「トンデモ本の世界」


 この本は「と学会」という本好きのグループが書いたもので、出版は1995年。大好評を博し、翌年にはさっそく第二弾「トンデモ本の逆襲」が同じメンバーにより出版されています。
 ルソーの次にこの本をもってきたのには、いくつかの理由が考えられます。”考えられます”というのは、自分ではそうはっきりした意図があるわけではないからです。考えようによっては、軟硬メリハリをつける、というかバランスを取るという意味がありそうです。あまり硬い本が続くと誰も読まない恐れがあるので、あるいは、書く方がしんどくなるので、軟らかい本をもってきたというわけです。あるいはまた、自分がサブカルチャーにも強いところを見せたいと願った、と推察(邪推?)してみることも可能でしょう。
 ただ、いずれにしても、この本の持っている文化的な意義は強調してしすぎることはありません。それをこれから、ゆっくり考えていきたいと思います。

[笑える!]
 この本を読んで第一の感想、というか反応は、とにかく笑えるということです。本当に、こんなに笑える本はそうありません。この中で紹介されている「トンデモ本」がとにかくすごいのです。ひとつ例をあげましょう。三上さんという人の書いた、「植物は警告する」という本です。これは、非常に有名なトンデモ本のひとつ、というより、この「トンデモ本の世界」のおかげで非常に有名になった本のひとつなのですが、この中には著者の三上さんが植物と意思疎通を図る話が出てきます。
 三上さんはまず、LBS(リーフバイオセンサー)という装置を作りました。これは植物の電気信号を感知して増幅するものなのだそうです。次に三上さんは、それをコンピュータにつないで、コンピュータから色々な情報を植物に伝えようとしました。しかし、三上さんにはパソコンについての知識がありません。そこで、
「フロッピーをにらんで考えた末に、著者は画期的な方法を考案する。フロッピーに直接、情報を磁化させようというのだ。
『庭の隅に深さ三十センチの穴を掘り、百円玉を数個入れて埋めた。その上に平らな石をおき、上に新品のフロッピー一枚を置いた。そのフロッピーの上にハンディコピー器をONにしてのせ約五分放置した。』
プログラミングというより、未開人の呪術のような気がするが、三上氏はこの方法でフロッピーに百円硬貨のデータが記憶されたと信じているのである。
 さらに三上氏は、フロッピーさえ不要であることを発見する。硬貨を撮影した写真を、パソコン(のフロッピードライブ)に直接挿入するのだ!(どひー! やめろお!)」

 三上氏の本には、実際にフロッピードライブへ五百円玉の写真を挿入しようとしているシーンの写真が載っていて、それがこの「トンデモ本の世界」にも引用、掲載されています。
 きりがないのですが、もう少しだけ「トンデモ本の世界」から引用します。三上氏はそれ以外にも様々な実験をしたそうですが、ある実験では、植物が電話を通して離れたところにいる人を感じることがわかったのだそうです。
「実験台上に置いた電話機の子機に、CASIOのポケコンを接触(接続ではない)させる。そしてポケコンに友人の電話番号を打ち込む。友人が自宅にいるなら、植物がそれを感知して赤ランプがつくという。もちろん電話機は切ったままである。
 どういうことかわからないって? 読んでいる僕もよくわからない。ただ、三上氏の熱意と植物に注ぐ愛情だけは、ひしひしと感じられる。」

 この「トンデモ本の世界」がこれほど笑えて、これほど魅力的なのは、執筆者であると学会の方々のつっこみ、あしらい方が上手だからです。三上氏の本の紹介を書いているのは山本弘さんという方で、プロのSF作家なのだそうですが、この人が一番たくさんの項を執筆していて、またつっこみも一番巧みです。

[やがて気分が悪くなる]
 ところが、これだけおもしろい本でありながら、僕はこれを長く読み続けることができませんでした。三十分も読み続けていくと、もう必ずひと休みしたくなります。疲れる、というよりは、どこか気持ち悪いような、妙な気分がしてくるのです。
 その、妙な気持ちの悪さが、僕のこの話しの主題です。自分だけがそのように感じるとは僕は思いません。この本で紹介されているトンデモ本には、人を気持ちが悪くさせる要素があるのです。特にその要素を強くもっているのが疑似科学・超科学の本です。疑似科学・超科学本は、ここでは、次の二つのどちらか(または両方)の内容を含んでいる本を指します。
a.超能力や予言などの超常現象を、一見科学的な書き方で記述している
b.既存の科学の理論を否定し、独自の理論を述べている
 三上氏の本は、このいずれにも該当するような、しないような、というところです。出てくる話は超常現象的ですが、書き方はあまり科学的ではありません。独自の理論を述べているには違いないでしょうが、既存の科学についてどの程度意識しているのか不明です。そしてなにより、三上氏自身が意識してピエロになっているふしがないではないのです。こういう本は、純粋に楽しいだけで、気持ちが悪くなることはあまりありません。
 トンデモ本の著者たちの中には、自分が書いていることを本気で信じているわけではなく、単に金儲けや売名あるいは一種の娯楽のために本を出しているやからもいるでしょう。そういうタイプのトンデモ本ばかりなら世の中平和であるわけで、この「トンデモ本の世界」を読んで気持ち悪さを感じることもなければ、科学技術のあり方について悩み考え込むことはありません。ところが、多くの場合どうも彼らは真剣なのです。彼らが真剣であるために、この「トンデモ本の世界」がよりいっそうおもしろい本になったのは事実です。からかう相手が真剣であればあるほど、からかうことによって生まれる笑いは大きくなるものですので。しかし同時にその真剣さが、読んでいる人間の中に気持ちの悪さを生み出します。そのような真剣さがもっともストレートに出ているのが、疑似科学・超科学本だといえるでしょう。
 以下では、その気持ちの悪さについて次のように大きく二つの観点から考えていきます。第一は、トンデモ本を書く人の問題です。自分も含め世の中の多くの人が信じていることとはまったく違うことを信じている、そして熱心に本まで書いて、それを知らせようとしている。このような人たちに接して感じる感情は、新興宗教の教祖に対して感じる気味の悪さに似ています。第二は、トンデモ本の熱心で誠実な読者、つまりトンデモ本に書かれていることを信じている人たちに対する同様な感情です。著者が新興宗教の教祖なら、その読者は新興宗教の信者、ということになりそうです。ただ、内容が(擬似)自然科学となると、単純な信仰の問題ではなく、教育の問題を考える必要が出てきます。

[疑似科学者たち]
 ではまず、トンデモ本を書く人たちについて考えていきます。ガードナーというアメリカ人の書いた「奇妙な論理」という本があります。これは「トンデモ本の世界」のルーツのような本で、疑似科学のいわばトンデモ本をたくさん紹介しています。(「トンデモ本の世界」の巻末で参考図書としても紹介されています)その中で、ガードナー氏は真剣に自説を信じている擬似科学者を”誠実な擬似科学者”と呼んで、次のような偏執狂的傾向があるとしています。
・自分を天才だと考え、自分の敵を愚か者とみなす。
・公認の学会から、自分は不当に迫害されていると思い込んでいる。
・最も偉大な科学者に攻撃を集中する強い衝動を持っている。
最後の、攻撃目標となっている最も偉大な科学者とは、現代ではアインシュタインであるとガードナー氏は書いています。ガードナー氏の本のアメリカでの出版は一九五二年ですので、かなり昔なのですが、これは現代でも変わりません。疑似科学者たちは、こぞってアインシュタインを標的にし、相対性理論は間違っているという主張をします。そしてその主張を裏付けるため、数式を書き、図を描いて論理を組み立てていきます。それで一冊の本を、人によっては何冊もの本を書いてしまうのですから、そこに投入されたエネルギーは相当なものです。
 もちろんアインシュタインの相対性理論は間違っているところがあるのかもしれません。相対性理論によって、ニュートン力学が絶対的な真理から近似的な理論へと地位が変わったように、相対性理論自体もいつか「あれは近似的な理論に過ぎない」といわれるようになるのかもしれません。しかし、だからといって自分の説こそが真理であると信じるのは、これは大変な勇気というべきです。

[トンデモ本体験]
ところで、僕はこの架空の講演録のようなものを書くにあたって、自分でもトンデモ本を読んでみました。「トンデモ本の世界」でも紹介されている窪田さんという人の書いた本です。相対性理論は間違っているという主張をしている擬似科学者は何人かいるのですが、この人はその中でも目立っている方のようで、何冊か同趣旨の本を出しています。
ただ、自分でお金を出して買うのもばからしい(著者には失礼ですが)と感じたので、大学の図書館にまず行ってみました。国立大学の、理工系の大学図書館に、この手の疑似科学本があるかどうか興味の湧くところですが、これが何冊もあるのです。まっとうな相対性理論の教科書や解説書に混じって、ちゃんとトンデモ本も開架で並んでいました。しかも、結構借りられているようなのです。誰がどういう目的で借りたものか考え込みたくなりますが、そうした読者の問題について考えるのはもう少し後にします。
それにしても、このような本を図書館で借りるというのは妙な気分がする体験でした。貸し出しカウンターの人に「この人、変な本を借りている」と思われたらやだな、とか、こんな本持っているところを知っている学生に見られたくないな、とか。同時に相対性理論のまともな解説本も借りたのですが、カウンターにはそちらを上にしておきました。(レンタルビデオ店で映画のビデオとアダルトビデオを借りるときは映画の方を上にしてカウンターへ持っていく、という光景を連想させます)
まともな解説本も同時に借りたのは、実は僕は相対性理論をよく理解していないからです。いちおう工学部の教員ではありますが、相対性理論については大学でもまったく教育を受けていません。理工系の中でも分野ごとに必要とされる知識はかなり異なっていて、大学教員でも自分の専門分野以外の事柄については素人同然であるのが普通です。
実は図書館で本を借りるとき、さきほど述べました恥ずかしさだけでなく、ある種の恐怖を感じたことも告白しておきます。それは、この二冊の本を読んでみて、トンデモ本のほうが正しいと感じたらどうしよう、という恐怖です。本当にそう感じるなら、僕はいわば正統な(とされている)学会の外に出て行かなくてはならないはずです。
しかし、幸いなことに(というべきでしょう)、トンデモ本の主張はいっこうに理解できず、まともな解説本のほうはまあ理解はできそうでした。窪田氏は特殊相対性理論の出発点であるマイケルソン−モーリーの実験の新しい解釈を示そうとしているのですが、これは勘違いに基づいているようです。
 両者を読み比べることで、より理解が深まるという点もありました。実際、「トンデモ本の世界」によれば、トンデモ本の間違い探しはいい演習課題になる、と考えている専門家もいるそうです。もっとも、理解が深まったといっても、マイケルソン−モーリーの実験についてだけでした。なぜかというと、トンデモ本はほとんどそれしか議論おらず、他の点は”そんなばかなことがあるでしょうか”と言い切っているだけで、まともに議論をしていないからです。

[学会・権威に対する敵意]
さて、トンデモ本の記述からもっとも強烈に感じられることは、ガードナーの指摘のとおり、既存の学会・専門家に対する敵意と軽蔑でした。専門家たちは、あの大アインシュタインが間違えるはずがない、というだけの根拠で、相対性理論を全部信じている、そのため自分の理論は不当にもまともに扱ってもらえない、というわけです。これは、僕が読んだ本だけではなく、トンデモ疑似科学本に共通する主張のようです。疑似科学の主張はかならず専門家からは批判または無視されますから、擬似科学者たちが専門家に敵意を抱くのは当然ではあります。
このような記述を繰り返しながら、彼らは自分を悲劇のヒーローに仕立て上げようとしているようです。自説の正しさを純粋に信じる自分と、外国製の理論をろくに考えようとせず盲信する専門家たち、という設定です。彼らにとって、学会に認められないということは、ある意味では欲求不満の源ではあるでしょうが、その反面ちょっとした快感でもあるのだろうと思います。ついでにいえば、このタイプの疑似科学本の読者も、そのような反権威的な雰囲気に魅力を感じて本に手を伸ばすのだろうと思います。
ところで、僕が読んだ(正統な)解説本には、疑似科学の主張を年頭においてその考え違いを指摘する記述がかなりありました。専門家たちの多くはトンデモ本とまともに取り合おうという気はないと思われますが、一般向けの解説本を書くような場合にはトンデモ本の存在を意識せざるを得ないのだと思います。その記述からは、専門家のほうも疑似科学者に対してそれなりの敵意というか悪感情を持っていることがうかがえました。ガードナーの本にあるように、何十年も前からトンデモな疑似科学の主張が繰り返し現れていることを考えれば、それも無理もないこととは思います。

[権威に対する弱さ]
 このように疑似科学者(あるいはトンデモ物理学者)と専門家とは敵対関係にあるわけですが、この構図にはじつは少しおもしろいひねりが加えられています。僕がその著書を読んだ窪田氏の主張には、とある国立大学の工学部の教授が肩入れしていて、共著で本も著しています。(窪田氏の記述によれば、相対性理論の間違いを指摘する共同研究を二人で行ったとのことです)
 この大学教授以外にも、何人もの大学教授がトンデモ本の著者になっています。相対性理論に限らず物理学の理論を片端から否定した内容の本を僕は見たことがあるのですが、それは大学教授数名の共著になっていました。ただ、おもしろいことに、というか当然のことながら、これら教授たちは理学部物理系の教授ではなく、まったく別の分野、たとえば文学部哲学科の教授でした。
 トンデモ本に現れるこうした「大学教授」という肩書きは、単に彼らの所属を表しているだけではないと僕は感じました。文脈から察するに、彼らはちゃっかりそれを自説の権威付けに利用しようとしているようなのです。窪田氏が自説を述べる際に大学教授との「共同研究」であることを書き加えるのも、単にそれが礼儀であるからだけではなく、権威付けの意図が隠されているように思います。
 実際、一般の読者のなかには、大学教授という肩書きを持っているなら、たとえそれが文学部哲学科の教授であっても、そうむちゃくちゃなことを書きはしないはずだ、と思いこむ人がある程度いると予想されます。工学部教授ともなれば、これはもう専門家ではないかと考えるかもしれません。そういう思いこみを、トンデモ本はたくみに、と言えるかどうかはわかりませんが、ともかく利用しているようです。
 さいわい僕は自分自身が大学の工学部の教員であるため、工学部教授といえどもたいていは相対性理論について素人同然であることを知っています。なにしろ、先ほど述べたように、僕はトンデモ本を借りるとき同時にちゃんと解説本も借り、あわせて読んだぐらいなのですから。同僚の教員たちにも、専門家といえるほどの知識を持っていそうなのはちょっと見あたりません。
 そういえば、テレビのクイズ番組に時々大学教授が登場します。彼らの正答率は、決して他の人よりも高くはないようです。(そういう僕自身も、そうほめられたものではありません)ああいうことは、大学教授という肩書きに一般の人が抱きがちな幻想を打ち消すのには、効果があるかもしれません。
 少し余談ぽくなりますが、「トンデモ本の世界」ではドクター中松の本も紹介されています。この人は、「トンデモ本の世界」の言い方を借りれば、”TVタレントかコメディアンと言う方が相応しい”人で、確かに少し前まではテレビによく登場していたように思います。(最近は見ないように思いますが)この人の本には、前書きに四ページにもわたって受賞歴や肩書きが羅列してあるのだそうです。受賞としては、世界発明グランプリで十一年連続グランプリ受賞、ニューオリンズ市名誉市民その他全十二都市の名誉市民、シカゴハイテク研究所天才賞! 肩書きとしては、国際発明協会会長、世界天才会議議長!などなど。(かってに作ってんじゃないの、とつっこみを入れたくなりますね)
 ドクター中松がどの程度の発明家であったのかは知りませんが、少なくともいまの著作物はまさにトンデモ本と呼ぶに相応しいもののようです。そして彼の肩書きへの執着は、肩書きというものが持つ権威のパロディーになっているように思えます。

[愛憎一体]
 「トンデモ本の逆襲」の「トンデモ物理学の傾向と対策」という章には「アインシュタインがジェラシい人々」という副題がつけられていて、冒頭近くに次のような一文があります。
「トンデモ物理学者のほとんどは、アインシュタインに愛憎一体となった、複雑な思いを抱いているようで、純粋に尊敬している人はまずいません(純粋でない尊敬はある)」
僕もその通りだと思います。あるいは、”アインシュタイン”という語を、有名な科学者、学界の権威、アカデミズムというような語で置き換えてもいいでしょう。愛と憎が混じっているから、あのように片方で否定し、他方で追い求めようとするのだと思います。
 窪田氏のような人は、おそらくアインシュタインのような有名な科学者にどうしてもなりたかったのです。自然科学の研究者ならだれでも、アインシュタインのようになりたい、と思ったことはあるでしょうし、たぶんそれは研究を行う上で必要なことでもあります。ただそうは言っても、自分が今やっていることや自分の能力のレベルを客観的に判定すると、アインシュタインとは大きな差があるとたいていは感じるのです。それで、”アインシュタインになりたい”という願望を、”自分の能力をできる限りレベルアップしたい”という努力目標に変えるわけです。しかし窪田氏のような人は、客観的な自己批判能力がないか、またはそれを圧倒するほど強いアインシュタイン願望を持っているのでしょう。レベルアップをする、という過程をとばしてしまって、自分はアインシュタインになったと感じてしまっているようなのです。
 そのような姿を見ると、科学者という職業が、少なくともある種の人々には、きわめて魅力的に映っていることがわかります。なにしろ彼らは、本物の科学者以上に、(有名な)科学者になりたいと強く願っているのですから。彼らの姿を見て正統な専門家たちはどう感ずるでしょうか。彼らの願望は単なる名誉欲の変形に過ぎない、と一蹴するでしょうか。たしかに名誉欲は大いに紛れ込んできていると思います。でも、そこにはもしかしたら、科学の世界に対するあまりに純粋すぎる憧れが、現れ出ているのかもしれません。そう考えると、敵意や反感だけでなくもう少し複雑な気分がわいてきそうです。

[権威者が書いたトンデモ本]
 次に関英男という人をとりげたいと思います。「トンデモ本の世界」にはこの人の書いた「高次元科学」という本が紹介されています。
「この人の提唱するのが『念波天文学』なるもの。通常の光や電波は秒速三十万キロでしか情報を伝えることができない。しかし、念波、つまりテレパシーは四次元の波なので、光より百億倍も速く伝わる(根拠不明)。だからテレパシーで宇宙を観測すれば、光や電波より正確に宇宙のことがわかる・・・というのだ」
というわけで、テレパシーで「大宇宙の権威者より、直接教えを受け」た結果、「中性子の形がゆがむとガンになる」、「陽子の形がゆがむとエイズになる」ということがわかったのだそうです。
 さらに、「太陽の表面温度は摂氏二六度」であり、その証拠に太陽の表面に住んでいる優良人類からたくさんのメッセージが届いている、と関氏は主張しているとのこと。
 これだけ読むと、この関氏は空想力豊かな楽しいおじさんのようでありますが、ややこしいことに、実はこの人は電気通信分野の権威なのです。東工大教授、電通大教授、ハワイ大学客員教授を歴任し、学会の功績章を受賞し、紫綬褒章なども得ています。電気通信の権威がテレパシー通信を言い出しているわけで、ちょっと頭が痛くなります。
 窪田氏はアマチュアの科学者であり、既存の学界の外にいて学界の権威を攻撃すると同時にそれに憧れていました。その憧れの強さが、彼にトンデモ本を書かせたのでした。それに対して、この関氏は学界の権威の中枢にいた人です。年をとってボケた、と言ってしまえばそれまでですが、もしかしたら、名誉も地位も手に入れたがことが、ある種の全能感を生んでしまったのかもしれません。

[学会誌の関論文]
 ただ、僕が関氏にからんで考えたいのは、権威者がトンデモな主張をしたという事それ自体ではありません。同様な例は、有名なテスラの例を初めとして、結構あるようなのです。誰が主張したにせよ、トンデモな内容の主張は、窪田氏の説と同じように、正統な学界からは無視または反論を受けることになるはずです。ところが、この関氏の主張はちょっと違った扱いを受けたのです。
電子情報通信学会という学会があります。三万人以上の会員をようする、電子電気工学系では日本最大の学会で、大学、企業の研究者や大学院生が加入しています。ちなみに関氏はこの学会の功績賞を得ています。その分野では非常に権威ある賞といっていいでしょう。
その学会誌の九五年一月号に、関氏の論文というか解説記事が載りました。題して「テレパシー通信」。内容は、念波速度は十の百乗センチメートル毎秒であるとか(光速は十の十乗の桁)、「何兆光年ものかなたには宇宙情報センターがあり、地球上のそれよりはるかに優秀な情報処理装置がわれわれの想像を絶するほど多数存在している」とか、先ほどのトンデモ本とまったく同様の説が展開されています。
学会誌の記事は、論文誌のように論文を書いた人が投稿するのではなく、編集委員会が企画し執筆者に記事を依頼します。したがってこの関氏の記事も、編集委員の誰かの提案に基づいて掲載されたと考えられます。この記事は「夢」という小特集の一編で、まあ編集委員の人は夢のような話として関氏の説を選んだのかもしれません。ただ関氏の記事は、この趣旨とはあっていません。技術開発における夢を語るとは、現在は不可能だが将来は可能になればいいな、という話をすることであって、実際特集の他の記事はそういう書き方をしています。その中に、いくら実現が不可能に思えることが出てきても、それは”トンデモ”という形容には当てはまりません。夢を夢と意識して語っているからです。ところが、関氏は夢を語っているという意識はまったくなくて、いま現実に起こっていることとしてテレパシー通信を書いているのです。
学会誌の編集に携わった人がそれに気づかなかったとは考えられません。にもかかわらず関氏の記事が掲載されてしまったのはなぜでしょうか。そもそも、関氏に執筆を依頼すると発案した編集委員は関氏がトンテモな主張の持ち主であることを知っていたはずです。だからこそ、「夢」を語らせようというアイデアを持ったのでしょうから。
結局、あの記事が掲載されたのは、関氏の学界における地位、権威のためであったと考えていいでしょう。アマチュアのトンデモ物理学者が同様の内容の論文を書いて学会の出版物に掲載を依頼しても、けっして受け付けられることはありません。この電子情報通信学会の体質に問題がある、と言ってしまえばそれまでですが、しかしこの学会だけの問題だとも言い切ることはできそうにありません。日本の正統な科学者研究者たちの中にもトンデモな人たちがけっこういて、そういう人たちが学会で敬われているのかもしれない、と思うと暗い気分になってきます。

[「トンデモ本の世界」の健全さ]
僕が「トンデモ本の世界」を読んで感心したのは、この本の著者たちつまり「と学会」の健全さというかまっとうさです。彼らは、著者の肩書きで内容の信憑性を判断したりはしませんし、おちょくり方に手心を加えるということもありません。ドクター中松や関氏の場合のように、肩書きはせいぜい笑いをとるためのダシに使われるぐらいなものです。
さらに、「と学会」の面々は正確な科学的知識を持っていますし、思考の論理性も確かです。そしてきわめてまじめです。「あとがき」には、彼らの次のようなマニフェストがあります。
「彼ら(トンデモ本の著者たち)の思想は間違いだらけだし、しばしば危険な内容を含んでいる。だが、決して彼らを弾圧すべきではない。弾圧は両刃の剣である。歴史を見ればわかるように、間違った思想が弾圧されるような時代では、正しい思想もまた弾圧されるのだ。言い換えれば、奇人たちがおおっぴらに活動できるということは、現代の日本がいかに自由な国であるかという証拠なのである。
では、氾濫するトンデモ本に対して、我々はどう対処すべきなのか?
 答えはひとつ。− 笑い飛ばすのである。」

僕はこのくだりを読んで、彼らの素直なまじめさに感動を覚えました。多くの人がこの本に対して拍手喝采したのも、彼らのこのような態度を高く評価したためだと言っていいでしょう。
なお、念のために付け加えますと、僕も電子情報通信学会員なのですが、僕の身の回りでは、あの関氏の記事は大爆笑でもって迎えられました。

[純真な疑似科学者]
 ところで、続編の「トンデモ本の逆襲」にも書いてありますが、トンデモ物理学者たちの活動は本の出版だけではなく、学会発表という形でも行われています。というか、本を書きそれを出版してくれる出版社を見つけるのは相当に大変な作業なはずで、それに比べれば学会発表の方がはるかに容易です。もっとも、発表内容に関して審査があるちゃんとした国際会議では、もちろん発表を許されることはありません。しかしどの学会にも、内容に関していっさい審査のない国内研究会がたいていあります。そういう場でならば、どんな内容でも発表することができてしまうのです。
 僕が大学院生の時、ある学会の研究会で毎年トンデモな内容の発表をする人がいました。その研究会は、年に二回行われ、数千人に参加者がある、その分野では中心的な研究会です。発表者は短い予稿を投稿し、それは審査を受けず全部そのまま予稿集に掲載されます。
 その人が初めて研究会に登場したデビュー作は、靴下の摩擦係数の測定でした。その予稿は文章が論文らしくなく、内容が研究らしくないものの、大間違いなことが書いてあるわけではありませんでした。ところが、そのうちに素粒子論や生物学がどんどん入ってきて、まさにトンデモな内容になりました。たとえば、アミノ酸の働きを電気回路で表すモデルとか、DNAの磁性モデルとか、細胞分裂をファインマン図形や磁性体の磁区生成と関連づけるモデルとか、回を追うごとにトンデモ度がアップしていきました。
 その人の予稿原稿は研究室内でいつも話題になり、学生の間で回し読みされていました。ただ僕は、学生の時には、研究会でのその人の発表を聞きに行ったことはありませんでした。たぶん、別の会場で行われている、自分の研究に関連した発表を一生懸命聞いていたんだろうと思います。
 発表を初めて聞いたのは大学に就職してすぐぐらいの頃でした。たまたま自分の専門の発表がそのときなかったのか、あったけれども聞こうとする熱意が減ったのか、そこらへんはよく覚えていません。会場で卒業以来会っていなかった研究室の同級生に会ったり、母校の大学の先生に会ったりしたのは笑いました。みんなその人の発表目当てで集まってきたのです。
 予稿であれだけ笑えるんだから、発表はさぞかしすごいことになるだろう、と僕は期待していました。僕はそのとき、ちょうどガードナーが要約したような人物像を、予想していたのだと思います。ところが実際は違っていました。その人は小柄で、眼鏡をかけ、農家の人の普段着のような服装をしていました。歳は五十歳台ぐらいでしょうか。壇上での態度はいかにも腰が低く、緊張しているというよりは、少しおびえているように見えたぐらいです。「私のような無学なものが」というような言葉も発表の中に出てきました。一生懸命に考えたけれども、私の考えたことは間違っているかもしれない、どうか意見を聞かせて欲しい。その人は、そう訴えていました。
 もちろん、発表のあと意見を言ったり質問をしたりする人などいませんでした。座長は「質問はありませんね、それでは次の発表・・」といった調子で、セッションを進行させました。
 その人は、まぎれもなく真剣でした。自分を天才だと思っているわけでもなければ、学界に敵意を抱いているわけでもありません。ただただ純粋に、自分が懸命に考えた理論を誰かに聞いて欲しいと思ったのです。私たちはこういう人に対してどのように接するべきなのでしょう。発表を聞いたあとに、僕は落ち込んだような気分になりました。それまで僕らは仲間でその人の予稿原稿を回し読みしては大笑いをしていたわけですが、はたしてそれでよかったのだろうかと、考え込んだのです。

[ステルスを発明した老人]
 トンデモ物理学者にまつわる話の最後に、トンデモ物理学者とは違うが共通点がまったくないわけではない一人の老人のことをお話ししたいと思います。
 ある展示会の会場で、僕はその老人に会いました。その展示会は産学交流を図るために市の商工会が毎年開催していて、展示を出すのは市内にある大学の研究室、見に来るのは地元の中小企業の方です。僕は、産学交流に熱心というわけではないのですが、たまたま大学でそういう関係の雑用をする部署と関係があったために、ある展示の店番に出かけたのです。
 まもなく展示会が閉幕するというときに、その老人は僕がいる展示のところに現れました。
「ステルス爆撃機を知っているか?」
こちらの展示など一切無視して、老人はそう僕にたずねました。小柄で、痩せていて、六十代後半ぐらいに見える老人でした。知っている、と答えると、彼はこう言いました。
「ステルス爆撃機は、わしが作ったんだ」
これを聞いて僕は、この人は若いときどこかの会社でステルスに少しだけ関係した仕事をしたのだろう、と思いました。機体のどこか一部の設計に携わったとか、機体表面に使われている材料の研究(またはそれに類似した物質の研究)に係わっていたとか、その程度の関係があったのだろうと。
 しかし、老人の話はしだいに異様な熱をおびてきました。
「いいか、あれはわしが作ったんだ。あれがあったから、アメリカは冷戦でソ連に勝った。ステルスを見て、ソ連帝国はもう自分たちに勝ち目はないと考えて降参した。それで冷戦は終わったんだ。だから、冷戦を終わらせたのはわしなんだ。わしがあれを作ったおかげで、冷戦が終わったんだ」
老人は、ソ連帝国の敗北とアメリカの輝かしい勝利の話をまだまだ続けようとしました。僕は、ほとんど無理矢理、質問を割り込ませました。
「では、ステルスの機体表面の材料は何なんですか?」
「いいか、ステルスを作ったのはわしなんだ。ところが、それをみんなトヨタや三菱に取り上げられてしまった。本当はわしが作ったのに、全部取られてしまったんだ。ひどい話だろ」
「ちょっと待ってください、材料は何なのか、教えてください」
「いまは時間がないから教えられん。あのな、わしが発明したステルスを、トヨタや三菱が取り上げたんだ。ひどい話だろ。おかげで、わしはいまでも結婚してない。な、信じられんだろ?」
展示会の閉幕の時刻が迫っているのは確かでした。僕も早く片づけを始めたいと考えてましたし、たぶん少し疲れてもいたのだろうと思います。僕は、胸と胸が合いそうなぐらい顔をぐいと近づけ「いいかげんなことを言うんじゃない」とすごみました。
 老人は、冷戦とトヨタと三菱の話を繰り返しながら、僕のところから離れていき、少し離れたところで別の相手をつかまえて話を続けました。つかまってしまった二人の方は、困ったように顔を見合わせ、老人を相手にしないことに決めたようでした。
 僕は、あのとき老人に対してはっきり怒りを感じていました。しかしその怒りを老人に対して表に出してしまった後、僕は実にいやな気分におそわれました。あの老人の言葉は間違いなく嘘ですし、展示会の場であのような話をして歩くというのも迷惑な行為ではあります。でも、僕は自分の怒りが、どこか間違ったものであるように感じたのです。
 老人は、確かにあの場では迷惑な存在でしたし、口調も横柄でした。相手をしている人間が不快になるのは、まあ当然と言っていいと思います。それに僕は、自分はエライんだと吹聴しないでは気がすまない人間が嫌いなのです。そういう人間を見ると、おまえは決してエラクないと、知らせてやりたくなるのです。
しかし世の中には、自分が偉大な技術者であると思い込むことが、人生の唯一の支えになっている人もいるかもしれません。あるいは、偉大な科学者になりたいという願いが、最大の生きがいである人もいるかもしれません。そうであるとき、たとえ彼らの主張がことごとく事実に反しているとしても、それを冷徹に否定してしまってよいのでしょうか。
正直なところ、僕にはよくわかりません。