「科学革命の構造」



[現代思想の「トンデモ本の世界」?]
 一つ前が「トンデモ本の世界」でしたので、トンデモ本つながりで話を始めたいと思います。2000年に、哲学・思想の世界での「トンデモ本の世界」とでも言うべき本の翻訳が日本で出版されました。アラン・ソーカル、ジャック・ブリクモンの「『知』の欺瞞」という本です。この本は、高名な思想家、哲学者がいかに科学的に間違った、トンデモなことを書いてきたかを、大量の例をあげて紹介・批判しています。たとえばジャック・ラカンという人がいます。この人は、非常に有名な精神分析学者であり思想家でもあるそうで、そういえば僕も(僕でさえ)趣味で読んだ本の中で名前は見かけたことがあります。「『知』の欺瞞」には、この人の著作にある次のような一節が紹介されています。
「私がノートを書いているときに思いついた式のうちの一つを使わせていただくなら、人生はゼロが無理数=不合理であるような微積分学として定義できるでしょう。この式はほんのイメージ、数学的隠喩です。私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種のはかり知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです。マイナス1の平方根はわれわれの直感の相手になるような何ものとも、つまりいかなる実な ― 数学的な意味でこの言葉は使っています ― ものとも対応しないのですが、それでもなお、その完全な機能とともにそれは保存されなくてはなりません」
この文章は、そもそも何を言っているのかさっぱりわかりません。人生や感情と数学がどう対応するのか、ご本人はわかっているようなのですが、読んでいる方にはまったくわかりません。そして、もっと重大なことに、この人の数学的知識にはきわめて初歩的な間違いがあります。「無理数」と「虚数」を混同してしまっているのです。まったく、高校生でも知っている区別を、有名な思想家が知らないなんて!
 「『知』の欺瞞」には「ポストモダン思想における科学の誤用」という副題がついています。上にあげたラカンの例は、中でももっとも初歩的でそれだけ衝撃的な誤用の例なのですが、以下その調子で、何百ページにもわたって科学的数学的に誤りである文章が紹介され、それに対する批判が述べられます。
 このような本が書かれることになった直接のきっかけは、「サイエンスウォーズ」と呼ばれる一連の論争でした。この“戦争”の一方は「科学者陣営」、それに敵対するのは「科学論陣営」です。「『知』の欺瞞」の著者は物理学者で、科学者陣営に属します。そして、いわば「文系」の学者たちを槍玉に挙げているのです。ではなぜ彼らは「文系」を激しく非難しなければならなかったのでしょう。
 その火種がはっきりと世に生まれたのは、1962年に出版された一冊の本の中でした。

[パラダイム]
 「パラダイム」という単語を目にしたことがあるだろうと思います。“○○のパラダイムが変わりつつある”といった言い方でよく使われているようです。つい先日も、大学の理念を表したと称する文章の中に“パラダイムシフトと呼ばれる大きな変革がいま起きている“というような文を見つけました。
 なにしろパラダイムというのはもはや専門用語ではなく、日常用語になっています。80年代だったと思いますが「パラダイム」という題の恐怖映画が作られて、日本でもテレビ放映されました。(いまでもビデオ屋さんに行けば見つかるかもしれません)そういえば、東京のどこかを電車で通っていたときに、「パラダイム」という名前のパーマ屋さんの看板を見つけて、思わずのけぞったことがありました。
 「パラダイム paradigm」はもともと文法用語で、語形変化の例を意味するのだそうです。英語の辞書にはたぶんそのような訳が載っていると思います。いわば”五段活用”とか”現在・過去・過去分詞”みたいなもんでしょうか。ただ、それだけの意味だったら、日常用語としてこれほど広く使われるようになるはずがありません。少し大きな辞書−英語でも日本語でもかまいません−を引くと、もう一つ別の、一見”語形変化例”とは何の関係もなさそうな語義が述べられています。”支配的なものの見方”、”思考の枠組み”といった意味がそれです。
 たとえば研究社の「リーダーズ英和辞典」には、”パラダイム(特定領域・時代の支配的な科学的対象把握の方法)”と記載されています。”パラダイム”というカタカナが訳語として載っているということは、それが日本語の単語として認められているということですが、それほどまだ一般的ではないため、かっこでくくって意味が書いてあるわけです。
 ”語形変化例”から”思考の枠組み”へ。この語義の変化というか展開が、ちゃんと意図して行われたのか、それとも意図しないうちにそうなってしまったのか、よくわからないところがあるのです。そしてそのことが、結局その後の長いいざこざにつながったように思えます。
 まえおきが長くなりました。それでは、すべての火種であるトーマス・クーンの本「科学革命の構造」を紹介していきたいと思います。

[パラダイムとは]
 世の中には自然科学の研究をしている研究者がたくさんいます。大学、研究所、企業にも。彼らは(といっても、僕もその一人に入るかもしれないので三人称というのも変ですが)、新しい現象を見つけたり、新しい理論やモデルを築こうと努力している、と普通は考えられています。というか、彼ら自身はそう考えているでしょう。
 しかし、新しい実験や計算をやるといっても、まったくの初めから一人でやるわけではありません。自然科学の研究者になるためには、長い基礎的な勉強の期間が必要です。これまでにわかっていることを学び理解してはじめて、その先へ進むことができるわけです。
 それだけではありません。科学の知識や数学の能力などに加え、研究のやりかたといったようなものも身につける必要があります。大学院の学生のあいだ、あるいは卒業後しばらくの間、身近にいる先生や年長者のやりかたを見たり、他のグループの研究レポートに接したりして、どのようにすれば研究として成立するかを体得します。
 その過程は、教科書に載っている例題を学ぶのに似ています。中学、高校の時から経験していることですが、原理的なことを知識として覚えても、なかなかすぐには練習問題を解くことはできません。例題の解答をフォローすることで、解き方を身につけます。他人がやっている(やった)研究は、まさに研究における例題です。そのやり方をまねることで、自分で研究を遂行する力を身につけるのです。
 どうでしょう。ここまで僕が話したことは、きわめて常識的なことではないですか?
 さて、パラダイムは、「科学革命の構造」の前書きにおいて、次のように定義されています。
「「パラダイム」とは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの、と私はしている」
また、最初の章の中では、次のようにも述べられています。
「その言葉(パラダイム)を選ぶ際に、私は実際の科学の仕事の模範となっている例 − 法則、理論、応用、装置を含めた − があって、それが一連の科学研究の伝統を作るモデルとなるようなものを、この言葉で示そうと考えたのである。」

[適用範囲の問題]
 これらの定義によれば、「パラダイム」とは、自然科学の研究を行う上での”例題”に相当すると言っていいでしょう。そうであるなら、語形変化例を表す文法用語を借用したのも、わかるようなきがします。
 ただ、僕は先ほど、研究を行う上での例題ということを説明するのに、それこそ研究室内で先輩から後輩に伝えられるようなノウハウというか流儀のようなものを持ち出しました。そういうものまで、「パラダイム」と呼んでいいのでしょうか。
 「パラダイム」の定義は実は曖昧で、「科学革命の構造」の中でもいくつもの異なった意味で使われています。またその後、別の人が別の意味あいで使ったりもして、定義については様々が議論がなされてきました。それについてはあとで紹介します。
 とりあえずパラダイムを上でクーンが述べた”モデル、模範”という意味に限ったとしても、どの範囲で考えるかが問題になります。研究室のような小さなグループにある実験手順の取り決めや手製の装置も、新しく加わる学生たちにとって模範の役割を果たします。しかしクーンがそこまでパラダイムに含めて議論しているようにはみえません。もっと視野を広げて、ある狭い専門分野、たとえば”半導体”や”素粒子”といった分野の中で共通してだれもが使用している理論や装置を考えてみましょう。これはどうやらパラダイムと言ってよさそうです。ではさらに話を広げて、物理学全般あるいは自然科学全般に共通して受け入れられ信頼されている理論や実験方法はどうでしょう。もちろんそれもパラダイムでしょう。しかし、こう考えていくと、”模範となっている例”という定義を与えたとしても、それが受け入れられている範囲の大きさによって、まったく質的に異なる性質を持つことになりそうです。僕自身は、”模範か思考の枠組みか”ということよりも、この”適用範囲”についての議論の不明さが、その後の混乱の元になったような気がします。
 しかしどうも話が先走りすぎたようですし、また脇道にそれたようでもあります。もう一度クーンの議論の筋道を追いたいと思います。

[通常科学]
 ともかく、クーンはパラダイムを科学の研究における模範とひとまず定義しました。わざわざ「パラダイム」という新しい(使い方の)用語を議論に取り入れたのは、もちろんそれが科学の研究のあり方を考える上で決定的に重要であると考えたためです。
 ところで、先ほど僕は、自然科学の研究者が例題的な研究をまねて研究の能力を身につける、という見方を、”きわめて常識的なことではないか”と言いました。しかし本当にそれは常識的な見方でしょうか。確かに研究者になったばかりの頃、たとえば大学院生の時は、他の人の研究をまねて研究を行うことが多いでしょう。しかし常識的な見方によれば、そのように他人の研究をまねるのは、研究者としてのキャリアの、ごく初期の一時期に限られると考えられているのではないでしょうか。そして、本来の科学の研究とは、むしろ他の人がやったのとは違う、独自の何かをやることだとみなされているのではないでしょうか。
 しかし、クーンはそうは考えなかったのです。
「(教科書に載っている練習問題を解くような)その計算や実習によって学ぶ過程は、専門家として育つ過程中続くものである。学生が一年生の講義から学位論文に進んでいくにつれて、彼に課された問題はますます複雑になり、今までまったくやられていないような問題に突き進むことになる。しかし先人の事業をモデルとしてまねることは、その後独立した科学研究者となっても普通続くのである。」
つまりクーンは、自然科学の研究は教科書に載っている例題を参考にして練習問題を解くのと同じであると、考えたのです。彼はそのような科学の姿を「通常科学」と呼びました。そしてその”例題”に相当するのが「パラダイム」であるとしたのです。

[パズル解き]
 科学の研究が問題演習と同じであると言われたら、研究者・科学者はどう感じるでしょう。自分の経験を思い返してみて、同意できる部分もあるとは感じるかもしれません。しかし、それでも研究と問題演習とでは決定的な違いがあると主張するはずです。問題演習には必ず答えがあるが、研究には答えがあるかどうかわからない。
 しかしクーンは、普通に行われている研究には必ず答えがあるものだとみなします。パラダイムが答えを与えてくれるのです。なぜそうなるか、理由は簡単です。そもそも、答えが得られる問題だけが、研究のテーマとして選び取られるからです。パラダイムは、問題の解き方を科学者に与えるだけではありません、何を研究の問題として選ぶかというその選択も規定してしまうのです。
 たとえば詰め将棋という一種のパズルを考えましょう。このパズルには定まったルール(将棋のルール)があり、そのルールに従ってパズルが解かれます。と同時に、詰め将棋の問題を作るのも、そのルールに従って行われます。ルールが問題も答えも生み出すのです。そのルールに相当するのが、パラダイムなのです。(ただし、パラダイムはルールのように明文化されているとは限らず、むしろ例題の形で与えられます)
 ということは、自然科学の研究とはパズル解きである、ということになります。
「通常科学の問題を完成するとは、予期していることを新しい方法で得ることであり、それにはあらゆる種類の複雑な装置上、概念上、数学上の問題を解決しなければならない。それに成功する人はパズル解きの熟練家であり、このパズルが彼を仕事にひきつける大きな役割をしているのだ。」
パズル解きは容易であるとは限りません。難しい詰め将棋の問題(といっても、僕はできないのですが)、あるいは難しい数学の入試問題を解こうと思えば、ときに何時間も集中して考え続けなければなりません。過去の例題をいくつも参考にしなければならない場合もあるでしょう。そしてその果てに、突然答えが”ひらめく”ということもあります。難しい問題になれば、決して誰にでも解けるわけではありません。そのような問題を解けば、必ず大きな喜びが得られます。
 自然科学の研究は、一つの壮大なパズルです。その複雑さ、多様さ、困難さは、もちろん詰め将棋などとは比べようもない。科学者たちは、自分の全能力を、あるいは生涯を、そのパズル解きに費やすのです。
「成熟した科学の活動に従事したことのない人には、一つのパラダイムからどれほど多くの後始末的仕事が生じるか、そいういう仕事を遂行するのがどれほどおもしろいかは、わかりにくいであろう。この点はよく理解してほしい。たいていの科学者が生涯をかけるのは、こういう後始末的仕事である。こういう仕事が、私がここで通常科学と呼ぶものである。」
「科学の事業全体としては、時に実用に供され、新分野を拓き、秩序を示し、定説をくつがえすということがある。けれども、通常科学の問題にいそしむ「個人」としては、これらのことをしている人はまずいない。一度研究に取り組めば、彼の動機はかなり違った種類のものになる。彼を駆り立てるものは、腕さえあれば今まで誰もできなかったパズルをうまく解けるという信念である。・・たいていどのような専門でも、パズル解き以外にすることはなく、しかもそれが普通の道楽と同じように彼を耽溺させるのである。」


[科学者]
 このように、パラダイムは何が科学(の研究)であるかを規定します。と同時に、「科学者」とは何であるかも規定します。
「ただ単に自然研究に興味を持っていたグループが一つの職業集団、または学問分野に変わるのは、パラダイムの受容にかかっていることが多い。科学においては(医学や技術、法律のように主な存在理由が、外的、社会的必要によるものである分野は別として)、専門雑誌の発刊や専門学会の形成や、カリキュラムの中に特殊な位置を要請することは、普通、あるグループが初めて特定のパラダイムを受け入れるということと関連づけられる。」
この引用箇所の、かっこ内の部分はさしあたり抜かしてください。ここで言いたいのは、パラダイムが確立して初めてある分野が科学の一分野として認められるのであり、そのパラダイムを受け入れる集団が科学者という職業集団とみなされる、ということです。
 したがって、科学者になる過程はパラダイムを学び受け入れていく過程です。確立したパラダイムを持つ通常科学には、必ず「教科書」があります。
「自然科学では、・・科学者の教育の最後の段階まで、独創的な科学文献の代わりに教科書が系統的に与えられている。この教育技術はパラダイムがあるから可能なのである。」
たとえば哲学や文学のようにパラダイムが確立していない分野では、誰もが共通して学ぶべき内容を記した教科書というものはありません。哲学には、学説史のような内容の教科書はあるでしょうが、哲学そのものの共通の教科書はないでしょう。哲学を本格的に学びたい人は、プラトンなりサルトルなりの著作を読んで勉強することになります。一方、物理学を学ぶ人は、教科書でニュートンの法則は学びますが、けっしてニュートンの著作は読みません。科学者個人や歴史的背景から完全に独立して、物理学の内容が確立しているからです。これはパラダイムが確立していることの証と見ることができます。(しかし、ちょっと待ってください、この文脈での「パラダイム」は、最初に掲げた”研究における模範”という定義からかなりはみ出しているのではないでしょうか? そういう疑問はす少しのあいだわきに置いてください)

[科学者という集団]
 このように、科学者はパラダイムに従って教育を受け、パラダイムに従って研究課題を選び、パラダイムに従って研究を実施します。その成果は、もちろんパラダイムに従って評価されることになります。そのパラダイムを受け入れている人間の集団が科学者でした。こうして、研究の成果は、必ず科学者相互によって評価されることになります。
「個人の創造的仕事が、自分の同業者に対してのみ向けてなされ、仲間内だけで評価されるというような職業集団は、他にはない。・・・科学者は、彼の持つ価値観と信念を共有する研究者仲間のためにのみ仕事をしているのであるから、彼にとって一つのはっきりした、自明な評価の基準があるのである。・・科学者集団の社会一般からの隔離によって、個々の科学者は自分で解けると思う問題に注意を集中できる・・・科学者は、問題を解く道具立てが揃っていないのに、どうしても緊急に解く必要がある、という種類の問題に手を付けなくてもよい。」
科学の研究は、科学者という、一般の人々とは異なる人間の集団の内部で、もっぱら評価される。科学とは、特定の仲間うちの中だけで行われている、閉じた営みである。これはクーンの科学観のかなり核心的な部分だと言っていいと思います。(仲間内の評価が絶対である、というニュアンスが、一般の人は関係がない、どころか、当の研究対象である自然さえもどうでもいい、というような、いささか不穏当な主張につながっていってしまったような気がします。しかし、また先を急ぎすぎました。)

[研究はパズル]
 これで「科学革命の構造」の前半の紹介が終わりました。ここまでの内容に対して、どんな感じを持ったでしょうか? 僕がこの本を初めて読んだのは、大学院の学生のとき、まだ修士課程の頃だったと思います。まだ自分では自然科学の研究を体験したことがなかった時期であるわけですが、それでも、たぶん研究とは実際ここに書かれているようなものなのだろうと納得した覚えがあります。
 それにしても、「パズル解き」という形容というか隠喩は、ずいぶん挑発的だと感じたことも事実です。おそらく多くの科学者は、自分のやっていることがパズル解きであるとは認めたがらないでしょう。僕が「パズル解き」という表現をあっさり受け入れたのも、僕自身が科学者ではなかったからであるかもしれません。
 しかし、その後いちおう自然科学の研究をする職について、それなりに経験を積んで、いまあらためて考えてみても、クーンの観察はまさに的確だったと思います。科学の研究はパズル解きである、おそらく優れた研究であればあるほど、より純粋にパズル解きなのです。もしすべてを見通せる悪魔の洞察力を持った人がいたら、その人は実験手法にしても考察にしても、論理的に一つひとつ積み上げ、まさにパズルを解くようにして研究を行うに違いありません。科学においては、”正しい”答えはただ一つであるとされています。そして誰でも”正しい”手続きを経れば、その”正しい”答えに到達できるとされています。科学者たちは、普通そのことを「科学の普遍性」と呼びます。クーンはそれを「パズル解き」と形容しました。
 実際に行われている研究の姿がパズル解きのように見えないとしたら、それは科学者が単に混乱して闇雲な手探りを行っているからでしょう。研究にはひらめきも必要だ、とよく言われます。しかしひらめきとは何でしょう。難しい数学の問題を一生懸命解いていて、突然解き方がひらめくことがあります。これは要するに、その問題を解くのに数学的な力が不足しているということです。それで行き詰まり、ひらめくという過程が必要になるのです。十分な数学的能力があれば、初めから解き方を完全に見通して、一歩一歩解いていくでしょう。研究が何か深遠なものであるかように感じている科学者は、単に頭が悪く先を見通せないだけなのかもしれません。
 そして、通常科学においては、独創的な研究など存在しません。”重要”な問題であればあるほど多数の人がそれにたずさわり、”正しい”手法であればあるほど多数の研究者がそれを採用します。あとは、誰が唯一の”正しい”答えに速く到達するか、というスピード競争であったり、誰が一番正確に理論通りの結果を出したかという品評会であったりするだけです。もし、他の誰とも違う”独創的”な研究をしたと称する人がいたとしたら、それは次の二つの場合のどちらかでしょう。一つは、単純に答えが間違っている場合です。正解は一つしかありませんが、間違った解は無数にあります。したがって、他の誰とも違う、自分独自の間違い方も可能です。もうひとつの可能性は、他の誰も注意を向けないような、無意味で少しも重要でない課題を研究しているということです。世界で自分一人しか研究している人がいなければ、確かにその研究は他の誰とも同じでない、独自の研究であり得ます。
 研究には必ずある程度の独自さoriginalityが求められます。しかし、現実に行われている研究のoriginalityは、実は上の二つのケースのどちらかであるように僕には思えます。数として多いのは後者の方、非重要な課題を取り上げることで生まれるoriginalityです。間違いにより研究者がoriginalityありと思いこんでいる場合も本当は多いのかもしれませんが、そのかなりの部分は論文の審査の段階で排除され表に出てきませんので、目に付きにくいと思われます。ちなみに僕自身は、間違いはほとんどしませんがやっている研究のほとんどは非重要な課題である、というタイプの研究者です。
 クーン自身も物理学で学位を取った科学者であったそうです。この本の出版から二十年後の大論争の中では、”科学を知らないのに科学を論じている”という非難が科学者から哲学者に向けられるのですが、クーンは科学を実地で十分に知った上で論を立てていたのです。