[交通機関]
 たとえば交通機関を考えましょう。自動車、列車、航空機などの交通機関は私たちの生活になくてはならないものです。もしこれらがなくなったら、私たちの生活は大きな不便を被ることは間違いありません。それなら、そうした交通手段がいっさいなかった未開の社会では、人々の不便、不幸は大変なものであったでしょう。
 いや、そうではありません。彼らは確かに、私たちのように長い距離を移動することはできませんでした。しかし、そのことは彼らにとって不便でも苦痛でも何でもなかったのです。なぜなら、彼らはそもそも長い距離移動したいと思わなかったからです。たとえば彼らが何百キロか離れたところへ行きたいと感じることはあったか、といえば、間違いなく、そんなことは一度もなかったはずです。第一、その必要がありません。それに、何百キロ先がどうなっているかなんて、彼らは知りません。まさに
「人々は知ることもできないものを少しも欲しがりはしない。」
のです。彼らは自動車や飛行機が欲しいと感じることはありませんでした。なぜなら、そのような技術の存在を彼らは知らないからです。したがって、彼らは”遠くへ行きたい、けれども行けない”という欲求不満に悩まされることはありえませんでした。つまり、”遠くへ行きたい”という人間の欲求は、交通手段が未発達な時代にはなかった、交通手段が発達して初めて生まれてきたものなのです。

[海外旅行と宇宙旅行]
 未開人の話はあまりにかけ離れていると感じられるかもしれませんので、時代をうんと下って、海外旅行のことを考えてみましょう。今の私たちは、飛行機を使って簡単に外国へ行くことができます。海外旅行が趣味で、毎年一、二回は行かないと気がすまない、という人はたくさんいます。ところで今から数十年前、航空機は今のようには発達しておらず、海外に行く人はまれでした。ではその当時の人は、海外旅行ができないという欲求を持てあましていたかというと、そうではありません。ほとんどの人は、海外に行かないのが普通だと思っていました。漠然と外国に行ってみたいと思うことはあっても、それが今のわれわれのように切実な欲求になることはありませんでした。まあごく一部のエリートは江戸時代でも海外に行きたがってはいたでしょうが、一般の人々は誰もそんな欲求は持っていなかったに違いありません。
 それが、航空機が発達し、外国に簡単に行けるようになると、人々は外国に行きたいという欲求を持つようになりました。これには他人の影響もつけ加えていいでしょう。隣近所の人が、あるいは同級生や職場の同僚が海外旅行に行くと、自分も行きたくなる。こういう心理は、ほとんどの人は経験があるでしょう。このように海外旅行の欲求が私たちの中に作られていき、お金がない暇がないから行けない、という欲求不満もまた生まれてきたのです。
 話を未来に広げますと、いま私たちは宇宙旅行をしたいという切実な欲求はもっていません。漠然と、地球を宇宙から眺めてみたい、とか、月の上を歩いてみたい、と思うことはありますが、それができないからといって欲求不満に苦しむことはありません。数十年前の一般の人たちにとっての海外旅行は、ちょうど私たちにとっての宇宙旅行のようなものだったでしょう。ところで、ご存じと思いますが、いま一般の人を乗せた宇宙旅行を真剣に計画している人たちがいます。今から数十年後には、大気圏の外へ出る体験をする人が、けっこう出てくるかもしれません。そうなったときに、私たちは、”まだ大気圏の外へ出たことがない”ということを不満に感ずるようになるのでしょう。技術の進歩が、今は存在しない、新たな欲求不満を生み出すのです。

[自家用車というモノ]
 交通手段のなかでも、どうしても自動車、とりわけ自家用車のことは特別に取り上げないわけにはいきません。なぜなら、今の社会では自家用車というのは単なる移動の手段ではない、特別な存在になっているからです。特別である理由は二つあります。
 第一に、自家用車はそれを運転すること自体を喜びにしている人が非常にたくさんいます。ようするに、単に目的地へ向かう移動ではなく、楽しみとしてのドライブをする人がたくさんいるということです。他の交通機関についてもそのような楽しみ方をする人はいないわけではないですが、例外的な少数です。しかし自家用車の場合は、運転する喜びが購入の重要な動機の一つになっている人が、絶対的な多数をしめます。
 そのような人たちは、運転したい、とか、スピードを出したい、人によっては大きな音を出したい、という欲望を持っているわけですが、もちろん、このような欲望は自動車がなかった時代には存在しなかった欲望です。つまり自動車が発達したことによって新たに作り出されたものです。
 第二に、自家用車(クルマ)は、その持ち主がどういう人間であるかをアピールする役目も負わされています。高級車に乗っている人は収入、あるいは社会的地位が高いひとである、(もしくはそう見せたがっている人である)と一般に見なされます。社会的地位が上がるにつれクルマを買い換える、という人は多いようです。あるいはまた、スポーツ車に乗る人も、それによって自分の性格のある部分を強調して表そうとしている、と言っていいでしょう。したがってクルマを買うとき、人は値段や自動車としての性能を考えるだけでなく、”このクルマはどのようなクルマであると人から思われているか”を考えているでしょう。もっと言うと、”このようなクルマに乗る自分はどのような人間だと人から思われるか”、を考えているはずです。
 以上のような欲求に動かされて、人々はより高性能なクルマを求め、それに応える形で自動車メーカーは新しいクルマを開発します。しかし、欲求はそれで解消されません。人々は、より一段高いレベルで”走る喜び”なるものを求めるようになります。向上した性能が一時快感を与えたとしても、やがてそれが当たり前と感じるようになり、しだいに不満を感じるようになるのです。あるいはまた、より一段高いレベルで、お互いにクルマの性能を競い合うようになります。自分が高性能なクルマを手にすると同時にいわばライバルたちも同様の高性能なクルマを手に入れるのですから、競争は終わりません。こうして、欲求不満と満足のいたちごっこが繰り返されます。

[自動車は必要か]
 今の社会では自動車の運転免許は必要不可欠なものだと思われています。僕が二十歳ぐらいの頃、親を含め何人もの人からそう言われました。たしかに自動車の運転ができないと不便な場合はあります。
 しかし、その不便ということをもう少し考えてみましょう。たとえば、今日本の各地で、古くからあった市街の商店街が廃れ、代わりに郊外に大型の店舗ができています。この現象が起こってしまうと、自動車を運転できない人は買い物をする際に相当な不便を被ることになります。自家用車があればその不便はもちろん解消されますが、その不便を解消するため自動車が普及した、というのは間違っています。まあ、全くの間違いということはないでしょうが、少なくとも、その逆の方がより正しい見方でしょう。明らかに自動車の普及の方が先なのです。つまり、郊外に店舗が増えたから自動車が普及したのではなく、自動車が普及したからこそ郊外に大型の商店ができ、その結果市街地がさびれてきたのです。これはどういうことかというと、自動車が必要になったから自動車が普及したのではなく、自動車が普及したから自動車が必要になったのです。
 一部の大都市をのぞけば、日本の至る所で自動車の普及に伴って鉄道やバスなどの公共の交通機関が廃れてきました。本数が減り、路線が減り、料金も相対的に割高になりました。その結果、ますます自家用車あるいは自動車免許なしでは生活が不便になってきています。これは、たとえて言えば、移動の手段を手に入れたために身体の機能が衰えてしまった人間のようなものです。新たな、ちょっと贅沢な移動の手段(自家用車)を使い始める、それが贅沢ではなく当たり前になる、そしてそれまで使っていた機能(公共の交通機関)が衰えてしまい、新たな手段に依存しなければ生きられないようになる。ルソーの言う「習慣が欲望を作る」ということが、社会全体で生じているのです。
 ところで、二十歳ぐらいの頃(いまから二十年ぐらい前です)運転免許をとるように人から何度も進められて、それで僕はどうしたかというと、結局免許はとりませんでした。ちょうどそのころ、僕はルソーのこの「人間不平等起源論」を読んでいます。もしこれを読まなかったら、他の同世代の人たちと同じように、免許をとっていたかもしれません。

[公害、交通事故]
 僕はこれまで、自動車が人間に与える不幸について語ってきました。ただ、それはもっぱら、自動車が人間の欲望をかきたて、欲求不満を生じさせる、という側面からでした。これはつまり、ある人の欲望がその人自身を苦しませる、ということです。しかし欲望が人を苦しめるもう一つの苦しめ方についても、もちろん考えなければなりません。それは、ある人の欲望が別の人を苦しませる、という苦しめ方です。
 それがどういうことかは、おわかりだと思います。たくさんの自動車が走ることで、排気ガスや騒音による公害が発生し、また二酸化炭素の増加による温暖化も引き起こされています。また、交通事故が多発して多くの人が傷つき亡くなっています。
 僕がこうしたことを後回しにしたのは、しかもそれほど詳しくふれないのは、これらの問題が深刻ではないからでは決してありません。これらは、私たちの社会で、もっとも差し迫った問題のひとつです。ただ、その問題の深刻さはすでに広く認識されて、いまも様々なメディアで取り上げられています。ですから、ここではその具体的内容に立ち入ることはしません。
 ただ、どうしても考えてもらいたいのは次のことです。自動車が公害や交通事故という明らかなマイナス面を持ちながら、なおかつ今の社会でなくてはならないものだと認識されている理由は、マイナス面を上回るプラス面があると認められているからです。そのプラス面とは、ようするに、人々が日々の生活の中でそれを必要としている、ということです。しかし、自動車少なくとも自家用車は、本当は必要ではないのではないか、ということを僕は先ほどまで主張していたのです。
 だとするなら、自家用車がこの社会に生み出しているものは、人々の欲求不満と公害環境問題と交通事故というマイナス面だけです。一時の快適さなり快楽を使用者に与えていることも確かでしょう。しかし、それは自動車の存在それ自体が作り出した欲求不満を埋め合わせているに過ぎないのです。

[情報革命]
 いままでは自動車について批判をしてきましたが、同じような視線を身の回りにあるもの向けてみれば、次々、槍玉にあげるべき品物が見つかります。
 たとえば携帯電話。ご存じのように、今もっとも急速に発展している技術分野だと言っていいでしょう。数年前は携帯電話など持っている人はあまりいませんでした。それが今では、普通の電話の利用者をいずれ追い抜こうかという勢いで増えています。(もう追い抜いているのでしたっけ)
 携帯電話がときに非常に便利であるのは確かです。また、ある種の職業の人、たとえば営業の人など、にとって重要な働きをするということも理解できます。しかし今の携帯電話の使用頻度は、その範囲をはるかに越えています。必要に迫られて、というよりは、話したくなったから、かけてみたくなったから電話をかけるという傾向が強いのです。
 実際に使っている人は、毎回、使う必要が生じたから使っているのだと言うかもしれません。それはそうなのだろうと思います。しかし、考えてみてください。携帯電話がなかったとき、僕らはこれほど頻繁に離れた他人と会話をしたいと感じたでしょうか。むしろ、(僕らの社会が)携帯電話を手に入れた瞬間から、離れた他人と話す必要を、それまでよりはるかに頻繁に感じるようになったのではないでしょうか。
 同じようなことがインターネットにも言えます。これからはネット上の情報を使いこなさなければいけない、というような識者のセリフをあちこちで聞くようになりました。そして、いち早く使用を始めた仲間が、そのセリフを身近で再生産します。その結果私たちは、インターネットを使わなければいけない、少なくとも使うことができなければいけない、という義務感あるいは強迫観念を持つようになってしまいました。こういう意識は欲求不満の一変種、というべきかもしれませんが、与える苦痛の大きさからいえば、もっとたちが悪いかもしれません。もともと情報を得たいと感じていなかった人が、情報を得たいという意識を通り越して、情報を得なければいけないと思いこむようになっているのです。

[パソコン]
 ついでにパソコンについてもふれておきましょう。パソコンの普及も、当然ですが、インターネットと同じように批判的に考えることができます。人々のパソコンに対する欲求とも強迫観念ともつかぬ意識についての説明は、もうあえて繰り返す必要はないでしょう。僕がここであえてつけ加えたいのは、パソコンの性能についてです。
 ご存じのように、パソコンの性能は急激に向上しています。処理速度の点でも記憶容量の点でも、仮にその時点で最高級機種を買ったとしても、一年もすれば、新しく出た機種と比べずいぶん見劣りするようになってしまいます。しかし、一般の、趣味でパソコンにさわっているだけの人たちに、そこまで高度な性能が本当に必要なのでしょうか。
 困ったことに、ある意味で、本当に必要なのです。実際に新しい高性能の機種を使わないと、どうにも使い勝手が悪い事態に、たびたびでくわすのです。その理由はソフトウエアにあります。新しいパソコンの機種が発売されるのと歩調を合わせて、ソフトウエアの新しいバージョンが発売されます。そしてその新しいバーションは、新しい機種のパソコンでなければ、快適に使えないように作られているのです。もちろんソフトウエア会社は、新しい機能を増やしたために動作が"重く"なってしまった、と言うでしょう。しかし大抵のユーザにとっては、それら新機能は滅多に使わないものであったり、余計なお節介であったりするのです。結局、新しいソフトにした結果、重くなった分だけ作業効率が落ちる、といったことが起こってしまいます。
 いや、新しいソフトが重いのは、新しい機能の追加とは何の関係もない、あれは実は、新しいパソコンが欲しくなるようにしむけるため、わざと処理の効率を悪くしているのだ、と信じている人は現にたくさんいます。
 おまけに、新しいバージョンで作ったファイルは、たとえ新しくつけ加わった機能などひとつも使っていないとしても、古いバージョンでは利用できなくなります。したがって、ファイルを共有して利用しているグループで、ひとりの人が新しいバージョンを使い始めると、やむなく他の人もそれを使うようになります。
 これはまるで、今まで幾度もふれてきた、「欲求不満とそれを満足させる技術の進歩とのいたちごっこ」の象徴というか戯画です。ソフトウエアが私たちの欲求です。欲求が肥大化し、より高性能な機械を必要とするようになると、それに応える機械が実際に開発され、普及し、それをきっかけに欲求が次の肥大化を始めるのです。

[私たちにとっての価値]
 自動車や情報機器は代表的で、典型的ではありますが、二つの例に過ぎません。身の回りのほとんどの商品、いいかえればほとんどの科学技術に、同様な批判的考察をすることができます。商品によっては、欲求不満をかき立てようにも、いよいよ限界に達してきているものも少なくありません。たとえば、衣類の生地を自動的に判別し、洗濯の強さを自動的に設定する洗濯機というのがあります。僕自身の洗濯経験から言っても、このようなバカげた商品というか技術が世に現れる前に、洗う強さを自動的に設定してくれる洗濯機があったらいいなと望んでいた人がいたとは考えられません。もちろん、洗濯機自体の効用は大きいと認めます。洗濯機の普及によって、それまでは何十分もかかっていた作業が、簡単なボタン操作だけでできるようになったわけですから。しかし、生地を自動で判別する装置によって省略できるのは、わずか数秒のスイッチ操作です。それによって人間の幸福が増すとは、とうてい信じることはできません。
 結局その機能は、他機種との差別化を図るためだけに開発され、導入されたのです。その機能が付いた機種を買う人は、スイッチ操作が省略できるメリットからではなく、他よりも高級な機種を買ったという満足を得るために、それを選んだのです。
 このような商品が乱発されることで、私たちの感性というか価値観がますます混乱してきて、その結果何が本当に必要なのかわからなくなっているように思います。もう一つ例をあげますと、最近、抗菌グッズというのがはやっています。ペン、食器、壁その他色々な生活用品が、表面に抗菌作用を持たせる処理を施して売られています。しかし、ペンを介して、あるいはトイレの壁を介して病気が移ったという話は聞いたことがありません。人が使ったペンは汚いと感じている人は、たしかに以前からいたことはいたのでしょうが、それは”手垢が付いていて汚い”というような感覚であって、”細菌がついていて汚い”という感覚ではなかったなずなのです。ところが、にもかかわらずさまざまな抗菌グッズが作られ、それが人気商品になるのです。ということは、いままでペンや取っ手を”細菌がついていて汚い”と感じることなどなかった人たちまでが、抗菌グッズの発売をきっかけにそう感じるようになり、それで抗菌処理を施した商品を選ぶようになった、と考えられるのです。このとき人々は、自分の元々持っていた感性や科学的客観的判断基準に従って行動しているのではありません。むしろ商品情報に誘導されて、物事を感じ、考え、生きていると言えるでしょう。

[研究者の価値感]
 消費者である私たちの価値観だけでなく、商品を開発している研究者技術者の価値観も問う必要があります。先ほど、自動的に生地を判別する洗濯機の話をしました。考えてみれば、自動的に生地の種類を判別するなんて、なかなか高度なセンシングおよび情報処理技術です。優秀なセンサー技術者やプログラマーがその開発に携わったに違いないのです。そのとき彼らの意識にあったのは、消費者のニーズに応えたいという願いであるよりはむしろ、なんとか他社の製品との差別化を図りたい、セールスポイントを設けたいという意図だったでしょう。
 これまで取り上げた自動車にしても携帯電話にしても、それぞれの技術分野における最高の技術が投入されています。数多くの優秀なエリート研究者が、日夜、新しいモデルの開発に大変なエネルギーを使っているはずです。そのとき、彼らの頭の中にあるのは、人々のニーズに応えるというよりは、新しいニーズを作り出すという意識ではないかと思います。実際、巨大なヒット商品は、"新しいニーズを開拓した"という言い方で、賞賛されるのです。これは言い換えれば、研究開発は人々の中に欲望を生み出すため、あえて言えば人々の心に欲求不満を生み出すために、進められているということです。
 研究者の意識については、ここではこれ以上立ち入らないことにします。別の本について紹介するときに、あらためて、メインテーマとして取り上げる予定です。

[身体の衰退]
 ところで、抗菌グッズのような商品は、私たちに無用な欲望を呼び起こすだけではありません。本来の目的とは逆に、私たちの健康に害を及ぼす可能性があると言われています。なぜかといえば、私たちがいままで持っていた抵抗力が弱まってしまうからです。私たちは生まれ落ちてから、いろいろな細菌にさらされます。その環境に適応する過程で、免疫機能が発達し、抵抗力がつきます。私たちの身の回りに普通に存在する菌は、それほど悪性な菌ではありません。それらをいわば練習台にして、免疫機能が鍛えられていくと考えられます。ところが、身の回りからあまりに菌を排除してしまうと、その練習過程がなくなってしまい、抵抗力が鍛えられないことになってしまいます。したがって、ひとたび身の回りに悪性の菌、たとえば最近問題になっているO157のような菌がはびこり出すと、抵抗力が弱い分、以前よりもひどい症状が現れることになってしまうのです。
 楽をするための新しい手段を次々と生活に取り入れることで、人類は「自分の肉体と精神とを軟弱にし続け」てきた、とルソーは現代社会を非難していました。抵抗力の低下も、特殊な例ではありますが、技術の進歩が私たちの身体を軟弱にしてしまう一例といえます。
 もっと一般的な例が、冷暖房です。本来私たちの身体には、気温の変化に適応する能力が備わっています。暑くなれば汗をかきますし、寒くなればエネルギー代謝のレベルをあげ、気温が相当変動しても、身体の中心部の体温を一定に保つことができます。ところが、冷暖房が発達しすぎて、年間を通して居室の気温があまり変わらないようになったため、その適応能力が衰えてきているのです。適応能力は他の肉体的能力と同じく子どもの時期に発達するため、特に赤ん坊の時にはある程度の気温変動を経験させた方がいい、という専門家の忠告まで聞かれるようになりました。
 実は、"衰えている"どころではない、今の日本ではその適応能力がゼロを通り越して逆方向に働き始めているのです。とある調査によると、日本のエアコンうち半数以上は暖房運転時で25℃以上の温度に設定されているそうです。25℃とはどういう温度かご存じでしょうか。気象用語では、最高気温が25℃を超える日を「夏日」と呼びます。日中の平均気温が25℃になるのは梅雨の晴れ間か秋口の残暑の日です。要するに25℃は夏の気温なのです。たとえば9月に毛糸のセーターや厚地の上着を着ている人はいません。もしそういう服装をしていたら、たぶん病気だと思われるでしょう。しかし冬になると、9月の温度の空間にそういう服装をして平気な健康人がたくさん現れます。
 つまり、寒い冬の季節に、寒さではなく暑さに対して適応能力を働かせている人たちが確実にいるのです。なぜこのようなばかげたことが起きるかというと、寒いときに暖房をつけたり強めたりは誰でもするのですが、しかし十分暖かくなったときにそれを弱めたり消したりする人があまりいないのです。そのため、気温は暑すぎるぐらいの温度まで上昇する。ところがやがて体はその暖かさになれ、常にその暖かさを要求するようになります。

[不平等の拡大]
 このように、習慣や他人との比較がもとで生み出された欲求に応えて商品やサービスが生産され続けると、大きな不平等が生まれます。ある商品なりサービスなりが、それを本当に必要としている人のところへ優先的に供給されるなら、不平等は減っていきます。しかし、本当の必要性とは何の関係もない欲求を作りだされ、それに応える形で商品やサービスが開発され、供給されるなら、不平等はますます拡大せざるを得ません。食べ物が、飢えて死にかけている人のもとに優先的に届けられるなら、食物供給における不平等は減っていくでしょう。しかし、美食ブームが作り出されて、その中で高価な食材が消費されていくなら、貧しい人たちの食べ物の貧しさと、豊かな人たちの食べ物の豊かさとは、ますます差が開いていくのです。
 これまでにとりあげた商品というか技術のどれをとっても、そのような現象は生じています。たとえば、いま情報技術(IT)の進歩が大声で言われる一方で、digital divideという言葉もしばしば新聞の見出しになるようになりました。インターネット等の普及で、先進国では人々はこれまで以上に豊富な情報を手に入れることができるようになりました。その一方で、世界には電気も電話も通じていない地区がたくさんあります。そのような地区に住む人たちにとっては、インターネットも情報技術革命もまったく縁のない、無意味な単語に過ぎません。
 日本では、携帯電話が本当に爆発的に普及しました。携帯電話というのは、本当に高度な技術です。膨大な数の研究者、技術者がその開発に携わり、ばく大な研究費が費やされました。また、それを一般の人たちに普及させるにあたっても、巨額の投資がなされました。その結果が今のこの状況です。ところが、発展途上国では、普通の電話の普及率がいっこうに上がらないのです。中進国と言われる国でさえ、こちらからファックスを送ろうとするとなかなか回線がつながらないということがあります。結局それは、発展途上国の人たちのために、安くて簡便な通信手段を開発しようとする研究者など、ほとんどいないためです。あるいは、発展途上国の人たちのために、大きな資本を使おうとする組織も個人も存在しないからです。
 同じことがあらゆる分野で起こっています。先ほど暖房の話をしました。世界には、本当に冬の寒さに凍え、命を落とす子どもや老人も数多くいます。一方日本では、寒いはずに冬に、暑さに耐えている人がたくさんいます。主観的には暑さに耐えているとは感じていないでしょうが、そのことは事態の異常さをよけいに際だたせています。また、清潔な水が手に入らないために、乳幼児がたくさん命を落としている地域があります。人間の持つ抵抗力を最大限発揮し、それでもなお感染に打ち勝つことが容易ではない環境にたくさんの人が生きているのです。それなのに日本では、まったく必要がないところで抗菌処理を多用し、その結果、持っていた抵抗力をむざむざ衰えさせるということをしている。あるいは、飢えて死ぬ人がいる一方で、栄養の取り過ぎで病気になる人がいる。あるいは、ぼろぼろのバスや鉄道に人があふれている国もあれば、高価な新車が毎年何百万台も売れる国がある。
(念のためつけ加えておきますと、本のタイトルにある「不平等」はこのような型の不平等を指しているのではなく、主に従属の関係のことを指していると思われます。でも、すぐ後で紹介するように、この不平等も、ルソーの視野には間違いなく入っていました。)

[再びルソーの言葉]
 ルソーはこのような事態を完全に予測していたようです。このような事態はルソーの時代にもやは始まっていたということなのでしょう。
「農業はその本来の性格からいって、あらゆる技術のうちでもっとも利益の少ないものでなければならない。なぜならば、その産物はすべての人間がどうしても使わなければならないものであるから、その価格はもっとも貧しい者でも買えるぐらい低く押さえられなければならないからである。そのおなじ原理から次のような規則を引き出すことができる。すなわち、一般に技術はその有効性に反比例して利益があるものであって、もっとも必要なものが結局もっとも顧みられなくなるに違いない」
 ここで「農業」とあるのは、"人間の生活において普遍的に必要なものを作り出す産業あるいは技術"、と言い換えてもいいでしょう。すべての人間に必需な商品やサービスは安くなければならない、なぜかというと、貧しい人でもそれを買うことができなければならないからです。その逆に、一部の豊かな人が買うための商品は、安くある必要はないし、実際値段を高くできるのです。たとえば、同じ農業でも、人が生きていくのに必要なカロリーを供給する穀物は、世界的には、非常に安い値段になっています。(私たちから見て、"安い"ということですが)一方、お中元に使うメロンのような贅沢品の農産物は、非常に高価な値が付いています。
 これまで僕が取り上げてきた商品や技術は、あきらかに、豊かな人たちのためのものです。だからこそ値段を高く設定することができ、したがってもうかるのです。私たちの社会では、もうかる仕事にはいくらでも人が集まり、お金が集まります。ただし、豊かな人たちはすでに満ち足りている人たちですから、何かを売るためには新たな欲望を作り出さなければいけない。それで、売る側は一生懸命新しいニーズすなわち欲求不満を作り出そうとします。こうして、欲求不満とそれを満たす技術開発の際限ない繰り返しが起こってくるのです。
 逆に、貧しい人のための商品や技術、言い換えれば人間にとって最低限必要な産業は、貧しい人が商売の相手であるために、値段を高くすることができず、したがってもうからない、だからそこにエネルギーが注がれることはないのです。
 そうは言っても、私たちの資本主義社会は、もうかることをすることによって成り立っている社会だ、だから、社会を成り立たせ動かしていくためには、いまのやり方でやむを得ないのだ、と思うでしょうか。しかしこれは、ルソーが提出した問題あるいは批判への回答にはなっていません。なぜなら、この本の中でルソーは、そもそも「社会」が人間にとって必要であるのかどうかを問題にしているからです。社会が本質的に人間にとって不要なものであるとしたら、社会を維持するために不可欠だということなど、正当化の理由にはなり得ないのです。
 ルソーの上の言葉は、資本主義批判のようにとることもできます。しかしだからといって、ルソーが共産主義者社会主義者だというわけではないでしょう。無用な欲求不満を作り出している資本家や技術者・研究者の責任はもちろん問われなければならないでしょう。しかし、資本主義という制度があるから不平等の拡大が起こる、というのではなく、人間あるいは人間集団の心理的な性質が不平等の拡大を生み、その結果生まれたのが今の経済システムだと、ルソーは言っているように僕は思います。

[科学技術がもたらしたもの]
 科学技術の発展が、人間に不幸と幸福のどちらをより多くもたらしたのか、私たちは考えてみる必要があります。科学技術が満足を与えているのは、世界の中の一部の人たち、具体的には先進国に暮らす人たちだけであって、しかも、満足が得られるまでの欲求不満をも当の科学技術が生み出しているのではないか。先進国では、欲求不満とそれを満足させる技術開発の無限ループが回り続け、途上国の人たちはそのサイクルとは無縁に取り残される。一方で、環境問題は確実に深刻になっていく。
 差し引きするなら、科学技術は不幸をより多く生み出したのではないでしょうか。憂鬱な結論ですが、ルソーのこの本が僕らを導いていくのはそういう結論なのです。このような収支決算になる最大のポイントは、繰り返しになりますが、科学技術の与える満足が実はそれ自体が生みだした欲求不満の穴埋めに過ぎない、という認識です。ですから、科学技術の偉大な勝利だと思われていたものが、差し引きプラスマイナスゼロの地点まで引き下げられてしまうのです。そして後に残るのは、拡大した不平等であり、環境問題です。
 とある本に、次のようなことが紹介されていました。1999年の文部省の「国民性調査」では、約7割の人が現状に「不満」「やや不満」と答えたそうです。そして現状に満足の人の割合は、調査が始まった1960年代から増えていないのだそうです。この四十年のあいだに科学技術がどれほど進歩したか、考えてみてください。1960年代、自家用車を持っている人はまれでした。性能も今の自動車とは比較になりません。テレビもまだ普及途中で、もちろんすべて白黒でした。電話もまだ一部の家にしかありませんでした。パソコンもインターネットも携帯電話も、当たり前のことながら影も形もありませんでした。そして、エネルギー消費量は現在のわずか三分の一だったのです。しかし、それでも現状の生活に対する満足度は、現在と同じであったのです。
 なお、その"とある本"とは、高木仁三郎さんの本です。このシリーズの最後にこの方のことを紹介します。

[では私たちは何をすべきか]
 では私たちはこれからどうしたらいいのでしょうか。仮にすべての技術が等しい量の欲求不満と満足を作り出したに過ぎないのだとしても、いまからそれらをすべて捨て去ることは私たちにはできません。当たり前のことですが、科学文明が生まれる前の原始時代に放り出されたら、私たち(のほとんど)はとても生きてはいけないでしょう。
 すでにお話ししたように、ルソーは自然状態を理想の姿だと考えていましたが、しかし自然状態に戻ることが可能であるとは考えていませんでした。ただ、自然状態を基準に置いて考えることで、今のこの社会の問題点を明らかにし、どう改善していくべきかを見極めようとしたのでした。ですから私たちも、現在の社会や科学技術文明を破壊しようとするのではなく、科学技術がこれから進む方向をどう軌道修正すべきかを考えなければいけないはずです。  私たちがまずすべきことは、欲求不満とその解消という無限ループを止めること、輪をどこかで断ち切ることに違いありません。消費者としての立場では、私たちは自分の欲求不満をコントロールする必要があります。単に回りの人間が使い始めたというだけの理由から、新しい技術に飛びついていないかどうか。少し暑いぐらいの温度で、夏の冷房は止めているか。少し寒いぐらいの温度で、暖房は止めているか。そのようなチェックをして、「他人」や「習慣」によって欲望がふくれあがるのを防ぎ、あの不毛なループを、欲求不満の側で切断しなければなりません。
 単純なことです。だが実行は難しい、と思われるでしょうか。そうかもしれません。しかしその一方で、実はこれは意外と簡単なことではないかとも、僕には思えるです。その方法は、先程述べたような途方もない不平等に思いたすことです。十分な燃料が手に入らず凍え死のうとしている人の姿を思い描きながら、暖房の設定温度を際限なく高くすることはできないはずだと、僕は信じたいのです。
 一方、研究者技術者の役目は、不幸を減らす技術の開発に力を注ぐことです。”幸福を増やすより不幸を減らすべき”というのが、ルソーの主張から導かれるモットーだとお話ししました。しかし今までこの社会での科学技術は、もっぱら幸福な人たちの幸福を増やすことを目的に発展してきました。いまも研究者たちは、自分の手がけている技術はいずれ先進国の人々に使われることになるとイメージしているでしょう。しかしこれからは、研究者は発展途上国の人々に使ってもらうことを目標に、研究開発を進めるべきだろうと思います。すでに十分安楽な生活を送っている人たちの暮らしをもう少しばかり安楽にするよりは、多くの苦しみを抱えている人たちの暮らしを少しでも楽にすることの方が、研究者の仕事としては、はるかにやりがいがあるはずです。