[トンデモ本の人気]
 これまではトンデモ本を書く側の問題を考えてきましたが、これから先は、視点を変えて読む側の問題を考えていきます。
 まず、「トンデモ本の世界」から笑える一節を紹介します。橋野という人の書いた「日本の地名とUFOの記録」についての項からです。この橋野氏の本では、日本の地名が片端からUFOに関連づけられてしまうのです。たとえば
「・「船」という字のついた地名・・・は、宇宙船が着陸した場所である。
・地名に使われる「笠」や「鍋」は、UFOの形を表現したもので、これらの場所でUFOが目撃されたことを意味している。(えっ?)
・鍋は使うと黒くなる。だから「黒」という字のつく地名にもUFOの意味が隠されている。(おいおい)
・「黒」は音読みで「コク」であり、それが「国」に変化した。「国見」という地名は、UFOを見た場所という意味である。(ちょっと待てーい!)」

()内のツッコミは、と学会の山本氏によるものですが、ほんと上手だと思います。ただ、それにしても、トンデモ本のボケのすさまじさには恐れ入ります。
ところが、この項の最後にはちょっと笑えないオチがついています。山本氏はこの本を図書館で見つけたそうです。公共の図書館にこういう本がある(つまり税金でこういう本を買っている)こと自体考え込まされますが、しかもこの本、彼が借りる前に二十人以上の人が借りていたのだそうです。はたして、その二十何人かの人は、いったいどういう意図でその本を借り、どういう気持ちで読んだのでしょうか。
 僕が、この「トンデモ本の世界」を読んでいて、笑うと同時にどこか気持ちが悪くなるのは、トンデモ本の読者の存在が原因のようです。トンデモ本が出版されるということは、それがちゃんと売れて商売になるということです。どのトンデモ本にも、かならず読者は何千人か何万人はいるのです。トンデモ本の内容が荒唐無稽で笑えれば笑えるほど、それを熱心に読んでいる人がいるという事実に、何とも言えない気味悪さを感じさせるのです。
 実際、トンデモ本の中には大ベストセラーになった本もあります。「トンデモ本の世界」によれば、宇野という人が書いた「ユダヤが解ると世界が見えてくる」は三十刷を超える部数が売れているのですが、その内容たるや、アメリカでの離婚の急増も日本でマンガ本が流行るのもユダヤの陰謀が原因という、まさにトンデモな主張満載なのです。

[超能力や異星人の到来を信じる人々]
 トンデモ本の読者が、と学会のメンバーのような姿勢で読んでいるなら、何も問題はありません。しかし、中にはトンデモ本の主張を真に受けてしまっている人がいないとは限りません。いや、どうやら真に受けている人が多いようなのです。
 しばらくのあいだ、社会科学(?)系のトンデモ本は脇に置いておいて、話を疑似科学・超科学本に限りましょう。そしてその中でも、”超能力や予言などの超常現象を、一見科学的な書き方で記述している”というタイプに話をしぼります。このタイプのトンデモ本は、もう一つの”既存の科学の理論を否定し、独自の理論を述べている”というタイプに比べ、はるかに読者が多いと考えられるからです。超能力やUFOや予言などは、もしトンデモ本の題材についての統計があれば、間違いなくトップにランクされるでしょう。おまけに、これらに関するテレビ番組もかなり頻繁に放送されています。これらのトンデモ本やトンデモ番組は、一見まじめな科学書やドキュメンターリーの体裁を取っていて、トンデモな主張をしているご本人は実のところ大まじめであるように見受けられます。異星人の到来や予言予知の実在を熱心に信じている人がいること自体は、それほど驚くようなことではないでしょう。また、彼らが熱心にトンデモ本を書いたり、テレビで熱弁を振るったりするのは、まあ、よしとしましょう。問題は、その言葉をどの程度のひとが信じているか、です。
 一九九六年に、国立大学の大学生を対象にして調査をした結果が、「超常現象をなぜ信じるのか」(菊池聡、ブルーバックス)という本に紹介されています。それによれば、異星人の実在に肯定的な回答をした割合はなんと約五十%、予知については約七十%にものぼるそうです。ちなみに、超能力が実在すると思っている割合は約四十%、幽霊は約五十%、神仏(!)は約三十五%となっています。
 同様の調査は、設問の仕方や対象を変え、繰り返し行われているそうで、いずれの結果でもいわゆる超常現象や異星人の実在を(強弱の差こそあれ)信じる割合は、相当高くなっています。つまり、トンデモ本や異星人・超常現象番組の内容が、けっしてトンデモではなく、なにがしかの信憑性があると思っている人間は、かなり多数(下手をすると多数派)であるようなのです。

[科学の限界と超常現象]
 ところで、異星人の到来や超能力などの超常現象は本当は実在するのでしょうか、しないのでしょうか。話を先に進める前に、この問いに答えておく必要があるでしょう。
 まずUFOすなわち異星人の到来を考えます。宇宙にある無数の星の中には、高度な文明を持った生物が住む星も、まず間違いなくあるでしょう。そして、その星から飛び立った宇宙船が地球に到達している可能性も、まったくないとは言えない、とは思います。したがって、異星人が地球に来ているかもしれない。少なくとも、そう想像してみることは許されるでしょう。
 しかし、そのことと、トンデモ本やUFO特別番組の内容をそのまま信じてしまうこととは、まったく別のことです。ここが肝心な点です。”異星人が地球に来ている確率はゼロではないはずだ”と考えることと、上で紹介したような、”舟がつく地名は宇宙船が着陸した場所だ”といった主張を信じることとの間には、無限とも思えるほど深いギャップがあるはずなのです。
 超常現象についても同じです。たとえば超能力の実在を信じる人たちは、科学者の批判に対してこう反論します。科学でも解明できないことはあるではないか、科学が間違ったこともあるではないか。それはその通り。現在正しいと信じられている物理法則が実は間違っているという可能性だってたしかにあります。しかしそのことと、世にいう超能力の実在を信じることとは、まったく別のことなのです。(その意味では、アインシュタインは間違っているかもしれない、と思って、その手の疑似科学本に手を出すところまでは、まあ、悪くはないのだと思います。あとはただ、疑似科学本と正統なテキストの両方を、同じ熱意を持って読んでもらいたいものだと思うだけです)
 超能力を信じる人たちは、正統な自然科学に懐疑の目を向ける一方で、超能力に関する情報は疑おうとしません。トンデモ本やテレビ番組から得た知識はそのまま受け入れ、小学校から教えられてきた自然科学の知識の方をあっさりと否定してしまうのです。科学的な知識に疑いを抱くことと、科学的知識に真っ向反する情報を信じることとのあいだの深く広いギャップを、なぜあの人たちはいとも簡単に飛び越えてしまうのでしょうか。

[なぜトンデモな情報を信じるか]
 問題は二つあることになります。ひとつは、なぜトンデモな情報を信じるか、であり、もうひとつは、なぜ科学的な知識を捨てるかです。
 最初の問いについては、心理学を専門にする人が本を著しています。先ほど紹介した「超常現象をなぜ信じるのか」もそのひとつです。この本も非常におもしろい本で、錯視などの感覚における錯誤から始まり、論理的思考における錯誤まで、わかりやすく説明してあります。特に、人間は自説に有利な情報のみを選択して集める傾向がある、という点、身にしみて教えられました。
 その本の中に、次のようなエピソードが紹介されています。朝日新聞の「中島らもの明るい悩み相談室」に、あるとき、じゃがいもを焼いて味噌をつけて食べると死ぬと聞いたが本当か、という主旨の相談が寄せられたそうです。それに対するらも氏の答えは以下のようなものでした。
「・・『焼きじゃがいもに味噌をつけて食べると死ぬ』というのは本当です。・・・僕の友人の医者の話でも、やはりその実例を見たそうです。その患者さんは今年九八歳になるおじいさんですが、一二の時に焼きじゃがいもに味噌をつけて食べたのを悔やんでなくなったそうです。」
なるほど。ところが、これを読んで焼きじゃがいもに味噌をつけるのは体に悪いと信じ込んだ人がたくさんいて、朝日新聞社には問い合わせの電話と手紙が殺到したというのです。やれやれ、このらも氏の答えに笑えないようでは、トンデモな情報を見抜くこともできないわけです。
 らも氏の回答で不安をかきたてられた人はやや特別としても、完全に論理的客観的に思考し判断することは私たちにとって想像以上に難しいと、どうやら認めざるを得ません。心理学者たちがこの問題についてはさまざまに研究をしています。ここでは、これ以上立ち入ることはしません。

[教育の問題]
 「超常現象をなぜ信じるのか」という本には、もう一つ暗然とするデータが紹介されています。やはり大学生を対象に行った調査で、超能力を肯定的にとらえる割合は文系の学生より理系の学生の方が高かったというのです。そして、科学にも未知の領域があるから、ということを、彼らは超能力を肯定する理由のひとつとしてあげていたそうです。
大学の理工系の学部に入るためには、中学高校の試験に始まり、大学入試にいたるいくつもの自然科学の試験を通過してきたはずです。彼らはそこで、たとえばエネルギー保存則が何であるかを答えてきたでしょう。その法則を使っていろいろな問題を解いてきたでしょう。ところがその彼らが、エネルギー保存則に完全に反する超能力の存在を、信じているというのです。
 このことはきわめて深刻な問題を私たちにつきつけています。私たちが思い違いをしやすい存在であるとしても、思い違いを防ぐために、教育によって正しい知識を身につけることになっているはずです。実際、少なくとも理系の大学に進んだ彼らは、一度は正しい知識を身につけているはずです。しかし、その身につけたはずの知識が疑われ、捨て去られる場合が多々あるようなのです。いったい、日本の理科教育はどうなっているのでしょうか。

[成績はいいけれど・・]
 国際教育到達度評価学会というオランダに本部をおく学会が、世界三十八カ国で中学生の学力を調査しました。その結果、理科については、日本は台湾、シンガポール、ハンガリーに次いで四位の好成績だったそうです。これを見ると、日本における理科教育はまずまずの成功を収めているように見えます。
 しかし、同じ調査で「好き」「嫌い」を調べたところ、理科が好きと答えた割合はなんと二番目に低かったというのです。(ちなみに、最低は韓国です)そして、「生活の中で大切」と考えている割合は、なんと最下位、三九%にすぎないそうです。ここまでくれば当然に思えてきますが、「将来、科学を使う仕事がしたい」と答えた割合も堂々の最下位、わずか一九%です。
 これらは九九年に行われた調査の結果ですが、同様の調査は九五年にも行われていて、そのときの結果もほぼ同様でした。つまり、九五年も成績はトップクラスですが、「好き」「大切」と答えた割合は最低レベルだったのです。ただし、数字は九九年の方が悪化しています。たとえば「大切」と答えた割合は、九五年にはまだ四八%であったものが(それでも最低です)、九九年にはさらに十ポイント近くも低下し三九%になっているのです。
 これは、心底恐ろしい結果です。自然科学に対する知識がなく、そのためその重要性が理解できないというなら、まだ手の施しようがあります。知識が与えられれば、自然と重要性に気づくはずだからです。しかし、日本の子どもたちは、相当な知識を持ちながら、その重要性を否定しているのです。

[一般市民の理解度]
 もう一つ別の、国際的な調査の結果を紹介します。今度は子どもではなく、一般の市民を対象にした調査です。アメリカ科学財団(NSF)が、OECD加盟国(世にいう先進国とだいたい思っていい)で、一般市民の”科学リテラシー”を調べました。この科学リテラシーとは「科学技術関係の政策課題として議論されている事項を吟味するのに必要な理解力、基礎的な科学用語、科学的概念、科学的方法の理解の程度」と定義されているそうですが、要するに科学的な事柄に関する知識・理解度です。
 具体的には、一般の人たちに、次のような問いに答えてもらったのだそうです。(長くなりますが、全問紹介します。
・以下の事柄の正誤を問う。「地球の中心は非常に熱い」「すべての放射能は人が作り出した」「私たちが呼吸している酸素は植物が生み出す」「子どもの性別を決めるのは父親の遺伝子である」「レーザーは音波を収束させて作る」「電子は原子よりも小さい」「抗生物質はバクテリアもウイルスをも殺す」「宇宙の始まりは大爆発であった」「大陸は数百万年の間に位置が変わった、また今後も変わり続ける」「現在の人類は原始動物から進化した」「喫煙は肺ガンの原因となる」「最初期の人類は恐竜と共存していた」「放射能を持ったミルクは煮沸すれば無害となる」
・以下の問いの答を選択する。「光と音ではどちらが速いか」「地球が太陽の周りを回っているのか、それとも太陽が地球の周りを回っているのか」「地球が太陽の回りを一回りするのにかかる時間は一日か、一ヶ月か、それとも一年か」
・次の問いに答える。「DNAとは何か」「分子とは何か」「放射線とは何か」「インターネットとは何か」
(どうでしょうか、全部できるでしょうか。私は実はちょっと間違えました)
 この調査の結果、科学的事柄をよく知っていると判断された人の割合が高かったのはデンマーク、イギリスなど北ヨーロッパ諸国で、六割を超えます。一方、日本は二割以下で、調査対象十四カ国中ポルトガルに次いで二番目の低さでした。また平均点で見ても、満点を百として六十近く得点したアメリカや北ヨーロッパに比べ、日本は三十そこそこの低得点でした。つまり、中学生が試験で好成績を収めているのとは対照的に、市民全体でみると、日本人は科学的知識にきわめて乏しいのです。
 さらにこの調査では、科学的技術的な事柄への関心の度合いについても調べています。科学・技術上の新発明・発見に関心があるか、環境汚染問題に関心があるか、といった質問に対して、関心があると答えた人の割合は、またしても日本が最低でした。たとえば、科学上の新発見に関心を持っている市民の割合は、日本ではわずか三割で、上位の欧米諸国のほぼ半分に過ぎません。

[受験の影響]
 日本がこのような状況になっているのは受験競争の激しさが原因であると、教育学者たちは指摘しています。子どもたちは学校の定期試験のため、最終的には受験のために勉強をしている。親や先生から強制されて勉強をしているだけで、自ら進んで学ぼうという気はない。強制されるから、一時的には情報を記憶するものの、強制への反発から嫌悪感がうまれてしまう。そして、目的が入試で点を取ることにあるから、入試が終わればもう覚えている必要はなくさっさと忘れてしまう。実は韓国も日本と同様に試験の成績は非常に優れ、好き嫌いとなると日本と同じぐらい嫌いが多いのですが、あの国でも日本と同様に(あるいはそれ以上に)受験競争は厳しいといわれています。
受験競争の弊害は深刻な問題です。いい大学に入るためにはいい高校に入らなければならない、いい高校に入るためにはいい中学に入らなければならない、ということで、たくさんの小学生が入試のための塾に通っています。友達と遊ぶことも制限され、始終プレッシャーをかけられ塾通いを強いられる彼らが、理科や算数を心底憎んでいるとしても、何の不思議もありません。中学、高校の入試はいっそのこと禁止してしまったほうがいいのかもしれません。
 ただ、大学入試まですべて入試をなくせば問題が解決するというものではないでしょう。たとえば大学入試から理科や数学をなくしたら何が起きるか、というと、高校では理科や数学をほとんど勉強しなくなってしまうと予想されます。現に、多くの大学は、受験生を集めるために入試科目を減らしています。その結果、文系の学科に進む高校生は理科も数学もごく限られた時間数の授業しか受けていません。理系に進む高校生であっても、入試に必要な最低限の内容しか学習していません。工学部でも、高校で微積分を習っていない、物理を習っていない学生がいくらでもいます。
最近、大学生の多くは分数の計算も満足にできない、という事実が書物や新聞記事を通して明らかになり、多くの人がショックを受けました。彼らの多くは、大学入試に必要ないからという理由で、高校のときに数学をまともに勉強していないのです。そのため、数学の能力は中学卒業時をピークにあとは下がる一方で、大学入学時には小学生レベルにまで戻ってしまうのです。
 おまけに、入試科目を減らすことは、実は受験競争の緩和にはまったく役に立ちません。科目が少なくなれば、確かにその科目に集中して勉強できるようになり、理解がより完全にはなりますが、それは自分の競争相手も同じです。結局、その残った科目については、科目が多かったとき以上に立ち入った内容の問題や高いレベルの問題を解けるようにならなければいけなくなり、競争の厳しさには変わりがありません。
 同じ理由で、指導要領を改訂して教える内容を減らし「ゆとり教育」にしようと文部省はしていますが、これも害はあっても利はありません。内容を減らせば減らすほど、受験はますます制限された範囲の事柄を材料に優劣をつけなければいけなくなり、いたずらにひねった、奇怪なパズルのような問題が多くなるでしょう。中学入試の問題(つまり小学生が解く問題)の多くが、まさに奇怪なパズルそのものであることはご存知だと思います。北野たけしの「平成教育委員会」という番組がかってあって、いまも正月などに特別番組で放送されていますが、そこでは中学入試の問題がクイズとして使われていました。なぜ中学入試の問題があのように複雑なパズルになってしまうかというと、限られた内容をもとに、厳しい受験勉強で鍛えた子供たちの間に点数差をつけなければいけないからです。文部省の言う「ゆとり教育」が進めば、高校入試や大学入試もいまの中学入試のようになってしまうかもしれません。
 結局、受験のためにだけ勉強をしている限り、入試科目を減らそうが、教える内容を減らそうが、理科数学嫌いは改善されることはないでしょう。では、受験競争を緩和するにはどうしたらいいのか。この問題は、ここで論じるにはちょっと大きすぎます。話の範囲が教育にとどまらなくなってしまうからです。

[科学の大切さはどこに]
ただ、厳しい受験競争があったとしても、子供たちが理科や数学を少なくとも嫌わないということは、原理的には可能なはずです。小学生のうちから受験勉強をやらされてはちょっと救いようがないでしょうが、もっと上の年齢なら、受験勉強では苦しんだが科目自体は大好きだ、というケースも当然あるわけです。試験勉強や受験勉強が楽しくないのは仕方ありません。しかしそれとは別に学ぶ楽しさというのはあるはずで、受験勉強というのは、その学ぶ楽しみをより長く味わうための、一時の苦しみで本来はあるはずなのです。
 カギは、理科や数学が「生活で大切だと思う」かどうか、だろうと思います。生活で大切だと思えば、その知識を得ることはなにがしか楽しいことであるはずです。ところが、先ほど紹介したように、理科や数学を大切だと思う割合は日本ではわずか四割弱で、世界最低と言っていい低さなのです。そうなってしまえば、残るのは試験勉強の苦しみだけです。
 考えてみれば、これは奇妙なことです。日本は世界的に”ハイテク”の発達した国として知られています。実際、身の回りには携帯電話やゲーム機をはじめ高度な技術がふんだんに使われた製品があふれています。すべての日本人は、科学技術の恩恵を大いに被っているはずなのです。にもかかわらず、中学生は理科や数学が生活で大切だと思っていないし、大人たちは科学技術に興味を持っていないのです。また、最近は環境問題の深刻さが盛んに訴えられるようになりましたが、これもまさしく自然科学の問題です。ごみ問題、大気汚染問題、地球温暖化問題、どれをとっても理科の守備範囲に入ることがらです。しかしそれら環境問題がいくら話題に上っても、日本人の自然科学への関心は低いままなのです。あるいは逆に、自然科学への関心が低いから、先ほどのNSFの調査結果にあるように環境問題などへの関心が低いのだ、とも言えるでしょう。
 こうした姿が意味しているのは、いま多くの日本人の中では、自分が生きている世界と、学校などで得る自然科学の知識が遊離してしまっている、ということです。学校で自然科学を学んでも、それが身の回りの世界と結びつけられることはなく、単に試験をパスするために必要な情報として使われてしまうのです。
 トンデモ本がいまのように売れ、超能力や予言がこれだけ信じられている理由もそこにあるでしょう。理科の教科書で学んだことは試験の答案用紙の上で有効なだけで、実際に自分が生きている世界ではそれと矛盾する事が起こっても当然であると感じている日本人が、どうやらたくさんいるようなのです。

[科学技術の進歩が無関心を生む]
 ところで、僕はつい先ほど、日本は科学技術が進歩しているにも係わらず人々は科学に無関心だ、という言い方をしました。しかしこれは、”にも係わらず”ではなく、”だからこそ”というべきなのかもしれません。科学技術が進んだからこそ、人々は科学に関心を失った。
 つまり、科学技術が未発達でそのために生活で色々困っているなら、人々は科学技術に強い関心を抱くだろうと思うのです。たとえば、電力の供給が不十分で、たびたび停電を起こす地域にすむ人は、電力関係の技術の発達を強く願っているでしょう。そこからより一般化して、技術の基礎である自然科学が人間の暮らしに重要であるという意識を持つことは十分あり得ると思います。
(ただ、電気というものをいっさい知らない人はもちろん別です。これについての議論は「人間不平等起源論」の項でしました}
 それに対し、日本では衣食住すべての面で生活の環境が整いすぎていて、不足や不便を感じることがありません。だから科学技術の必要性を実感することもあまりないのです。何かの必要性を実感するには、それが欠けた状態を体験する必要があるでしょう。しかし、相当年配な世代を除けば、ほとんどの日本人は、生まれたときにすでに科学技術が十分発達していたために、科学技術が未発達な生活を知らないはずです。それで、科学技術が生活に必要であると感じることがなかった、と考えられます。
 さらに言えば、いま多くの日本人は、日々の生活をおくる上で、科学技術がこれ以上発達しなくてもいいと感じているようにも思えます。先ほど紹介した調査結果で、理科が生活で必要と感じない、将来理科や数学を使う仕事にはつきたくはない、と答えた中学生が多かったのはそういうことだと解釈できます。もし日々の暮らしで科学技術が不完全なため不便をこうむっていれば、人々は科学技術の進歩を望むでしょうし、得意不得意は別にしても、子供たちは自然科学の必要性を認めるはずだからです。
実際は、今も科学技術はすさまじい勢いで進歩しています。しかし、それは人々が求めているためではなく、欲望を再生産してものを売りつづけるためであることは、すでに説明しました。
科学技術の進歩を誰も求めていない社会では、誰もが理科数学嫌いになっても不思議はありません。

[失われた自然との接触]
 科学技術の発達が理科嫌いを作るメカニズムには、もうひとつあります。生活環境から自然が失われてしまうということです。
 たとえば小学校の理科の時間で星座について習ったとします。星座は、もちろん実際に夜空に存在するもので、教科書の中にだけあるものではありません。しかし、大都会では夜空を見ても星座など見えないのです。街が明るすぎて、星の中でもごく明るいほんの一部の星しか見えません。だから、星座の形など見つけようがないのです。それでも、子供たちは試験のために、星座の名前や形を覚え、それが現れる方角や季節を覚えるでしょう。しかし、そのような知識は、自分の頭の上で輝いている星に結び付けらずに、何か抽象的な概念のようになってしまうでしょう。それが最終的には、天文学へ発展することなく、星占いの世界に変質してしまったとしても、無理もないというべきかも知れません。
 同じことは生物についても言えます。学校で動植物について習っても、それが身近になければ、なぜそのような知識が必要なのか理解できないはずです。そしてやはり、試験のためだけの情報として、受け入れられてしまうでしょう。
 もちろん、少し田舎に行けばまだ自然は残っています。星も見えますし、動植物もいくらでも見つけることができます。ところが、田舎でも子供たちと自然との接触は減ってきているといわれています。昔は、子供たちはよく川や雑木林の中で遊びました。(僕もいちおうそのような経験を持っています)ところが今は、田舎であっても、テレビやらゲームやらの隆盛のため家で遊ぶことが多くなったというのです。これでは、自然がいくらあっても、自然についての知識が現実感を持つことはないでしょう。
 こうして、自然から遠ざかった結果、子どもたちの理科嫌いは増えたと考えられます。その責任は子どもたちにはありません。森を開き、海を埋め立て、川の土手をコンクリートで固め、生活環境から自然を排除したのは大人たちです。テレビにしてもコンピュータにしても、大人たちがこの社会に生み出し持ち込んだものです。それを少しも見直さずに、理科嫌いの責任を学校教育に押しつけても、問題は解決はしないでしょう。
 逆に言えば、子どもたちの理科嫌いをなくす一番の方法は、自然を取り戻し、自然との接触を再び盛んにすることだと僕は思います。

[社会科の問題]
 ところで、いちおう「科学技術論の名著」と銘打っている手前、これまで話を理科・自然科学に限ってきましたが、社会科・社会科学についても同じ問題が生じていると考えた方がいいでしょう。先ほど紹介した国際比較調査は、残念ながら理科・数学についてだけですが、あのような傾向が理科数学についてだけ現れていると考える根拠はありません。
 ということは、多くの日本人にとって、社会科で学んだことは実際の社会とは関係がない、と認識されているかもしれないのです。
 そして実際、すでに紹介したように自然科学的にトンデモな本だけでなく、社会科学的にトンデモな本も売れているのです。”すべてをユダヤが支配している”というユダヤ陰謀本がその代表ですが、それ以外にも”日本語の語源はアメリカインディアン語であり、日本人がアメリカに渡ってアメリカインディアンになった”とか、”ゲルマン民族といわれている人々は実は中国民族である”とか、”神武天皇はダビデ王の直系の子孫である”とかいった主張を真っ向振りかざす本が出版され、版を重ねているというのです。
 こうした本の読者は、自然科学系トンデモ本の読者が物理法則と相いれない現象を信じ込んでいるのと同じように、現実の社会が動いている仕組みについてとんでもない誤解をしているのかもしれません。つまり、政治や法律や経済について学校で習ったことがあっさり捨て去られ、トンデモな本やテレビ番組から得た認識に置き換えられてしまっているかもしれないのです。その結果、テレビに出てくる超能力やUFOと同じぐらい実在しそうにない組織や団体が存在すると、信じ込んでいる。これは、考えてみれば、かなり恐ろしいことです。問題の深刻さは理科嫌い問題以上かもしれません。なぜかというと、そのような人も、たとえば選挙になれば投票をします。その結果で政治が動き社会が変わっていくわけですが、もしトンデモな社会科学的認識を持っている人が日本の社会で相当な割合を占めているとしたら、その投票結果とは一体何なのでしょう。実際にそのような人が”相当な割合”であるのかどうか、確かめるすべはありませんが、ここでもう一度「日本の大学生の四十%は超能力が実在すると信じている」、あるいは「日本の市民で科学的事柄をよく知っていると見なせる割合は二十%である」という事実を思い出す必要があるでしょう。
 もしかしたら、いまの日本の政治状況は、こうした社会科学的にトンデモな人々の投票行動の結果であるのかもしれません。

[社会はどうなっているのか]
 選挙をしなくても、日々私たちは社会の中で暮らしています。学校、家庭、職場、地域、市区町村、色々なレベルで人と関係しています。そのようなとき、社会についてどのような認識を持っているかは、その人の行動に必ず影響するでしょう。もし人が社会についてまったくトンデモな認識を持ってしまったら、学校や職場での人間関係で問題を起こし、社会から離れてアウトロー、落伍者等々といった存在になってしまうかもしれません。
 ただ、この言い方は原因と結果を逆にしているかもしれません。あるいは、卵が先か鶏が先かといっしょで、どちらが原因とも結果とも決められないのかもしれません。
 原因と結果が逆、とはこういうことです。
さきほど理科嫌いについて考えたとき、自然との接触の喪失がその原因ではないかと述べました。いくら自然科学の知識を習っても、自然が身近になければその本当の重要性は認識されず、やがて捨て去られてしまうと考えられるのです。それと同じ論理で行けば、社会科学的な知識が身につかないのは社会が身近にないため、ということになります。いくら社会の成り立ちについて習っても、自分がどれかのレベルの社会の一員であるという実感が持てなければ、そのような知識はやはり無意味なものに感じられてしまうでしょう。そして実際、テレビゲームや塾通いは、自然との接触だけでなく、他の人々との接触も同じように子供たちから奪っているように見えます。

[トンデモ本の問題]
 このまま子供たちの理科嫌い、社会嫌いが進んでいけば、日本の中にはトンデモ本を読んでも笑わない人々がどんどん増えてくるかもしれません。そういう人は「トンデモ本の世界」を読んでも笑えないことになります。これはとんでもなく恐ろしいことです。しかしこの責任はトンデモ本にあるのではありません。トンデモ本の存在そのものを非難すべきではない、という「と学会」の方々の主張に、僕は完全に同意します。誰でも書きたい本を書いていいし、ごく少数のトンデモな○○学者さんの存在は社会にとって害悪でもなんでもないでしょう。問題は受け入れる読者の側にあります。トンデモ本を抹殺したところで、理科や社会の時間に習ったことが必要でもなければ信憑性さえないと多くの人が感じているなら、問題は少しも解決しません。
 藤森照信氏は、毎日新聞の書評欄で「トンデモ本の世界」についてこう書きました。
「・・文部省はこのところの事件にかんがみ「トンデモ本の世界」を青少年の心のワクチンとして全国の図書館に常備させる計画を進めている、わけはないが、昨日、神田の大型書店に行ったら、レジに平積みされていた。」
この冗談は、なかなかに複雑な笑いをもたらします。笑いが複雑になる理由のひとつは、「トンデモ本の世界」をワクチンとして必要としている青少年が実際にたくさんいるのではないか、と思えるからです。もう一つの理由は、文部省(文部科学省)は現実には、「トンデモ本の世界」の健全さを評価できるような組織では全然なく、あいかわらず”学力テストの点数は落ちていない、したがって教育はうまくいっている”といった調子の発表を繰り返しているからです。
 文部科学省の学力テストなどよりも、この「トンデモ本の世界」あるいはその原典であるトンデモ本を読んでどれだけ笑えるかが、教育の成功不成功を測るバロメータになるはずだと、僕は思います。