はじめに


 科学技術論の名著を紹介するというのが、いちおうこの講義の目的です。そういう類の本をいままで読んだことはあるでしょうか。科学論とか、技術論とか、そういうキーワードで検索すれば、かなりたくさんの本がリストアップされるはずです。もしそういうタイトルの本は読んだことがないとしても、科学技術に関係する本ということなら、たいていの人は何か読んだことがあるでしょう。子どもの頃、野口英世やキューリー夫人といった科学者の伝記を読んだことがある人は多いでしょう。あるいは、もっと広く考えてSF小説も科学技術に関係する書物に入れてもいいでしょう。また、これからは○○技術の時代だ、というような本がいっぱい出てますが、ああいうのが好きな人もけっこういるかもしれません。
 さて、僕がこれから紹介するのは次の5冊の本です。
・ルソー「人間不平等起源論」
・と学会「トンデモ本の世界」
・クーン「科学革命の構造」
・宮沢賢治「グスコーブトリの伝記」
・高木仁三郎「科学は変わる」
 実のところ、僕はいままで系統立ててちゃんと科学技術関係の本を読んだわけではありませんし、しかも読書の範囲はある意味で偏っています。その限られた本の集合の中から、さらにきわめて個人的な感覚に従ってここに選びましたので、選ばれた本はオーソドックスで教科書的な科学技術論の名著とはかなり異なった品揃えになっています。それぞれの本がなぜここに選ばれたかは、これから一冊づつ内容を紹介していく中で具体的に説明されます。これらは、微妙に重なりながらも、それぞれ別々の重要な問題を扱っていると思います。ただ、これらの本は僕にとってあるひとつの共通点を持っています。それは、僕の性格や生き方に大きな影響を与えた、ということです・・・
 いえ、僕がこれらの本に影響を受けたというのは、残念ながら嘘です。

 これらの本の紹介をする前に、そもそも僕らは何のために読書をするのかを考えてみたいと思います。一つはもちろん楽しみのためですが、それ以外にも、本から知識を得るために読書をすることがあります。楽しみとしての読書について、なぜ楽しみたいのか、と問うのはちょっとばかげています。楽しみを求めるのは当たり前だからです。では、知識を得るための読書について、なぜ知識を得たいのか、と問うのはどうでしょう。この問いは、答えがまったく自明であるというわけではない、と思います。
 人によっては、仕事に必要な知識を本から学ばなければいけない場合があります。ただ、こういう時は読書という言い方をあまりしません。読書はたいてい趣味として本を読む行為を指します。ではなぜ趣味として、つまり仕事で必要なわけでもないのに、知識を得ようとするのでしょうか。
 話しを単純化するために、二つの極端な場合を考えてみたいと思います。一つめの極端な場合は、”クロスワードパズル偏愛者”です。
 人はなぜクロスワードパズルを解くのでしょう。単なる暇つぶしのために解く場合もあるでしょうし、正解を出版社に送って懸賞を当てたいと考えている場合もあるでしょう。そして、複数の人でいっしょに解く場合には、その過程で自分が”知識”を豊富に持っていることを、他の人にアピールする効果も期待しているかもしれません。そして実際、単に暇つぶしのためだけに、あるいは利益を得るためだけに、あるいは人にひけらかすためだけに、”知識”を手に入れるという人もたぶん多いのです。
 さてもう一つの極端な場合は、”真正な知識人”です。「知識人」という語はもう死語のような気がしますし、何が”真正”かというのも、確定した定義があるわけではありません。ただ、僕自身は次のように定義付けしたいと思います。
「知識がその人の生活にとって重要な意味を持つ人たち」
ここでの「生活」という語は広い意味を持っています。衣食住、人との交流、すべて生活の一部です。したがって本当の知識人とは、たとえば服を選ぶときにも、「知識」にもとづいて選びます。この場合の「知識」は、ブランドやデザイナーに関する知識、要するに商品情報、ではありません。ここで言っている知識は、いってみればこの世界に関する知識です。自分が買おうとしているこの服、あるいはこの服を買うという行為と、世界全体を結びつける知識のことです。
 具体的にどういうことかというと、引き続き服を例にすると、たとえばその素材に関する科学的知識があります。元々の原料は何か、物理的化学的性質はどうか、人間の身体にどういう作用を持ち得るか、といったことです。つぎにその製造の過程に関する社会的な知識があります。たとえばその服を製造したのはどこに国か、その国と日本はどのような関係を持っているか、などなど、です。また流通、販売について問題意識もあるでしょう。服を売っているこの店は、いまの経済緩和の流れの中でどういう立場に立っているのか(たとえば、郊外の大型店に押されて衰退しつつある、とか)といったことに関する知識がそれです。
 服を買うときにこういったことが頭の中に浮かんできて、それが服を買うという行動に影響を与えてしまう。同じようにして、衣食住と人間関係のあらゆる局面で、知識が生き方に影響を与えてしまう。そういう人たちを僕はここで知識人と呼んでいます。
 たとえばある人が、ある本を読んで地球温暖化についての詳しい情報を知ったとしましょう。もしその人が”クロスワードパズル偏愛者”であるなら、その知識によっていままでより少しだけすばやくクロスワードパズルを解けるようになり、ちょっと幸福な気分になるでしょう。でもその人は、地球温暖化の情報を得る前と後で少しも生き方を変えることなく、以前と同じようにエネルギー資源を消費し続けるかもしれません。一方、”真正な知識人”は、同じ知識を得たあと、温暖化を防ぐため少しでもエネルギー資源の節約を図ろうとするでしょう。
 では、同じ情報を得ても、それで生き方を変える人と変えない人がいるのはなぜでしょう。理解の程度が違うからではありません。ここで問うているのは、もっと本質的な問題です。理解の度合いも含めて、本質的に同じ情報が頭に入力されても、ある人においては生活の変化が現れ、他の人では現れない。さきほど環境問題の例をあげましたが、理解力に優れた人たち(たとえば大学や企業の研究者)が、みなエネルギーを節約しようとまじめに努めているかというと、けっしてそうではありません。もちろん彼らは地球温暖化問題のことはよく知っています。しかし、一般の家庭の主婦に比べ、さてどちらが地球環境に気を使っているでしょう。
 これは、別の言い方をするなら、誠実さの問題です。○○をする事はよくない、と知っていても、平気でその○○をしてしまえる人がいる。その一方で、○○をする事はよくない、といったん知ってしまうと、もう○○はできないと感じる人がいる。自分の知っていることと、自分のやっていることが矛盾していても平気な人と、それが許せない人がいるのです。その、言行不一致を許さない心性のことを誠実さと呼びます。
 では、誠実さが大切だというなら、その誠実さはどうしたら得ることができるのでしょうか。決め手になるのは、情報の量や質でないとするなら、心しかありません。情報によって心を動かされたとき、つまり、怒りや悲しみや恐れや喜びを感じたとき、はじめて人は自分の生き方のどこかを変えようと思うのです。たとえば、また環境問題を例に取りますが、「地球温暖化のため海水温が上がりサンゴが死滅した」という情報に接したとします。ある人はそれを「炭酸ガス濃度増加→海水温上昇→サンゴ死滅」という因果関係としてだけ記憶します。これでは生き方に影響を与えることはありません。ところが別のある人は、死滅したサンゴのイメージを思い浮かべ、心を痛めます。そのイメージがなかなか頭を離れず、それに伴う悲しみもいつまでも心に残るとしたら、その人は自分の生活のどこかを変えようとするでしょう。

 こうして心が大切だという結論になってしまいましたので、最終的に、そのような心はどうしたら得られるのかを問わなければいけなくなりました。しかしその問いに、僕はまったく答えることはできません。そもそも僕自身が、そのような誠実な心をちゃんと持っているわけではないからです。
 ただ、ひとつ確認できることがあります。僕は”真正な知識人”になりたいと願っています。そういう意思だけは持っています。
 ようするに、単に僕はこれから紹介していく本が好きなのです。そして、自分の人生がこれらの本に影響を受けることを望んでいるのです。そう望むあまり、まるで本当にこれらの本から影響を受けたかのようなふりをして、このような文章を書き始めたのです。
 そもそも、これから書かれる文章はいったい何なのでしょう。あたかも講義録のような体裁をとってはいますが、実際はそんな講義など行われていません。僕にはそのような講義を行う相手も機会も必要も資格も、何もないのです。そしてこの文章が外に向かって発表される機会など、まず間違いなく、ありません。この文章の読者は、実際は僕自身しかいないのです。
 先ほど僕は、どうやったら誠実さを手に入れることができるかわからない、と言いました。おそらくこの文章を書くという行為は、その誠実さを手に入れるためのあがきのようなものなのでしょう。自分自身に語り聞かせることで、何とか自分の感情をこれらの本に対して開かせようとしているのです。だから僕は、これからの話を、できるかぎりわかりやすくおもしろいものにしたいと思っています。
 この文章の筆者であり読者である僕にとって、これからの話しが、いささかなりとも興味深く印象深いものになりますように。