ルソー「人間不平等起源論」


[古典を読む]
 それでは一冊目、いきなりルソーから始めたいと思います。ルソーという人は、高校の時に世界史と倫社政経で習ったように、民主主義の論理的な基礎を築いた、18世紀フランスの思想家です。でも、こう説明していますが、本当は僕もルソーが17世紀の人なのか18世紀の人なのか、実は覚えていませんでした。この話をするために、この本「人間不平等起源論」の解説を見て、ああ18世紀なのかと確認した次第です。
 高校の試験、あるいはセンター入試のお勉強では、ルソーといえば「社会契約論」あるいは、ルソーといえば「自然状態」と覚えます。そうやって覚えた知識は、たいてい試験が終わるとすぐに頭から消え去ってしまいます。
 でも、世界史や倫社政経の教科書で習った古典的な本を、実際に読む機会などほとんどないのが普通です。これは仕方がないと思います。大学で専門に勉強するなら別ですが、たとえば理系の学科に入ってしまったら、なかなかそんな本まで読もうという気になるものではありません。仮に哲学や社会科学に興味を持ったとしても、解説書や何々新書あたりから読み始めるのが普通で、原典ともいうべき書物に手を出すところまではいきません。実際、僕だって教科書に出てくる哲学や社会科学の古典のなかで読んだことがある本といえば、まあ数えるほどです。
 ただ、数えるほどでも読んだことはあるのです。なぜ読む気になったかというと、たぶん大学の日本国憲法の講義で、先生が言った言葉に多少影響されたためではないかと思います。その先生は、何百年も読み継がれるような本には、それだけの内容が必ずある、と言いました。そして、現在のいろいろなものの考え方の基本は、もうそうした本の中にほとんどすべて書かれているのだ、とつけ加えました。
 繰り返しますが、僕は古典的な書物をたくさん読んだ経験はありません。それでも、数少ない経験から言って、この憲法の先生がおっしゃったことはたぶんその通りなのだろうと想像がつきます。
 たとえば、いまから十数年前、「パパラギ」という本が少しはやりました。いまでも本屋さんで見かけますから、ちょっとしたロングセラーになっている本と言っていいのでしょう。この「パパラギ」という本は、どこかの未開の島から来た人物が書いた現代社会批判ということになっています。でも、僕はそれを読んだとき、これはルソーの「人間不平等起源論」を読んだ現代西欧人、つまり先進国に暮らす人間が、未開人のふりをして書いた本にちがいない、と思いました。
 事実はどうかは知りません。僕が言いたいのはどういうことかというと、ルソーが示した概念(この場合、「自然人」という概念)が、ものの考え方、見方のひとつの典型になっている、ということです。その典型に沿った考え方は、ルソーの時代以降、ほとんど無数の文章の中に繰り返し現れてきたのだろうと思います。
 これも僕の限られた経験に基づく感想ではありますが、古典的な思想書で示されている概念はたいてい単純明瞭です。そのものズバリ、という感じです。この「人間不平等起源論」の議論にも、乱暴とも思えるぐらい大胆なところがあります。でも、だからこそ、見方考え方の基本的なパターンとして、繰り返し使われてきたのだと思います。そういう意味では、古典的書物は意外にわかりやすいのです。むしろ現代に近づけば近づくほど、主張や論理が複雑になって理解がしにくいように感じられます。

[翻訳の問題]
 にもかかわらず古典的な書物が取り付きにくく、読みにくい印象を与えるのは、ひとつには翻訳に問題があると思います。実際、主張していることは明快でも、この本は全然読みやすくはないのです。何度読み直しても意味のとれない段落もあります。そしてどうやらそれは翻訳に問題があるためだということに、今になって気がつきました。
 僕がこの本を買って初めて読んだのは大学生の時ですが、その後たまたまもう一冊、別の訳者によるものを人からもらいました。今回、この話をするためにあらためて読み直したのですが、その際はまず昔読んだ方の訳を読み、意味がとれないところに突き当たったらもう一冊の方の該当する個所を見てみる、という作業をしてみました。すると、意味がとれるのです! 片方では「しかし」となっているところが、他方では「それで」になっていたり、片方で「・・する必要があるので」が他方では「・・するはずなので」になっていたりと、まあ字づら上はちょっとした違いといえば言えるのですが、論理構造からいうと全く異なる訳がしてあって、明らかに片方は意味が通じ、他方は通じないのです。たぶん、どちらかの訳本が全面的に正しく、他方が間違っている、というわけではなく、ある箇所においてはこっちが、別の箇所ではあっちが正しい、ということなんだと思いますが、ともかく、論理構造が狂ってしまった訳を読まされてはたまったもんではありません。わかりにくい書物との印象がどうしても強くなってしまいます。
 訳の論理が狂わないまでも、もうちょっと普通の日本語にしたら読みやすいのになあと思う箇所は無数にあります。フランス語の原文はもってまわった、あるいはおうぎょうな言い方をしていても、訳すときには普段の日本語にしてしまってもいいんではないかと思うのですが、その分野の専門家はそうは考えないのかもしれません。
 これから「人間不平等起源論」の議論を紹介していく中である程度その文章を引用しますが、元の翻訳章そのままではなく、僕の感覚に従ってもうちょっと普通っぽい日本語に勝手に置き換えて引用していきます。(それでも、まだ読みにくいとは思いますが)

[ルソーの問題]
 さて、本題に入りましょう。ルソーのこの本の主題は、”なぜ人は社会の中で苦しむのか”ということだと思います。たしかに世の中、苦しんでいる人はたくさんいます。地球全体で考えてみれば、飢えや貧困で苦しんでいる人はものすごくたくさんいます。戦争状態のところもまだたくさんあります。一方、日本の中では飢えや戦争はないと言っていいでしょうが、苦しみはないどころではありません。僕らは毎日、仕事や勉強のことで苦しみ、人間関係で苦しんでいます。人間関係のなかには、男女の関係も含めなければなりません。その他いろいろ、現代人はストレス過多だという言われ方がこの頃よくされます。
 ルソーの時代でも、人々はやはり苦しんでいたのでしょう。そしてルソーはそうした苦しみを見て、なぜ人はそのように苦しむのか、苦しまない方法はあるのか、考えたのだと思います。その結果がこの「人間不平等起源論」という本になったのだと思います。
 というわけで、この本は社会について論じた本です。科学技術に関する記述も少しは出てきますが、メインのテーマではまったくありません。しかし僕は、この本が技術のあり方を考える上で、ものすごく重要な本だと信じています。それは結局、技術と社会が深く結びついているからだと思います。一人ひとりの欲望、人と人とのつながり、そうしたものが社会を作り上げ、同時に技術も作り上げてきました。だから、社会についての議論が、そのまま技術に関する議論に応用することができる。
 ただ、そのときに僕はおそらくこの本のある特定の側面にのみ着目して、議論を進めて行くことになると思われます。そういう意味では、僕のこの話は、本の紹介としては偏ったものになってしまうはずです。そのことをあらかじめ断っておきます。

[人はなぜ苦しむか]
 ところで、苦しんでいる人がたくさんいるのは確かだが、社会の中ですべての人が苦しんでいるわけではない、という声がありそうです。これは常識的な意見ですし、たしかにそのように思えます。しかしルソーはもっと過激な認識から議論を始めます。それは、社会の中では人間は必ず苦しむことになる、あるいは、社会がなければ人間の苦しみははるかに少なくてすんだだろう、という認識です。つまり、他人あるいは社会は、本質的に人間に害悪をもたらす、必ず幸福より不幸をより多くもたらす、とルソーは言うのです。(少なくとも、この本では、といちおう断りをつけておきますが)
「人間の社会を礼讃したければいくらでもするがよい。しかし、社会は必然的に、利害が入り乱れるにつれて人間が互いを憎み合うようにし、表面では互いに役に立っているように見えながら、実際は想像しうる限りのあらゆる悪を互いにし合うようにさせている」
 こういう表現は繰り返し現れます。この社会の中では、人間はお互い助け合うより、傷つけ合うものだ。ルソーはそう考えていたのです。
 では、なぜ社会の中にいるとわれわれは必然的に苦しむことになるのか。それを考える上でのポイントは人間の「欲望」です。この欲望に関する考察が、この本のもっとも重要な部分だと言っていいと思いますし、あとで科学技術について考えるときも、もっぱらこの「欲望」ということについて話を進めていくことになります。

[欲望が人を苦しめる]
 さて、欲望が人間を苦しめる、という場合、大きく分けて二つの苦しめ方があるといえるでしょう。ひとつは、人が欲望に駆られて他の人に害を与え、その結果その他人が苦しむという場合です。苦しむ当人の立場に立てば、他人の欲望によって自分が苦しめられることになります。小さい例でいえば、ある人のわがままのため、回りの人が苦しむ、といったケースがそれです。大きな例をあげれば、ある国が自国の利益のために隣国に侵略するような場合です。
 もうひとつは、人が自らの欲望に苦しめられる場合です。つまり、欲望を持ち、けれどもそれが満たされず、欲求不満で苦しむということがあります。ルソーはこの二つ目の方をかなり重要視していたと思われます。
 確かに私たちはたくさんの欲求不満を抱えて毎日暮らしています。金が欲しい、ものが欲しい、もっと偉くなりたい、もっと異性にもてたい。普通そのような欲求不満の原因は、欲しいものが手に入らないためだと考えます。お金に対する欲求不満が生じるのは、望んだだけのお金が手に入らないためだと考えます。しかし見方を変えれば、お金に関する欲求不満の原因は、お金に対する欲望だとも言えます。そもそも欲望がなければ、こうした欲求不満を感ずることはなかったはずです。ですから、私たちは自らの欲望のために、欲求不満という苦しみを味わっていることになります。
 この「欲望」はどのようにして生まれてくるのでしょうか。生まれてくるも何も、欲望は元々あったのだ、人間は欲深いものだ、という考え方もあります。ホッブスという人が唱えたのだそうです。そういえばそんなこと習った記憶がかすかにあります。しかしルソーはそうは考えません。もともと人間は、その日その日、あるいはその時々に自分が生きていく上で必要なものさえあれば、それで満足してそれ以上欲を持つことはなかったのだとルソーは考えます。後でもう少し詳しく言いますが、これが自然状態、というやつです。そして、その状態から、ある理由によって、人間にいわば不必要な欲望が生まれてしまったのです。そのある理由とは、「他人」と「習慣」です。

[自然状態]
 まず、なぜ他人との関係が欲望を必ず生むのか、ルソーの考えを見ましょう。もし、他人との関係が一切ないとしたらどうでしょう。他人がいないとしたら、じゃなくて、いても関係がないとしたらです。回りに人がいても、それは他の動物、たとえば熊とか猿がうろついているのと同じように感じているとします。そういう状態では、その他人によって欲望がかき立てられることはありません。
「(自然人たちは)他人に危害を与えようという気を起こすよりは、自分たちがうけるかもしれない危害から身を守ることに注意を払った。」
まあたしかに、近くに住んでいるのが猿や熊だったら、とりあえずあまり関わり合いを持たないでおこうとするでしょう。仮に衝突があったとしても、
「自分がうけるかもしれない乱暴を、簡単に埋めあわせることができる不運とみなし、罰すべき不正とは見なさず、仕返しも考えなかった。」
猿や熊から乱暴されても、おまえの行為は不正だといって怒ることもない。仕返しはひょっとしたら考えたくなるかもしれませんが、基本的には運が悪かったと考えるだけでしょう。というわけで、
「彼らは虚栄心も尊敬も軽蔑も知らず、君のもの自分のものという観念も持たず、正義の観念もなかった」
猿、熊相手に見栄を張ったり軽蔑したりする事もないのは、間違いありません。
 この自然状態では、支配従属の関係はありません。他人を利用しようとは誰も考えません。またお互いに比較もしません。他人が自分にないものを持っていたとしても、それはそれだけのことです。それは何の感情も引き起こしません。もう一つ引用しておきます。
「真の自然状態においては、自尊心は存在しない。なぜなら、どの人間もそれぞれ自分のことを、自己を見つめるただ一人の観察者、宇宙において自分に興味を持つただ一人の存在、自分自分の価値を判断するただ一人の人間と見なしているのだから、自分の能力の範囲を越える比較によって生まれる感情が、その心の中に芽生えることはあり得ない。同じ理由から、その人間は憎悪も復讐の欲望も持つことができないだろう。」
僕個人はこの引用箇所が非常に好きです。これがひとつの理想状態に違いないと、心から共感します。注意していただきたいのは、ルソーは「自尊心」という言葉を否定的な意味で使っている、ということです。普通は自尊心という言葉には肯定的な意味がこれられますが、考えてみれば、自尊心と虚栄や軽蔑を分ける境界は、そうはっきりしたものではありません。(二冊の訳本はいずれも「自尊心」という訳語になっていますが、ここでの自尊心は、僕らの普通の語感で言う「優越感」に近いのかもしれません。) 

[他人が欲望を生む]
 さて、このような平和な自然状態は、人々の行き来が始まり、関係が築かれ、社会ができていくと崩れていきます。人は他人を利用するということを、あるとき知ってしまいます。よく、人間は互いに助け合って生きる、というような言い方がされます。しかしルソーにいわせれば、人間はいつからか人の助けがなければ生きられないようになってしまったのです。もっといえば、他人をうまいこと利用しなければ、生活が成り立たなくなってしまったのです。
 そしてさらに悪いことがおきます。
「(人々の行き来が始まる)人々は様々な事物を比較することに慣れてしまう。そして無意識のうちに価値と美の観念を獲得し、それが選り好みの感情を生み出す。お互いに会うことによって、人々は会わずにいられなくなる。嫉妬心が愛とともに目覚める。
「人間たちがお互いに相手を評価し始め、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成され始めると、誰もがその権利を主張した。侮辱された人間は、そこから起こる被害よりも自分個人に対する軽蔑が我慢ならない。自分に示された軽蔑を、自分で自分を尊敬する程度に応じて罰したので、仕返しは猛烈になり、人間は残忍になった。」

どうか注意してください。この発想こそが、この本の核心のひとつです。人間はあるときから、他人と自分を比較するようになってしまった。自分は持っていないのに、他人は持っている。そう思ったとたん、その他人が持っているものが欲しくなる。他人がそれを持っているのを見るまでは欲しいとは思っていなかったのに、見たとたんに欲しくなってしまうのです。あるいは、自分はできないのに、他人はできる。それを知ったとたん、できない自分に不満を感じ、できる他人をねたましく思うようになる。それまでは、できても、できなくてもどちらでもいいと思っていたのに、他人ができると知ったとたん、自分もできるようになりたいと思い始める。
 こういう心理は、おそらく誰にでも身に覚えがあるでしょう。
 こうして、他人の視線、他人の評価を気にし始めるのです。自分は尊敬されているのか、軽蔑されているのか、それが気になってしかたがないようになる。もし軽蔑されていると感じたら、そんな軽蔑は不当だから、なんとしてもくつがえそうと必死になるのです。
「自分の噂をしてもらいたいというあの熱望、目立ちたいという熱狂のために、われわれは人間の中にあるもっともよいものと悪いもの、美徳と悪徳、学問と誤謬、言い換えれば、少数のよいものと無数の悪いものを持っているのだ」
ここでルソーは活動的な生き方、何かに向かって必死に努力する生き方にも否定的な視線を向けます。所詮それは「目立ちたいという熱狂」に駆られているに過ぎないのです。そしてルソーは「価値」という言葉にも否定的な意味を込めていました。それは他人との比較によって生み出されたものに過ぎないのです。

[恋愛感情と権力欲]
 ついでにいうと、ルソーは恋愛感情さえも否定的に見ます。それも、他人の尊敬を勝ち取りたい、という欲望の現れに過ぎないのです。そして、「美」という観念も否定します。
「恋愛が存在しないなら、美は何の役に立つか」
美も結局は、他人からの注目を集めるための、手段に過ぎないからです。
 僕個人は、このようなルソーの恋愛観に基本的に同意します。さらにつけ加えるなら、恋愛感情には、相手の尊敬を勝ち得たいという感情だけでなく、しばしば、第三者の尊敬や評価を勝ち得たいという願望が混ざり込んでいます。”自分の彼女(あるいは彼)を他人に見せたい”とか、”回りはみんな彼女(彼)がいるのに、自分だけいないのは悔しい”といった感情がそれです。あるいは、ある人に愛されたとき、その人に愛されたことそれ自体より、”他人ではなく自分を選んでくれた”というような意識に喜びを感ずることもあります。このように第三者の視線・評価を気にするのは、恋愛において例外的な事態ではありません。それどころか、ひょっとしたら、そのような第三者に向かう意識の方が、当の恋愛相手に向かう意識より強いのが普通であるかもしれません。
 他人から高い評価を得たいという欲望は、発展して最終的にはもっと悪い姿をとります。それが「権力欲」です。
「すべてに人間は、真の欲求ではなく他人の上に立ちたいためにそれぞれの財産を増やそうという熱意を持つようになり、その結果お互い危害を加え合うという悪い傾向が生まれ、嫉妬心も芽生えた」
「富めるものは、支配する快楽を知ると、たちまち他のあらゆる快楽を軽蔑した」

こうして、人間は誰かの主人であり、同時に誰かの奴隷である状態になってしまいました。僕らは、誰かを支配できるなら、他の誰かの支配を喜んで受け入れるのです。つまり、会社の組織や運動部の先輩後輩のようなある序列の中に入って、上のものの権力を認めることによって、下の者に自分の権力を及ぼそうとするのです。それほど、誰かを支配したいという欲望は強いのです。
 いったい、なぜ僕らはこんなにも他人を気にするようになってしまったのでしょう。優等生は他人にほめられたいと願い、不良は目立ちたいと願います。どちらも他人の評価を気にしている点ではいっしょです。そのような意識につき動かされて、僕らは日頃どれほど苦労し、どれだけ苦しみを味わっているでしょうか。
 おもしろいことに、ルソーのこの著作は懸賞論文なのだそうです。懸賞論文ということは、他人にほめられることを目的に書かれた論文ということになります。それに、ルソー自身は恋愛感情も含めた強い感情を持たなかったかというと、とんでもない、「告白録」を読むとむしろ人一倍感情の強い人物だったふしがあります。ルソーは、自分の苦しみを分析した結果、このような理論に到達したのかもしれません。

[習慣が欲望を生む]
 さて、他人の存在が原因で欲望が生まれる、という話はこれぐらいにしましょう。そろそろ、欲望が生まれるもう一つの原因である、習慣、に話題を移しましょう。
 習慣が欲望を生む、とは、たとえばこういうことです。人間は初めは家など持たなかった。そのときそのときでねぐらを探し、それで十分に満足して暮らしていた。しかしひとたび家を持ちその中で暮らすようになると、今度は家なしでは生きていけないと感じるようになる。こうして、家を持つことが切実な欲求になる。
「身体的な必要をのぞけば、われわれの欲求は習慣がなかったときには全く欲求でなかったのに習慣によって欲求となったのか、あるいはわれわれの欲求によって初めて欲求となったのか、どちらかである。また人々は知ることもできないものを少しも欲しがりはしない。未開人は自分の知っているものしか欲しがらない」
”知ることもできないものを欲しがりはしない”この当たり前と言えばあまりに当たり前な一言が、ルソーの文明社会批判の一つの支点になっているのです。未開人は家を欲しいとは思わなかった、なぜなら家というものを知らなかったからです。
 まあ、いくらなんでも家ぐらい必要性の高いものは、未開人でも欲しいと思ったかもしれません。しかし、ルソーはこういうことも言っています。
「(人間は家族を作り、住居を持ち、簡単な道具を使うようになる)簡素な生活と、限られた欲求と、それを満たすための道具を持った人々は、多くの余暇を持つようになった。そして彼らの父祖が知らなかったいろいろな安楽を手に入れるために、その余暇を利用した。 
「彼らはそのようにして自分の肉体と精神とを軟弱にし続けた上に、これらの安楽が習慣となることによってその魅力をほとんどすべて失い、同時にその安楽が真の欲求に変質してしまったので、それを奪われる苦しみは、それを持つことが心地よかっただけにいっそう激しいものとなった」

ちょっと生活に余裕ができます。その余裕を使って、ちょっと贅沢をします。最初はそれはあくまで贅沢だったのですが、それをやり続けているあいだに、その贅沢がいつしか普通の状態になってしまいます。「安楽が習慣になることによって魅力を失う」とはそういうことです。このようなことは、誰しも経験があるでしょう。最初にしたときは楽しかったが、何度も繰り返しているあいだに最初に感じた快楽はもう感じないようになってしまう。それどころか、ひどいときには、それなしでは生きられないようについにはなってしまう。ニコチン中毒やアルコール中毒が一番わかりやすい例でしょう。もともと子どもの時にはアルコールに対する欲求はなかった。そしてあるとき、酒類を口にし、気持ちよく酔っぱらうという快楽を得る。そのうち、酒に強くなり、少しの酒では酔っぱらわないようになってしまい、だんだん量が増えていく、そして終いにはアルコールをとらないでは生きていけなくなってしまう。アルコール依存症の出来上がりです。
 ただ、ルソーがあの文章を書くとき念頭においているのはそういう嗜好品だけではありません。家や衣服も、本当は必要不可欠ではなく、いま言ったようなメカニズムで、私たちがそれなしでは生きられなくなってしまっただけではないか、とルソーはにおわせているのです。家や衣服は極端にしても、普段われわれが生活必需品と呼んでいるものも、実は私たちが依存症にかかってしまっているだけではないかと、ルソーは主張しています。
 ここらへんで、僕が最終的に科学技術についてどのようなことを言いたいか、想像がつくでしょう。ただここでは、先回りせず、ルソーの議論をもう少し追っていくことにします。

[ふたたび自然状態]
 これまでお話ししたように、私たちの欲望は「他人」と「習慣」によって生み出されます。それは、人間の生存そのものにとって本当に必要なものではなく、作り出されたものであるだけに、際限がありません。人間は生存のために食べ物をとります。しかし生存のため本当に必要な量というのはいたって限られています。このように「自然」に基づいた欲望には必ず限度があります。一方、贅沢になれた人間が持つ食べ物に対する欲望は、そのような生存に本当に必要な欲求をはるかに越えてふくれあがります。いまの社会で美食家が食事に対して示す執着は、人間の生物としての食事欲とは、もう無関係だと言っていいでしょう。
「欲望が自然でなく、差し迫ったものでなくなるにつれて、情念はますます増加し、それを満足させる力も増加するのである」
欲望がひとたび「自然」を離れて膨らみ始めると、先ほど説明したように、「他人」と「習慣」によってどんどん増幅されていきます。これはいわば欲望の自己増殖過程です。
 そのような欲望のない状態を、ルソーは「自然状態」と呼んでいます。「自然状態」の定義、あるいは性質は何か、という問いにはいろいろな答え方があり得ると思います。でも、”欲望のなさ”あるいは”欲望が自己増殖しない”という点こそが最も重要な特徴だとルソーは考えていたのではないか、と僕には思えるのです。
 そしてルソーは「自然状態」を一種の理想状態と見なしていました。つまり、不自然な欲望がなく、不必要な欲求不満に苦しむことがない状態が、人間にとってもっとも幸福だと考えていたのです。ところが文明社会は、欲望を増殖させ、限りない欲求不満を生み出しました。たしかに文明の発達はなにがしかの「満足」も生み出しました。しかし、文明が生み出した「満足」と「欲求不満」を比べれば、「欲求不満」の方が大きいではないかと、ルソーは訴えます。われわれの活動は、結局のところ「少数のよいものと無数の悪いもの」を生み出したに過ぎないのだと。

[自然に帰れ]
 ここから、ルソーの有名な「自然に帰れ」というキャッチフレーズが出てきます。この本にそのフレーズが出てくるわけではないのですが、この本の主張はそう要約することもできるでしょう。僕が信じるところによれば、このフレーズは、望ましい社会を築くための、ある基本的なルールを意味しています。そのルールとは”できる限り欲望あるいは欲求不満を減らす”ということです。そしてそれは、”不幸をできる限り減らす”と言い換えることができます。
「できる限り他人の不幸を減らして、汝の幸福をはかれ」
よろしいでしょうか。「不幸をできる限り減らす」というのが当たり前に聞こえるとしたら、それはある種の錯覚に陥っているのです。注意してください、「幸福をできる限り増やす」ではなくて、「不幸をできる限り減らす」なのです。「自然に帰れ」ということは、あえて言えば、「幸福をできる限り増やす」という発想は捨て去るべきだということなのです。(実はこのような表現の仕方は、市井三郎さんという方がされています。が、元々の発想はルソーにあったのではないかと僕には思えます。)
 文明は、人間の欲望をできる限り満足させることを目標として、発達してきました。つまり人類はこれまで「幸福をできる限り増やす」ことを目標にしてきたといえるでしょう。たしかに文明の発達は人間に様々な満足を与えました。しかしそれと同時に、より大きな欲求不満、より大きな不幸を人間にもたらしたではないか、というのがルソーの基本的な主張です。だからルソーは、それをもうやめろと言うのです。むしろ、欲求不満ができるだけ生じないように、「不幸をできる限り減らすように」私たちは生きるべきだと言うのです。

[不幸を減らすということ]
 ルソーは人間の自由・人権についての思想家です。この「不幸をできる限り減らす」というモットーは、私たちの社会の中で、個人の自由や権利の問題を考える際に、驚くほど有効な裁定のルールになり得るのではないか、と僕は考えています。個人個人が権利を主張し、自由に生きようとすれば、かならず利害の対立が生じます。ある人が、自分にはこれをやる権利がある、と主張し、他の人がそれを拒否するというような場合です。このとき、「不幸をできる限り減らす」をルールにおけば、うまく利害の調整ができる場合が多いのです。
 たとえば「嫌煙権」という概念があります。ある人が”自分にはタバコを吸う権利がある”と主張し、一方で他の人が”タバコの煙で不快な思いをしたくない”と主張します。この場合、タバコを吸うことは、その人の幸福を増やす行為です。それに対し、タバコを吸わない人がタバコの煙をさけることは、不幸を減らす行為です。つまり「(ある人の)幸福を増やす」と「(別の人の)不幸を減らす」という二つのことが対立しているのです。ルソーのモットー(と、あえて言います)によれば、優先されるべきは後のほう、つまり、タバコの煙をさける権利です。つまり、嫌煙権はあのモットー「不幸をできる限り減らす」に基づいていると考えることができるのです。
 同じような構造の利害の対立は、この社会でいくらでも見つけることができます。公害、環境問題もそうです。片方にガソリンや軽油を使う権利があり、他方に、自動車の排気ガスによる健康被害を免れる権利がある、というわけです。あるいは騒音問題などのもわかりやすい例でしょう。もちろんいずれも場合も、優先されるべきは、健康で平穏な生活を乱されない権利、つまり不幸を免れる権利です。
 もしかしたら、もっと根本的な問い、たとえば”なぜ人を傷つけてものを奪ってはいけないか”という問いの答えさえも、あのモットーにあると考えることができるかもしれません。

[自然には帰れない私たちにとっての意味]
 このようにルソーの思想は、現代の社会問題を考える際にも、非常に有効な支点・視点を提供してくれます。ルソーが未開の自然状態をある種の理想と考えたのはたしかですが、しかし何もルソーは文明をすべて捨てて未開の原始社会に戻るべきだと主張しているわけではありません。そんなことは絶対不可能であることはもちろん承知していました。その上で、自分たちが生きているこの社会をよりよいものにするにはどうしたらよいかと、ルソーは一生懸命考えたはずなのです。その考えの道筋の中で出てきたのが自然状態であり、得られた解答が「自然に帰れ」であったのです。
 欲望という観点から言えば、欲望の自己増殖が起きていない、満足と欲求不満のいたちごっこが発生していない状態が、自然状態でした。その状態を参照しながら、ルソーは同時代の人間の欲望を分析したのでした。実は、私たち理系の人間も同じような思考過程をとることがあります。たとえば熱の影響を理論的に議論するために、絶対零度の状態を想定し、それと有限温度の状態を比較するという作業をします。実際に厳密な絶対零度の状態がつくれるかどうかは、その際問題にはなりません。そしてまた、絶対零度の状態について詳しい考察の言葉を費やしたとしても、真の興味の対象は絶対零度ではなく有限温度の熱的な現象であるのです。ルソーがこの本でしていたのも、まさにそのようなスタイルの議論だったと僕は考えます。不自然な欲望のない状態を考えることで、不自然な欲望に満ちた今のこの社会の問題を、できる限り明快に考えようとしたのです。

[科学技術と人間の欲望]
 さてそろそろ本題、のはず、の科学技術のことに話を移しましょう。いままでお話ししたことのなかでは、あるいはこの本の中では、ルソーが直接に科学技術に言及している部分はあまりありません。ただ、考えようによっては、今までお話ししたこと全体、この本全体が、科学技術に関わっているとも言えます。ルソーが未開の社会に対比させて現代社会のことを批判するとき、それは第一には財産の私有制度や諸々の主従関係など社会的な制度を対象にしていますが、同時に農業、工業など諸々の技術によって生み出された生産物や技術そのものも念頭に置いているからです。ですから、これからお話しすることは、ある意味ではすでに話したことの繰り返しです。ルソーの考えを、具体的な科学技術の話題を取り上げて、より具体的に説明、というか応用していきたいと思っています。
 その際のポイントは、これまでの話からおわかりのように、人間の欲望と欲求不満です。科学は人間の欲求欲望を満たすために発展してきたと普通は考えられています。たとえば遠くへ行きたいという欲求があり、それを満たすため自動車や飛行機といった交通機関が発達た。それは疑いようもない真実であるように見えます。
 しかし本当にそうでしょうか。そうではない、実は逆なのではないか、というのがルソーの発想なのです。逆、とはどういうことかおわかりでしょうか。欲求を満たすために技術が発達したのではなく、技術が発達したために欲望が生まれたのだ、ということです。