「ゆとり教育」批判

これから教育問題を論ずるのですが、ただ私自身はけっして立派な教育者というわけではありません。授業もうまくないし、ちゃんと一生懸命にやっているといえるかどうかも怪しい。また教育問題についてたくさん勉強をしているというわけでもない。簡単に手に入る一般向けの本を何冊か読んだぐらいのレベルです。でも、それでもどう考えてもおかしいと思うことはある。以下はそのおかしいと日頃思っていることをまとめました。

(1)大学生の学力低下問題と受験地獄
(2)落ちこぼれ問題
(3)学習意欲の問題



(1)大学生の学力低下問題と受験地獄

・少数科目受験による学力低下
 まず大学受験の問題から議論を始めたい。大学受験が教育に関する最重要な問題であるというわけではないが、いわば最初のボタンの掛け違いがそこにはあって、教育に係わる様々な議論に結果的に影響を与えてしまっているように思える。
 「受験地獄」という言葉に現れているように大学受験のため高校生、浪人生は過重な勉強を強いられている、という漠然とした認識を持っている人は多い。文部省もそのような認識に立って「受験地獄」の解消を積極的にすすめた。97年に出された中央教育審議会の答申では次のようにうたわれている。
「学校生活におけるゆとりを確保するためには、学力試験における受験教科・科目数をできるだけ少なくしていくべきである」
同様の方針は97年以前からも打ち出されており、90年代後半は受験科目減少が進んだ。国立大学のセンター入試もアラカルト方式という名前の選択制が導入され、5教科を受験させる大学が減った。
 同時に、受験勉強は実際には役に立たない事柄の丸暗記にすぎず、大学入試問題は受験テクニックを試すだけの悪問ばかりだという見方も根強くある。このことも、入試科目削減の流れを加速したと言えるだろう。
 受験生は本当に「地獄」を体験しているのか、また入試問題は本当に悪問ばかりなのか、という問題はとりあえず置くことにする。ここではまず、受験科目削減がもたらした結果について考えたい。
 結果とは、もちろん学力低下である。日本の学生の学力が低下しているかどうかには色々な議論がある。特に小中学生の学力については、国際比較でランキングが下がった、下がっていないとたびたび話題になっている。しかしここで指摘したいのは、そのような微妙な(?)学力変化ではなく、もっと単純で明白な事実である。すなわち、大学生の、受験からはずれた科目の能力ははっきり低下したのだ。
 このことをもっとも明白に示したのが慶応大戸瀬教授と京都大西村教授の調査だった。戸瀬氏らは大学生の数学の学力を調査し、入試で数学を受験しなかった者は受験した者にくらべ平均点が大幅に低いことを示した。受験しなかった者の平均的な学力は、中学生1、2年のレベルであり、小学生レベルの問題を誤答する率も高かった。戸瀬氏らの著書のタイトル「分数ができない大学生」は大学生の学力低下を如実にあらわすフレーズとしてよく使われた。
 入試にない科目の能力が低いのは当然である。またそのレベルが高校レベルではなく、中学1、2年レベルに落ちるのも必然である。なぜなら、現在の高校のカリキュラムは選択の自由度が大きく、入試科目にない科目の授業はほとんど履修しなくてよいからだ。高校で履修しない科目の能力は中学卒業時がピークであり、高校在学中は中学で学んだことを忘れていくだけである。結果的に、大学生になるころには中学1年レベルにまで低下する。
 少数科目入試による学力低下は大学教育を変えていかざるを得ない。両氏の著書「大学生の学力を診断する」には次のような事例が紹介されている。慶応大学経済学部では数学を受験させる従来に入試に加え、数学を入試科目に含まない入試(B入試)が90年頃に始まった。そのB入試で入ってきた学生には高校数学程度の内容の数学概論を必修として課したが、それでも基礎学力の不足から微積分や線形代数という大学の数学を教えることは不可能だという意見が強くなり、数学はすべて必修からはずされた。マクロ経済や統計学も、B入試の学生には”数学を使わずに”教えるようになったという。
 
・ゆとりは生まれたか
 受験科目の削減は、このように学力低下という明らかな弊害をもたらした。では、ゆとりを作るというもともとの目的は達成されたのだろうか。決してそのようなことはない。論理的にあり得ない。たとえば次のような主張の当否を考えてほしい。
「水泳の個人メドレーと自由形をくらべると、個人メドレーが背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎ、クロールの4種類の泳ぎを練習しなければいけないのに対し、自由形はクロールだけ練習すればよい。だから、自由形の方が練習も楽であり、オリンピックで金メダルを取るのも簡単だ。」
この主張がバカげたものであるのはすぐにわかるはずだ。競泳は他人との競争である。自由形はたしかに泳ぎはクロール一種類であるから、四種目とも練習する場合にくらべればよい記録がでるだろう。しかし自分の競争相手もその一種類の泳ぎに集中して練習を積んでいる。だから個人メドレーの選手よりもレベルの高いクロールを身に付けなければ金メダルはとれない。結局のところ、どの種目であれ、金メダルは才能に優れた選手が限界までトレーニングを積んで初めて取ることができる。
 受験も競泳と同じく他人との競争である。受験科目が減って仮に一科目になったとすれば、たしかにその一科目については高い点を取りやすくなるだろう。しかしそれは自分だけではなく、競争相手もみなそうなのだ。残った一科目については、科目が多かったときよりもレベルの高い答案を書かなければ合格はできない。
 入試科目が減れば受験勉強が楽であり合格もしやすいという主張は、自由形の方が個人メドレーより練習が楽であり金メダルも取りやすいというのと同じく間違った主張である。文科省の官僚も審議会の委員もこの明白に誤った論理を信じ込んでいたように見える。このような錯誤が生まれた心理的な原因として次の二つが考えられる。一つは、他人との相対的な優劣を競うものである入試と、絶対的な基準をクリアするかどうかで合否判定する資格試験とを取り違えた可能性である。もし入試が”60点以上取れば合格”といった基準で合否判定するものなら、科目削減は間違いなく受験勉強を楽にする。もう一つ考えられるのは、同じルールが他人にも適用されるという事実が頭から抜け落ちた可能性である。たとえば、他人がみな三科目を受験しなければならず、自分だけが一科目の受験で、その一科目の点数で合否がきまる、というルールなら、もちろん一科目だけの入試は受験勉強を楽にする。どちらも、少し考えればすぐに気がつきそうな勘違いである。

・受験は地獄か
 ところで、受験生は本当に地獄を味わっていたのか。受験勉強が楽しいと思う人はまれで、たいていは二度とやりたくはないと思う。しかし、問題はそれが過重な苦しみと言えるのかどうかである。
 「受験地獄」というイメージはけっして定量的なデータに裏付けられたものでないことを、東大苅谷教授が指摘している。高校生の学習時間、睡眠時間、余暇の時間、あるいは意識の調査結果によれば、今の高校生は心理的なゆとりを失っているわけではない。また学習時間は1979年からの約20年で大きく減少している。(この調査結果については後でまたふれる)「受験地獄」という認識が根拠のないものだとなると、結局、入試の少数科目化は出発点の認識さえも間違っていたということになる。
 ところで苅谷氏は、入試の少数科目化がこの20年間で高校生の学習時間が減少した一因であるとみなしているが、同氏の著書に掲載されているデータを見るとそう考えるのは適切ではないように思える。国公立大学に入学した高校生(2年生)の学習時間は約142分から107分へと2.5割弱減少している一方で、専門学校に進学した高校生の学習時間は56分から26分へと半減、就職した学生にいたっては39分から13分へと三分の一に減少している。つまり学習時間の減少は受験生ではない高校生も含めた全体的な傾向であり、その中で大学進学を目指す高校生はあまり学習時間を減らさなかった。入試の少数科目化が学習時間減少の要因であるなら、その効果は受験生においてもっとも大きく現れるはずだが、実際はその逆なのだ。

・なぜ受験科目が減ったか
 それにしても、教育に悪影響を及ぼすことが明らかである少数科目入試を、なぜ国立大学を含め多くの大学が採用したのだろうか。もちろん大学・学科によっては、たとえば数学だけできれば他の能力はいらない、という教育をしているところもあるだろうし、そこで数学だけの入試をするのはまったく問題がない。しかし実際は、慶応大経済学部の例のように、大学での学習に必要であり教員たちも必要だと考えている教科が入試科目から消されてきた。
 もちろんそれは文部省の指導の結果だ。中教審の答申などの形で少数科目入試が奨励され、大学はそれに従った。ただ、審議会の答申は個々の大学の入試に対して直接に強制力を持つわけではないし、文部省は各大学の入試科目について具体的に指示を出すわけではない。大学は答申など無視して入試科目を減らさないでいることも可能だった。そうしなかったのは、大学は予算獲得のため文部省の機嫌を常にうかがう必要がある(と考えている)ためだ。文部省の方針に逆らえば、学科の新設も、定員の増加も、追加の予算措置が必要な申請は認められないだろう。だから、文部省の主張が間違っていても従わなければいけない。こうして教養教育はすべての大学で解体され、入試科目はすべての大学で減少した。中には抵抗を試みた大学もあったろうが、他の大学が少数科目化するなかで自分だけしなければ、受験生から敬遠され競争率が下がる恐れがある。
 これまで文部省は気紛れで方針を変えてきた。そして大学はその気紛れに絶えず振り回されてきた。すべての国立大学が一致団結して文部省の方針にNoと言えば、そう簡単に文部省の思い通りに大学が変わってしまうことはなかっただろう。しかしどの大学にも、教育者としての自分の理念に従うより文部省の言うことに従おうとする教員がいて、もしかしたらそういうタイプの教員が大学運営で中心的な役割を果たしてきたのだ。
(文部省は現在は文部科学省だが、以下では面倒なのですべて文部省という名称で通す)

・悪問だらけの大学入試?
 次に、大学入試の問題は些末な知識や小手先のテクニックばかりを要求するものであり受験勉強は役にたたない、という認識について考えたい。「悪問だらけの大学入試」という本に紹介されている例は、確かにそのような悪問である。しかし現実の入試問題作成の現場では、できる限り基礎的な知識や能力を問うような問題を作ろうと努力していると思う。少なくとも私自身が経験した場ではそうだった。努力しても結果的に適切な問題が作られなかったということはあるかもしれないが、悪問ばかりということはないと思う。またセンター入試も、歴史などはあまりに細かい知識を問うていると感じることがあるが、他の科目は毎年良問が出題されていると思う。
 ただ入試問題が悪問か良問かをここで議論したいのではない。ここでは、入試の少数科目化によって、原理的に悪問と良問のどちらが増えるかを考えたい。理屈を見やすくするため、ある大学の電気電子工学科では入試科目を物理一科目、しかも電磁気学分野に限ることにした、という極端なケースを考えよう。受験生は電磁気学にしぼって勉強をしてくるから、従来の数学、英語、理科三科目入試の時に出題されていた電磁気学の問題ではたくさんの学生が満点近い点を取ってしまうだろう。入試は受験生のあいだに優劣つまり点数の差をつけるために行われるのであるから、差をつけるために問題を従来より難しくしなければならない。学習指導要領の範囲をこえて出題することはできないから、限られた内容で難易度をあげるために"ひねった"問題を作らなければならない。結果的に、基礎的とはいえない知識を用いる問題や、設定を複雑で分かりにくいものにした問題にならざるを得ない。つまり、科目や出題範囲を減らせば減らすほど必然的に悪問は増えていく。

・小中学校入試
 次に議論の対象を高校生から小中学生(特に小学生)に移したい。2002年からの新しい教育課程において、学習内容が大きく減らされたのは高校ではなく小中学校である。小中学生にはもっとゆとりが必要だという主張がなされ、それを支持する人がいた結果と考えてよいだろう。
 ゆとりのない小中学生、というイメージが広まった大きな要因の一つに小学生の塾通いがある。中学入試のために小学生が夜遅まで塾で勉強する。しかも、その子どもたちが解いている問題は難解なパズルのようで、大人にとっても正解するのは難しい。中学入試問題を題材にしたクイズ番組まで作られているが、番組に出場している大人の解答者も、また視聴者も、とてもではないが高い正答率を出すことはできない。(平成教育委員会、平成教育予備校)中学受験のためにあのようなレベルの問題を解く訓練をさせられている小学生は、たしかに「ゆとり」がない。
 文科省も小学生の過度の受験勉強と塾通いを、もっとゆとりが必要だという根拠の一つにしている。1996年の中教審の答申には、以下の文章がある。
「過度の受験競争は・・・塾通いの増加や受験競争の低年齢化に象徴されるように・・一部の小学生へも波及し、かえって厳しくなっているのが現状と考える。過度の受験競争は子供たちの生活を多忙なものとし、心の「ゆとり」を奪う大きな要因となっている。」
 その「ゆとり」を作るために、文科省は学習内容を大幅に減らした。ではそれによって、深夜まで塾に通う小学生たちが「ゆとり」を持てるようになったか。
 論理的にそのようなことはあり得ない。入試の少数科目化が受験を楽にしないのと同じ理屈である。受験は他人との競争であり、能力が同じなら一日2時間しか勉強しなかった子は一日3時間勉強した子にかなわない。学習内容が減り、出題範囲が狭まったとしてもそれは同じである。教科書が理解できれば受験に合格できるわけではない。合格するには他人よりも高い点を取る必要があり、そのためには他人よりも多く勉強しなければいけない。その圧力がこれまでと同じように子供たちを塾に向かわせる。
 そもそも、深夜まで塾に通う小学生の多くは、学習指導要領の範囲がこなせなくて塾に行っているのではない。彼らは有名私立中学進学をめざす優等生であり、指導要領の範囲を超えた勉強をしていると考えた方がいい。だとするなら、指導要領の内容を減らしたところで、彼らの勉強の範囲が狭まることはないだろう。最初から指導要領に縛られていないのだから。
 一方、入試問題が指導要領にあわせて出題されるとなると、内容の削減によって問題はますます奇形化の度合いを強めるだろう。入試では差をつけなければいけないのだから、全員が高得点を取るような問題では意味がない。出題範囲が狭まれば、その分問題を難しくしなければならない。出題できる漢字の数が少ないなら、単純に読み書きを問う問題では差がつかないだろうから、テレビ番組で取り上げられているような、文脈関係なしのパズル的にひねった問題にするしかない。
 結局、学習内容の削減は塾通いに苦しむ小学生たちにゆとりをもたらすことはなく、入試問題の奇形化を強めることでかえって教育をゆがめることになるはずだ。小学生たちの過剰な塾通いをなくすためには、小学校への入試も含め、義務教育での入試を禁止するのがもっとも効果的だ。小学入試のために幼稚園児が塾通いするというのも異常である。義務教育は誰もが等しく受ける権利を持つものであり、そこでの選抜は必要ない。このような主張は教育界にはあったのだが、中教審が積極的に取り上げることはなかった。あとでもふれるが、ゆとり教育の答申を打ち出した中教審には、田村という有名私立中学の経営者が中心的なメンバーの一人として加わっている。中学入試は公立学校との差別化にに必要であるから、私立学校の経営者はもちろんその制限を阻止しようとする。だから、そのような人物が加わっている審議会が入試の制限を積極的に考えることはありえない。


(2)落ちこぼれ問題

・七、五、三
 ゆとり教育には三つの目的があったとされる。一つは、過度の受験競争の緩和であるが、そのような効果はまったく期待できないことをこれまで論じてきた。他の二つは、落ちこぼれをなくすことと学習意欲を高めることである。落ちこぼれ問題は「七、五、三」とよく言い表わされる。授業についていくことのできる生徒の割合が小学生では七割、中学生では五割、高校生では三割、という意味である。また学習意欲の低下はOECDなどの国際的な調査において浮き彫りにされている。日本の子供は、教科が好きか嫌いか、役にたつと思うか否かといった問いに対して、他国に比べ否定的な回答が多いのだ。これはいずれも大きな問題であるし、なんらかの対策が必要であることは間違いない。しかしゆとり教育がこの問題の解決になったとは残念ながら考えられない。
 まず落ちこぼれ問題を考える。文部省は「ゆとり教育」の方針のもと、学習内容を減らし続けてきたが、その総仕上げとも言えるのが02年に始まった新教育課程である。文部省政策課長として、その新教育課程を作り上げるのに中心的な役割を果たした寺脇氏は苅谷氏との対談でこう言っている。
「新教育課程では、小中学校で教育内容は三割は削減されるけど、わからないで授業に出る、そういう子は一人もいないようにする。つまり、中学校卒業時点で全員が百点というか、内容をきちんと理解できるようにしなければいけないんです」
 学習内容を減らせば理解度は高まる。文部省はそうナイーブに信じたように思える。しかし論理的に考えればそう信じる根拠はない。学習内容が減り、かつ学習時間が減らなければ、理解度は高まる。しかし内容の減少にあわせて学習時間が減ってしまえば、理解度は高まらない。

・"だれの「ゆとり」が増したのか"
 実際、成績下位者に関しては、学習内容の減少にあわせて、というよりそれ以上の度合いで、学習時間が減少してしまった。
 苅谷氏がそのことを具体的なデータで明確に示している。1979年と1997年に高校生の家庭での学習時間を調査したデータによれば、全体の平均は79年に1時間37分であったが、97年には1時間12分と約25%減っている。この間、過度の受験競争が行われているという認識にたって学習内容の削減が行われ、その結果確かに高校生の学習時間は減少した。しかし問題は、”だれの「ゆとり」が増したのか(苅谷氏)”である。この調査では、中学時代の成績ごとに学習時間が調べられている。それによれば、成績上位者の学習時間は約130分から約100分へと2割強減少しているのに対し、成績下位者の学習時間は55分から24分へと半分以下に減少している。つまり、文部省の発した”それほど勉強しなくてもよい”というメッセージは、比較的一生懸命に勉強している成績上位者には伝わらず、勉強をしていない成績下位者にはっきりと伝わったのだ。
 すでに紹介した進路別の集計でも同様の傾向が見て取ることができる。79年からの18年間で、国立大学へ進学する生徒の学習時間はそれほど減少していないのに対し、就職あるいは専門学校へ進学する生徒の学習時間は半分以下へと大きく減少している。
 この事実より、文部省の取ってきた方針が落ちこぼれの減少に全く効果がないどころかむしろ逆効果であったことは明らかである。落ちこぼれを減らすとは、成績下位の生徒の理解を高めるということである。しかし現実には、成績が下位の生徒ほど勉強をしなくなった。つまり、落ちこぼれの生徒の理解度はさらに低下したと考えられるのだ。
 この理由は次のように考えられる。成績下位者は平均的に見れば相対的に学習意欲が低い。そのため、学習内容が減り、授業時間も減り、宿題の量も減るのに伴って家庭での学習時間は減少すると当然予想できる。それだけでなく、ゆとり教育の中では、相対評価や偏差値による評価をやめるなど、競争的な要素を排除する方針が取られてきた。それによって勉強させる圧力が減り、学習時間の減少に拍車がかかったと考えられる。
 そもそも「ゆとり教育」という旗印自体が、勉強熱心な成績上位者を念頭において作られたものだと考えてよいだろう。学習時間が不足している子供たちを対象にするなら、ゆとりの増加ではなく、その逆に向かう方策を考えなければいけないはずだ。後ほどあらためて論ずるが、文部省はこれまで落ちこぼれをあえて見捨てる方針を取ってきたと思われる。
 一方、成績上位者の学習時間はそれほど減らなかった。成績上位者はもともと学習意欲が相対的に高いということがその理由と考えられるが、それだけではない。すでに繰り返し述べたように、受験を意識している子供は、他人との競争に勝つという目標があるため、学習内容が減っても学習時間を減らさない。再び水泳の比喩を使えば、レースの距離が400メートルから350メートルに減ったとしても、優勝するためには練習量を減らすわけにはいかない。
 また多くの場合、成績優秀者には親が塾通いを勧めるなどして勉強するよう圧力をかけている。典型的には、土曜日に学校が休みになっても、その代わりに子供は塾へ行かされる。学校では成績順位を発表したりはしなくても、塾へ行けば絶えず点数を競わされる。その結果、学習内容が減ってもその子たちの学習時間は減らない。
 こうして文部省の戦略は必然的に失敗した。その結果、成績上位者と下位者、よく勉強する子としない子の格差が拡大し、点数分布がひと山の正規分布型ではなくふた山型になることが多くなった。

・家庭環境による格差
 このような格差の拡大はそれ自体深刻な問題だが、家庭環境の格差が成績の格差につながりかねないという、さらに深刻な問題も生じた。経済的な余裕がある家庭では子どもは塾に通ってゆとりとは無縁の学習を積み、経済的余裕のない家庭の子どもは学校でのゆとり教育の影響をまともに受けて学習量が減少する。ゆとり教育の結果、無料で学ぶことができる内容が減り、お金を出さなければ学ぶことができない内容が増えてしまった。
 また進学校と見なされている私立の中学高校では、学習内容を減らさないカリキュラムを組み、それを積極的に売り物にしている。子どもの大学進学を望む親は、文部省の指導に縛られる度合いが高い公立高校を敬遠し、今まで以上に私立の進学校を志向するようになる。親がそのような意識を持ち、かつ家庭に経済的な余裕があるなら、子どもは私立に行ってレベルの高い教育を受け、そうでないなら公立でよりレベルの低い教育しか受けられない。
 学校で勉強を一生懸命にするかしないかは基本的にはその子自身の問題であり、結果としての成績の良し悪しの責任はその子自身にある。しかし、塾に行くか行かないか、あるいは私立に行くか公立に行くかを子どもが自分で決めることはできない。親の価値観や経済力しだいである。地域によっては、親が通わせたいと思っても、塾も私立学校も近くにないというケースもあるだろう。ゆとり教育のもとでは、生活環境が子どもの学力を左右し、その子の将来を決定づけてしまう可能性が高くなる。
 苅谷氏と同じ東大教育学部の市川教授は、ゆとり教育路線によって一番得をしたのは私立校および塾などの受験産業だと指摘している。ゆとり教育による学力低下を恐れる親が、私立や塾に子供を通わせるようになったからだ。そして、文部省の教育改革はもしかしたらこれら業界の利益のために進められてきたのではないか、とまで市川氏は述べている。
 その市川氏の疑いを証拠だてる事実がある。02年からの新教育課程の基本方針を作った中央教育審議会および実際に指導要領を定めた教育課程審議会の両方の委員を務めた田村哲夫という人物がいる。彼はこれら審議会の場で教育内容の削減を主張し、さらにさまざまなメディアに登場してゆとり教育の必要性をうったえた。ところで、彼は渋谷教育学園という法人の経営者である。そして彼の渋谷中学では、公立中学をはるかに上回る授業時間を五教科にあてている。つまり、この人物は教育内容や授業時間を減らすべきだと本気で信じているわけではない。彼は、自分の競争相手である公立校の授業時間を減らしたかっただけなのだ。
 私立学校も少子化によって経営が苦しくなってきている。私立学校の経営者を審議会に入れれば、田村氏のように振る舞うのは十分予想できることだ。問わなければいけないのは、なぜ田村氏のような人物が審議会の委員になり、指導要領を定める仕事をまかされたのかだ。結局この問題の源には、文部省の官僚と業界との癒着があると見ることはできないだろうか。


(3)学習意欲の問題

・反知性主義
 ゆとり教育の三つの目的のうち、受験競争の緩和と落ちこぼれの解消は完全に失敗したことを見た。またその失敗は論理的に予測可能であり、必然的に生じたことも説明した。では、もう一つの目的、学習意欲を高めるという点はどうであろう。これまでの知識詰め込み型の学習ではなく、子供たちの自主性に任せた学習を行う。つまり教師が知識を与えるのではなく、子供が自ら知りたいと思い、自ら調べて学んでいくようにする。この理想はたしかにけっこうなものに聞こえるが、しかしそれに対して苅谷氏などが批判している。
 問題点は、大きく二点にまとめられる。まず一つは、”詰め込み”の否定が、知識の積み上げの軽視につながっているという点である。
「今日の変化の激しい社会にあって、いわゆる知識の陳腐化が早まり、学校時代に獲得した知識を大事に保持していれば済むと言うことはもはや許されず、不断にリフレッシュすることが求められるようになっている・・・マルチメディアなど情報化が進展する中で、知識・情報にアクセスすることが容易になり、入手した知識を使ってもっと価値ある新しいものを生み出す創造性が強く求められるようになっている」96年中教審答申
 漢字の読みや、図形の面積を求める公式が、今日の社会の変化にともなって陳腐化することはない。小中学校で学ぶ内容に、すぐに陳腐化する知識など皆無だと言っていいだろう。自然科学分野に限って言えば、早く陳腐化するレベルの内容は大学の学部教育でさえほとんど現れることはなく、大学院で初めて本格的に登場する。人類がこれまで積み上げてきた、陳腐化などするはずもない基礎的な知識の量は膨大であり、そのごく一部を私たちはさんざん苦労して学校教育の場で学ぶのだ。
 中教審答申に現れているのは絶対的な真理を認めないポストモダン的発想である。ある時代に真理と考えられたことが、次の時代には真理ではなくなることもある。しかしだからといって、全ての真理は移り変わる、と主張するのは間違っている。そのような極端な相対主義が思想界でまともに相手にされることはないはずだが、おそらく一時期の流行にかぶれた識者が審議会のメンバーの中にいたのだろう。

・情報技術信仰
 また、上で引用した中教審答申の文章には情報技術に対する過剰な思い入れも読み取ることができる。実は同様の主張は文部省関係者ではない教育学者によってもなされている。
「筆算の計算力を比べると、今の子供の方が多少とも点数が下がるのはやむをえない・・・他方で、今の子どもたちはインターネットで情報を探索することになど、かっての子どもよりよほどじょうずになっているはずだ」汐見稔幸  東大教授
(この方はリベラルとか左派とか称されるスタンスのように見える。ゆとり教育の是非の議論では、そうした人たちは子供の自主性を重視し、結果として文部省のゆとり教育を肯定する立場にたつようだ。)
 こうした議論では、情報技術の利用をある意味では難しく考えすぎており、ある意味では簡単に考え過ぎている。単純な物知り的情報をインターネットで検索するのは極めて容易であり、それができることは能力と呼ぶほどのものではない。テレビを見る能力、とはふつう言わないのと同じである。したがって計算力と比べたり、置き換わったりするような性質のものでは断じてない。おそらくこの汐見教授は、自分では情報検索をあまりしないのだろうと思う。だから、自分にできないことを子供たちがやるのを見て、それがすばらしい能力だと勘違いしたのだろう。
 一方で、解釈や理解が困難な事柄が、インターネットなら簡単に理解できると信じるのは間違っている。物理法則をあらわす公式が、紙に書かれている時は理解できないが、コンピュータの画面上に映っていると理解できる、ということはあり得ない。したがって、もし基礎的な理解力がなければ、検索して現れた情報を使いこなすことはできない。ある程度高度に専門的な分野における情報検索は、その分野の基礎的な理解があって初めて可能になるのであり、情報検索さえできれば基礎的な理解が不要になるわけではない。

・落ちこぼれの切り捨て
 子どもの自主性を重視することで生じるもう一つの問題は、劣等生が切り捨てられてしまう可能性である。苅谷氏は米国カリフォルニア州での実施例を紹介してこの点を批判している。親の教育水準が高く、収入も高いエリート校では、子供の自主性に任せる教育が成功した例がある。しかし全体としては自主性重視は学力の低下を招き、ほどなくカリフォルニア州は自主性に任せる方針を変更せざるを得なくなった。苅谷氏はこう指摘する。
「日本での子ども中心主義の教育は・・・学ぶ側の主体性は協調されても・・・学ぼうとしない子どもの主体性には言及しない」
 実際の教育の現場では先生方はまさに”学ぼうとしない子どもの主体性”と格闘している。自主性に任せても学力がどんどんのびていく優等生はそれでいいだろう。しかしそうでない子供は、自主的にやれと言われれば学ぶことを放棄するはずだ。すでに紹介した学習時間の調査結果はそのことを裏付けている。

・知識の詰め込み?
 そもそも、知識の詰め込みをやめて学習意欲を高める、という発想が間違っているのではないだろうか。社会的な問題に対しても、また自然科学に対しても、ある程度の知識を持って初めて興味や関心が生じる。ゆとり教育では、そのある程度の知識を与えることさえ、詰め込み教育として否定されてしまった。次の新聞記事はそのことをよく表している。
「大学生と高校生のほぼ半数がイラクの場所を知らない。日本地理学会からこんな調査結果が発表された。
(中略)
『今の小学生は日本の都道府県の名前や場所を教えられていないんですよ』彼(陰山英男氏)からこう聞かされて、仰天した。教えなくていいことになっているので、教科書にも出てこない。
 中学の地理はどうなのか。アメリカは必ず学ぶが、ヨーロッパとなるとどこか一カ国を学んで終わり。多くの教科書がイギリスかフランスかドイツを選んでいる。アジアは中国かマレーシアだそうだ。
 ・・・高校の地理は選択制だから、子供たちは日本の地理も世界の国々のこともろくに知らないで大人になっていく。
(中略)
陰山校長は、『居間に地図と地球儀を』と声を高くする。戦争や地震があってもその場所が浮かばない。そんな子供が大勢いるのは、やっぱり悲しい」
05年4月 朝日 夕刊 「窓」 川名紀美
 この記事を書いた記者は、知識が与えられなかったことで子供たちの社会的な事件に対する関心が薄れてしまうことを恐れている。ニュースに接しても、その地域に関する知識がなければ具体的なイメージを持つことができず、関心もわいてこない。社会への関心が薄れれば学習への意欲もさらに弱まるはずだ。学習意欲を高めると言いながら、文部省はここでもまったく逆効果となる方策をとっていたことになる。
(陰山氏は百マス計算で有名である。単純な演習を繰り返し課すという発想は、一部の優等生ではなく子供全員に視線を向けていた結果生まれたものだろうと思う)

・学力分業論
 新教育課程では学習内容を削減し過ぎているという批判に対し、苅谷氏との対談の中で寺脇氏はこう反論している。
「・・・小中学校の時はスロースタートでいいから少しずつやって、高校、大学はペースを上げるわけで、中学三年卒業時点の学力は落ちると思うけれど、トータルに見たら今と変わらない学力を維持しているということです」
これは欺瞞であり、その場を取り繕う典型的な官僚のレトリックである。実際は、川名氏の記事が指摘するように、また数学力に関し最初の方で述べたように、高校では以前から選択制が取り入れられている。高校で地理を選択しなければ、地理の知識は中学卒業時点をピークに低下するのみである。
 地理と同様に、自然科学分野でも中学までに学ぶ内容は徐々に減少し、02年からの新課程ではさらに大きく削減されてしまった。たとえば、物理では直流・交流を学ばない。またイオンも学ばない。イオン補給の清涼飲料水を飲みながら、イオンが何かを知らない。学ぶ機会を与えられない。また比熱についても学ばない。
 中学までに学ぶ内容こそがすべての子供が共通に学ぶ内容であり、高校でペースを上げたとしてもばん回できるのは文系あるいは理系の片方の科目だけだ。
 寺脇氏は同じ対談の中で、これまで日本人が共通して持っていた知識・能力が低下する、という指摘を受けて今度はこう言っている。
「学力分業論という考え方ですよ。昔はすべての子に、国語も算数も社会も大好きな、できる子になってほしいという美しいフィクションがあって、全部を押し付けてきた。今後は『自分は数学という分野で日本の社会の活力となっていきますよ』という学力分業論の考え方でいい、ということです」
 つまり、理系に進む人間はイラクがどこにあるか知らなくてもいいし、文系に進む人間は直流と交流の区別を知らなくてもいい、と寺脇氏は主張している。
 また2000年の時点で中学校長会の会長という職にあった人物は、別の対談の中で次のように言っている。
「我が国を根底から支えるマンパワーを低下させてはならない。だが、このことと国民大衆の平均的な知的水準を混同してはいけないと思います。」
 田村氏もある対談で同様の主張をしている。高校間の教育レベルの格差が大きくなるという批判に対して、彼はこう反論した。
「それがむしろエリート教育につながる契機になってくれればいいのです。・・・彼ら(エリート)が育ってくれれば、日本は国際社会で生きていけます。」
ここで表明されているのは、文系理系のような専門分野による分業ではなく、エリートと大衆との間の分業である。国を支えるエリートには高度な教育をしなければならない。しかし大衆にはその必要がない。中学までの学習内容の大幅な削減は、このような論理でもって正当化されているのだ。

・民主主義の危機
 先ほどの記事と同様の問題意識に基づく記事をもう一つ紹介しよう。
「98年にあった会合を思い出す。省庁再編で文部省と科学技術庁が統合することになり、文部省の幹部が科技庁詰めの各社科学記者と顔合わせし、意見交換をしたいということだった。完全学校週5日制に向けて、理科の授業時間数を大幅に削る方針が打ち出され、教育界や研究者が強い危機感を訴えていた時期だった。
『実験や観察の時間が減り、理科離れを加速させるのではないか』『政府として科学技術創造立国を掲げているのに、矛盾する』。普段は取材競争を繰り広げている各社記者が、期せずして共同戦線を張った。
だが、出席した文部省の局長は歯牙にもかけず、『みんなが研究者になるわけではないから』と言った。
理科教育の目的が、研究者や技術者養成だけであるはずがない。他の教科同様、自分自身や世界を考える視点や方法を身に付けることが本質ではないか。たとえばアインシュタインの導いた『E=mc2』の公式が、美しい星の輝きにも、ヒロシマ・ナガサキの惨劇にも通底することを知って、新しい世界像を獲得した人は少なくないだろう」
05年4.19 朝日 夕刊 「記者席」 大牟田透
 イラク戦争で米軍が劣化ウラン弾を使用した、というニュースに接したとき、もし中東の地理歴史や物理学に関してまったく知識がなかったら、その米軍の行為を是とするか否とするか判断することは不可能である。社会で起きている出来事に対して判断をくだすには、必ず何がしかの基礎的な知識が必要だ。そうした知識を与えない、学ばせないということは、判断する能力を子供たちつまりは将来の大人たちから奪うということだ。結果的に、ゆとり教育路線は民主主義を根底から切り崩していくだろう。民主主義とは人々の判断に基づいて社会を動かしていくことであり、人々が判断できなくなれば民主主義は崩れていかざるを得ない。
 文部省が民主主義の破壊を意図したかどうかはわからない。もしかしたら、一部エリートが好きなように社会を動かし、あとはエリートの言うことにただ従う無知な大衆と専門バカしかいないような社会を夢見た官僚がいたかも知れない。いずれにしても、非民主主義的な価値観、感性を持った人間たちが、ゆとり教育路線を作り上げていったと見て間違いはないだろう。


(4)おわりに

 この文章は理屈に基づいて主張できることだけを主に述べていて、具体的なデータが必要な議論はあまりしていない。また最後にあげる少数の一般的な文献だけが主な情報源になっている。
 学力が低下したか、国際的なランキングが上がったか下がったか、についても議論していない。正直あまり興味がなく、特に国際比較はあまり重要とは考えていない。
 それから、具体的な教育内容についてもほとんど触れていない。内容を削減するにしても削減の仕方があり、特に理科については削減の仕方に大きな批判があるが、全体の議論の流れの中にそのような各論をうまく入れることができなかった。
 また、批判ばかりで具体的な提案をしていない。これはその能力がないためだ。唯一提案できる改善策は、文部省にこの国の教育をおもちゃにするのはやめてもらう、ということぐらいだ。


苅谷剛彦「教育改革の幻想」ちくま新書
戸瀬信之、西村和雄「大学生の学力を診断する」岩波新書
市川伸一「学力低下論争」ちくま新書
「中央公論」編集部・中井浩一編 「論争・学力崩壊」中公新書ラクレ
中井浩一編 「論争・学力崩壊2003」中公新書ラクレ
丹羽健夫「悪問だらけの大学入試」集英社新書

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