するのに異なる言葉を使っているということです。革命が起きパラダイムが変わっても、一見同じ用語を続けて使用し、同じような計算を引き続き行っている場合もありますが、そのような場合でも、自然の捉え方が根本的に違っているのだとクーンは主張します。
 たとえばアインシュタインの相対性理論の出現は、まぎれもなく科学革命でした。相対性理論では、質量はもはや一定不変な量ではなくなり、速さの増加とともに重くなるとされます。これは相対論以前の、ニュートン力学ではまったく考えられていませんでした。つまり”質量”という語の意味が決定的に変わったのです。
 それでも速さが光速に比べてはるかに小さいときには、相対論的効果は無視できます。光速はとても大きいので、実際に相対論的効果が無視できる場合も多く、したがってニュートン力学が依然として実用的な計算では広く使われています。つまり、革命が起きたからと言ってニュートン力学が捨て去られたわけではなく、科学の現場では必須の基礎であり続けています。
 物理学者でもあるクーンはもちろんそのことは知っています。クーンが主張したいのはこういうことです。アインシュタイン後においても、前と同じニュートン力学に基づく計算が行われ、それが前と同じ妥当性を持つことはある。しかし前においては厳密解であったものが、後においては近似解になった。そこには、意味付けのレベルでの、決定的な断絶がある。現在でもある種の地理的測量の際には天動説的なモデルに基づいて計算が行われることがあるが、だからといってその測量者がプトレマイオスと同じ自然観を持っているとは言えない。それと同じように、相対性理論を知った者が力学の計算をするときは、仮にニュートンと同じ式を使っていたとしても、まったく異なる自然観に立っているのだ。

[再び、パラダイムとは]
「実験で示された対象の大きさ、色などが、被験者のそれまでの訓練、経験によって変わることを示す実験が他にも多くある。このような豊富な実験の文献を見ると、パラダイムのようなものが、知覚自体に対する必要条件ではないかとさえ思える。人間に見えるものは彼が見たものだけではなく、彼の既成の視覚的概念的経験が彼に見るように教えるものによっている。」
このようなクーンの文章を読むと、パラダイムは思考だけでなく観察までも支配する、強力な魔法の呪文か何かのように感じられます。ひとたびその呪文にかかってしまうと、同じものを見てもまったく違うふうに知覚する、そもそもパラダイムがなければ、知覚することさえできない・・・
 科学革命つまり新しいパラダイムへの移行(パラダイムシフト)によって自然観世界観が変わるという主張は、人間の思考や知覚がパラダイムに基づいて行われているという認識から生まれていると考えることができます。もしパラダイムがそういうものなら、たしかにその変革は世界観の変革につながるでしょう。
 しかし、ここでクーンの議論をもう一度最初から思い出して冷静に考えてみる必要があるでしょう。この書物の冒頭部分で、クーンはパラダイムを次のように定義しました。
「「パラダイム」とは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの、と私はしている」
そしてクーンは、”通常科学”についての議論の中で、自然科学の研究がそのようなパラダイムに則って行われていることを示しました。それはたしかに説得力のある議論だったと思います。
 しかし、その冒頭に掲げた定義と、”パラダイムのようなものが、知覚自体に対する必要条件ではないかとさえ思える”という文脈で現れてくるパラダイムは、同じ実体を指し示しているのでしょうか。研究の例題という定義と、それがなければ知覚さえ不可能になるものという定義は、相当にかけ離れてはいないでしょうか。
 実はこの本の中で、パラダイムがいくとおりもの異なった定義で使われていることを、クーン自身が日本語版補章の中で認めています。(ある人が数えたところ二十二通りの異なった使われ方をされているのだそうです、僕にはよくわかりませんが)僕がいま述べたのは、「形而上学的パラダイム」と「見本例としてのパラダイム」という二つの意味におおよそ対応していると言っていいと思います。
 議論の根幹をなすはずの単語の意味がこれだけぶれてしまうことは、もちろん本来ならあってはならないことでしょう。初めに控えめな定義を示してそれでパラダイムの存在を納得させ、そのあとで定義を大仰なものにすり替え、それでもパラダイムは実在するとして議論をする、というのはなんともインチキくさいやり方です。ただクーンのこの本の場合は、この混乱がもとでよりいっそう大きな反響を引き起こしたという側面があるようです。つまり、色々な論者が、自分の気に入ったパラダイムの定義を引っぱり出し、それをもとに科学を論じ出したのです。こうしてパラダイム論の俗用、濫用、あるいは積極的誤読が広まったのです。その過程で、”研究の例題”という定義はほとんど忘れ去られました。この僕の話の初めの部分で、現在の辞書にはパラダイムを”支配的なものの見方”と定義してあると紹介しましたが、その理由もこれでおわかりいただけると思います。

[再び、適用範囲の問題]
 定義の混乱に関連して、もういちど”適用範囲”の問題を考えてみたいと思います。この話の初めの方で、僕はパラダイムの議論の中でその適用範囲がどうもよくわからないのだということをことわりました。一つの研究室の中で、先輩から後輩に伝えられていく事柄も、見本例という意味ではパラダイムといえそうです。また、半導体工学や免疫学というような専門分野内で研究の見本例とされている事柄もパラダイムであるでしょう。さらに物理学全般、医学全般で研究者誰もが受け入れ、日々参照している事柄もパラダイムということになるはずです。その上今度は、”それがなければ知覚さえ成り立たない”というような、まさに形而上学的なたいへんなパラダイムまで議論に登場してきたわけです。こうやって極小パラダイムから極大パラダイムまで並べてみると、いったいどのレベルのパラダイムを取り上げているのかを明示しない限り、議論はむちゃくちゃになることは明らかだと思われます。
 そして実のところ、そのような混乱は起こってしまったように見えます。科学者研究者が、”自分はパラダイムを変えた、科学革命を起こした”というような表明をしているケースが多々あります。それはたいてい、自分のやっていることを”パズル解き”と称されることへの反発であるのですが、ただそこで持ち出されているパラダイムは、自分の研究室内だけで通用する、とは言いませんが、せいぜい自分の狭い専門分野でだけ流通しているパラダイムであるのです。かと思えば、パラダイムを変えて社会全体のあり方を変えようというような議論まででてきます。これはまさに特大パラダイムが扱われているケースといえます。
 パラダイムが違えば、自然の見方が根本から異なっており、使う言葉も異なってしまうため、お互いに論理的に自分の正しさ(相手の誤り)を論証することはできない、とクーンは主張しました。あとで詳しく紹介することになると思いますが、多くの科学者たちはそれを認めませんでした。彼らは革命による断絶に代えて、進歩による連続性を置こうとします。ニュートン力学と相対性理論、光の波動性と粒子性、確かに異なってはいるが、そのあいだは断絶しているわけではなく、物理学は連続して進歩してきたのだ、というわけです。このような主張をする人たちは、ある程度大きなパラダイムが変わるときでも、それを含むより大きなパラダイム(物理学あるいは自然科学全体を支配するパラダイム)は変わっておらず、その意味では連続性がある、と言いたいのだと僕は解釈します。つまり、連続か断絶かでもめるのも、パラダイムの適用範囲の問題であるように思います。
 しかしクーンのこの本が巻き起こした論争は本当に大きなもので、簡単に要約することは不可能です。なにしろ出版が1962年とかなり昔ですから、その間、たくさんの人がクーンの説について発言してきました。そして90年代になって、つまり出版から三十年以上たってから”サイエンスウォーズ”と呼ばれる一大論争が起こりました。残念ながら、僕にはそれらを正確にまとめるだけの知識も能力もありません。これから先は、特に”サイエンスウォーズ”において、どのような点が”争われた”かについて、簡単に紹介したいと思います。